第2話
ラウンジを行き交う人々は、煌びやかな装飾品を纏った裕福そうな者ばかりだ。よれたTシャツ姿の佑来にはどうにも場違いな所であると、いつも思わされる。
母はそんな彼らに負けじと派手な装飾品で身を飾り、仕立ての良さそうな衣服を毎度コロコロと変えてくる。再婚相手から大事にされているのは良いことだが、それにしたって彼女も似合わない真似をしているものだ。
「もう少し頑張れば良い役職を貰えそうだって、前に話したでしょ? あんたもいずれは、お父さんのところで雇って貰えるようお母さんが頼んであげるから」
「誰がそんなこと頼んだよ?」
「だってあなた、いつまでも夢ばっかり見てても、生きていけないでしょ」
「夢は叶えるものだ」
「そんなの、ほんの一握りの人間の話よ」
言い捨てるようにそう言った母は、小さな化粧ポーチから佑来の嫌いな薄荷の香りのする煙草を取り出し、それを咥えて火をつけた。一息に大きく吸った後、彼女が灰皿に置いた煙草のフィルターには、燃えるような赤いルージュが色移りしている。
――発色の良い色だ。何色を混ぜれば、こんなに鮮やかな色味が出せるのだろう。帰ったら、すぐに試してみよう。
「今からでもこっちに来て、きちんと学校に入り直したら? あんたも、そろそろ友達とか欲しいでしょ」
「友達ならいる」
佑来は煙草のフィルターを熱心に見つめたまま、「学校で作るのは友達じゃなくて、知り合いだ。友達は意識しなくても出来てるもんだよ」
「あんたはまた、……あの人みたいな屁理屈言って」
祖母の家に彼が下宿するようになったのは、母が再婚をしてすぐのことだった。
再婚を反対したり、母の結婚相手が気に入らなかったわけではない。温和な性格をした彼は母より六つも年上で、彼女を大事にしてくれている。ホテルマンとして忙しく生活しており、稼ぎにも余裕のある彼は、母だけでなく佑来に対しても豊富な資金援助を持ち掛けてくれたが、彼にはそんなことをされる筋合いがなかった。
何となく、気づまりだった。
父を失った家庭に別の人間が越してきて、それらを当然のように養っている。まるで母鳥を失った燕の巣に、偶然通りかかったハチクマが餌を与えるようなものだ。
自分と、母と、亡き父がひどく惨めに思えた。彼には何の罪もなく、むしろ好意で良くしてくれることには感謝していたが、それでも施しであることには変わりなく、親が子供に向けて自然と差し伸べる手とは、初めから仕組みが異なっている。
そんな環境に耐えきれず、高校を辞めた佑来はすぐに祖母の家を訪ねると、そのまま住み込みで彼女の仕事を手伝い始めた。
早くに祖父を失っていた祖母は、すんなりと彼を受け入れてくれた。伴侶と息子、その両方を失った彼女にとって、佑来の存在は大きかったのだろう。時おりぽつりぽつりと父のことを語り、祖父のことを語り、佑来にもその影を感じると嬉しそうに語った。
――今日は、二十点取ったよ。
いつものように、試合を終えた彩葉からメッセージが送られてきた。佑来は畳の上で寝ころびながら携帯電話を眺め、メッセージを打ち返している。
「前は三十点取ったのに、今回は少ないんだな」
――ばか。三十点なんて、そんな簡単に取れるもんじゃないよ。
「そっか。今日も頑張ったな」
――あんたは? 今日は何枚描いた?
佑来は寝返りを打ち、少し悩んでから返事を打ち始めた。
「俺は、今日は描けてない。母さんと会ってたから」
――あぁ、恒例のやつね。
佑来はそのメッセージを眺め、自身の描いた人物画に目を遣った。
最近は同じようなトーンに仕上がることが多い。瞳の奥はどんよりと曇り、魂の抜かれた人形のように生命力を失った彼らは、皆一様に考え事をするような、道に迷ったような不安な表情を浮かべている。
ここらが彼の絵描きとしての限界であると、描かれた彼らが訴えかけてくるように思えた。佑来は携帯電話を畳の上に置き、このまま眠ってしまいたいと思いながら、気怠さを帯びた身体を丸め始めた。
慣れているはずの家の音鳴りも、今ではどこか不気味に響き、まるで彼を迎えにやって来た死神たちの足音のように思われた。音も、色も、匂いも、肌ざわりも、何もかもを失った暗がりに彼は連れ込まれ、そこで永久に閉じ込められてしまう。そこには夢も希望も存在せず、ただただ闇がすべてを覆いつくす。
そんな場所と自身が溶けあっていく想像をしているところへ、彩葉から追加のメッセージが送られてきた。
――でも、それって描けてないのと何か関係あるの?
暗がりのなか、その言葉を見た佑来は、自身の持つ大きな目を見開いた。時間を確認するとすでに二十三時を回っている。
だが、まだ今日は終わってない。
立ち上がった彼は、急いでスケッチブックと鉛筆を鞄に詰め、自転車に乗って夜道を突っ走った。鞄についた熊避けの鈴が周囲に甲高い音をまき散らしている。坂道を登り、途中で森の中に入ると、月明かりが時おり見え隠れするものの、視界が恐ろしく狭くなった。自転車のライトだけを頼りに車幅の狭い低公害バスのルートを辿る。
小田代が原のバス停付近に到着した佑来は、鞄に詰め込んできたラジオを取り出し、適当なチャンネルに合わせた。声の綺麗な女性がしっとりとした声量で、何事かについて語っている最中だった。
金網の中に入った佑来は、木製の柵に身を乗り出し、小田代が原の湿原を眺めた。暗くて貴婦人の存在を目視することは出来なかったが、何度もここへ通い、あの姿を描いて来た彼には、まるで一筋の白い光が見えるようだった。
「時刻はまもなく、零時を回るところですが――」
ラジオパーソナリティーがそう話すのが聞こえ、佑来は慌てて鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。今回の目的は残念ながら貴婦人ではなく、あの日、彼からカメラを奪った猿が登った、何の変哲もない樹木だ。
ラジオから音楽が流れ始めた。それは、『Lights』という曲だった。どんな暗闇の中でも、彼には光を照らしてくれる存在がいる。それだけ忘れずにいれば、彼は孤独と向き合い、未来へ向かって進んでいける。
彼が真っ白な紙に線を一本描き入れた瞬間、ラジオでは、零時を知らせるメロディが流れ始めていた。
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