青の再来
第一部
第1話
ここへ来るのは、随分と久々のことだ。
中禅寺湖を望む旅館の一室で窓際に立った花沢
「――以上で当旅館についての説明を終わりますが、館内設備やサービスについての不明点などございましたら、九番までお電話頂きますようお願い致します」
丁寧な説明を終えた仲居の男が部屋から去ると、両親は荷物を整理して早速出かける準備を始めた。
「さぁ、陸。おばさんのとこ挨拶に行くよ」
陸の母親には、二つ年上の姉と一つ年下の弟がいた。弟はある時に家を飛び出したきり、そのまま音沙汰がない状態が続いているが、姉の方は彼らの宿泊する旅館から歩いて十分ほどの場所に店を構え、そこを住まいとしても利用していた。
両親は家族旅行を兼ねて久々に挨拶へやって来たようだが、面識のない彼にとっては単なる不安要素でしかなかった。
「それじゃ、行くか」
父親は重い腰を上げながら、小さくため息をついた。「
「優しい旦那さんだって、お姉ちゃんは言ってたわよ? あなたも何年か前に二人でお酒飲みに行ってきたじゃない」
「まぁ、そうなんだけど……」
父親は暗い表情を浮かべ、「職人気質っていうのかな。あの人は無口で不愛想で、笑顔一つ見せやしないんだよ。何を考えているんだか、まるで分からないな」
「あら、無口な人って格好良いじゃない」母親は目の前の冴えない男を鼻で笑いながら、鍵を持って入口の方へ歩き出した。
「ほら、陸。行きましょ。晩御飯までにはこっちに戻ってこなきゃだし、ささっとね」
「はい」
静かに返事をした陸は母親の後ろに続きながら、なぜ彼らが親戚を訪問するにあたり、宿を別で押さえているのかが気がかりだった。
あちらに宿泊するスペースがないのだとすれば、ある程度は納得もいくが、それならばどうして、食事付きの高級旅館を選ぶ必要があるのだろう。食事なしのペンションにでも荷物を置き、久々に会う家族と共に団欒を過ごせば良いではないか。
彼らの家族間もまた、不和が生じているのか。
旅館を後にした一行は急な坂道を下り、左右に伸びた道路を左方向へ道なりに歩いて進んでいく。右手の道路を渡った先がすぐ中禅寺湖のほとりで、ガードレールの向こうには広大な湖が広がっている。天候に恵まれず、くすんだ色をした湖面の上空を比較的早い速度で灰色の雲が流れていた。
「今回は手土産もあるしな。少しは笑ってくれるといいけど」
父親は手に持った風呂敷を大事そうに抱えながら、不安げな表情でずれ落ちた丸眼鏡に手を触れている。
「あんまり苦手がらず、優しく接してあげてよ。達央さんは二十代の頃に家族をみんな失って、天涯孤独だったっていうんだから」
「え、それは知らなかったな!」
父親は驚いたように目を見開き、「家族そろって何かやばい関係の仕事をしてたとか、そういうのじゃなければいいけど……」
「ちょっと、失礼でしょ!」母親は彼を怒鳴りつけ、「そりゃお姉ちゃんだって、若い頃はホステスだったし、そういう関係の人も相手にはしてたけど、達央さんとは別のところで出会ったって言ってたもん」
「何だか、僕らとは縁遠い人たちだなぁ」
「陸も、あの二人に会うのは結構久々よね。前に会った時は、まだ小学生だったかな?」
「あまり覚えてないです」
俯いてそう答えた陸はスマートフォンで現在地の情報を取得し、画面をじっと見つめていた。緩やかなカーブを繰り返して進んだ先には中禅寺の立木観音があり、その向かいには歌ヶ浜駐車場や遊覧船の発着場が表示されている。
彼らの姉夫婦が営む店はその道中にあり、地図上にも店名が載っていた。グーグル検索で見る限りでは店頭に日光彫りの椀物や置物が売られ、奥が茶屋になっているようだ。
「あれ? この辺だった気がするけど。あなた覚えてる?」
「いやぁ、僕もうろ覚えだなぁ」
前を行く二人がきょろきょろと周囲を窺っていたので、陸は前方を指差し、「もう少し行って、左手にあります」と言った。
振り返った二人は不思議そうに首を傾げていたが、携帯電話を手に持った彼を見ると母親は納得したように頷き、「あぁ、そっか。ありがとね。やっぱ最近の子は頼もしいわ」と答えて笑顔を寄こした。
最近の子、か。……なぜ、違いに気づかないのだ。
店の前に到着すると、ガラス張りの壁の向こう側で真剣な表情を浮かべながら、日光彫りを実演している男が座っていた。頭にタオルを巻き、鋭い目つきで木板を睨みつける男は、こちらに気づくと立ち上がって深々と頭を下げた。
「あ、達央さん。お久しぶりです!」
陸の両親は大袈裟に挨拶をしながら店の中へと入っていった。
「あら、ちょっと痩せたんじゃないです?」
「いやぁ、仕事中に申し訳ないですな」
などと言いながら、二人は彼の前であたふたしている。
頭を上げた達央は表情を変えずに彼らを見つめ、時おりちらちらと店の奥を窺っていた。
なるほど、彼が噂の達央か。確かに人相の悪い男だ。ヤクザ者と言われるのも無理はあるまい。
「あぁ、汐里。早かったわね」
店の奥の暖簾を捲って顔を出したのは、すらりとした背の高い色白の女だった。Tシャツ姿にエプロンを纏い、お盆を片手に笑顔を浮かべている。
「日奈子さん、お久しぶりです。すいません、まだ営業中なのに押しかけてしまって……」
父親は眼鏡を押さえながら頭を下げている。
「そんなぁ、大丈夫ですよ」
日奈子は目尻の辺りに皺の寄った笑顔を崩さず、二人に手を振った。
なんとも、気立ての良い女性か。
「今ちょうどお客さんもいないから、すぐ片づけちゃいますね。たっちゃん、そっちも今日はおしまいにしよっか。二人のお相手してあげて」と言い残すと、彼女は素早く奥の座敷へと姿を消した。
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