第二部
第1話
「夢は見るものじゃなく、叶えるものだ」
父親が教えてくれた言葉を実践しようと、杉崎佑来は迷わず絵描きの道へ進んだ。
才能がないとは思わない。幼いころから何よりも絵を描くことが好きで、中学の頃は県のコンクールで入賞した経験もある。勉強の方はてんでやる気が起きず、いつも赤点すれすれの成績で過ごしてきたが、それでも父は、一本筋の通った男になれと変わらず彼を励ましてくれた。
俺にとっては絵がすべてだ。それ以外には何もいらない。
佑来は本格的な絵の勉強をすべく、高校を卒業後は専門的な機関で教育を受けるつもりだった。そのための大学も見つけ、進路調査でも一貫してそのように話してきた。
保守的な考えを持つ母はあまりいい顔をしなかったが、それでも彼が決めた進路を容認してくれたのは、父が常日頃、彼女を教え諭してきてくれた影響が大きかった。
そこまではっきりとした道筋を立てておきながら、彼は高校を中退し、今では祖母の手伝いをしつつ、独学で絵の勉強に励んでいる。
高校二年に上がってすぐの頃、彼の父は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
佑来の父は、それほど大成した人間と呼べる男ではなかった。中小企業の中間管理職を任されているものの、出世はそれほど望んでおらず、何より部下の育成や働きやすい環境づくりを提案する人物だった。
後輩にキャリアを追い抜かれようと焦ることもなく、むしろ彼らの背中を押し、上層部に掛け合うことも少なくなかった。それゆえ社内のご意見番として上司からも一目置かれ、後輩に慕われる人間だったと幼い頃から彼は聞かされていた。
そんな父の背を追い、一途に物事に取り組む純粋な男を目指すべく、彼は思い切って高校を中退した。
もちろん、経済的な理由もあった。隠れて父が準備してくれた保険金で当面の生活には苦労しなかったが、美大へ進学するほどの資金をあの頃の彼には到底用意できなかったし、母はこれを機に安定した道へ進んでほしいと考えていた。
ある日森の中で、佑来は一人の女の子に出会った。その子は溢れる才能を持ち、次に繋がる環境すら用意できる立場でありながら、一度の失敗でそれを捨てようとしていた。勿体ないことをするものだと思っていたが、それも杞憂に終わったようだ。
一時の気の迷いで夢を捨て去らず、今でもその環境に身を置き、必死でしがみついている様子を彼はこの目で見てきた。
「やっぱり、いろはのアタックは綺麗だなぁ」
「どの子が佑来の彼女だい?」
「彼女じゃないよ。友達だ」
祖母に時々ルールを教えてやりながら、佑来はインカレのテレビ中継を見ていた。努力したのであろう彼女の高いジャンプと鋭いスパイクを見ると、それだけで彼は励まされる思いだった。
「婆ちゃん、俺も次こそは、大賞取ってきてやるからな!」
彼女に出会うまでは主に風景画を描いてきた佑来だったが、あの年以降、彼は人物画を中心に自己流で研鑽を重ねている。人の想い、歓喜、苦悩、怒り、希望、そんな内面から溢れ出るものを捉える瞬間が彼は好きだった。
スワンボートを借りに来るのは大抵が男女のカップルで、そういった二人の間から発せられる幸福なオーラを見ると、彼も自然と気分が弾んだ。観光地ということもあってか、週末になると周囲は活気に溢れ、題材にも困らなかった。何より、彼と生活を共にする祖母の姿や、テレビで眺める彼女の姿が彼には大いに刺激的だった。
「あんたが楽しんで描いてるなら、わたしはそれでいいんよ」
そう答えながら、祖母は以前に彼が描いた【小田代ヶ原の貴婦人】を眺め、嬉しそうに微笑んでいた。
祖母が亡くなったのは、それからしばらく経った頃だった。
母の一存でスワンボートの経営は縁も由利もない他人に譲渡され、彼は祖母の家を一人で引き継ぐと、別の働き口を探した。田舎でも探せば仕事は案外あるもので、客商売の経験もあり、明るい性格をした佑来はどこへ行っても重宝された。
「いい加減、うちで一緒に暮らしたら?」
再三に渡って母からそう言われても、彼は頑として首を縦に振らず、自分の道を突き通した。数ヵ月に一度、母とは顔を合わせるものの、まるっきり彼を理解しようとしない彼女と話すことなど特になかった。
「俺はあの家と、あの場所が好きなんだよ」
母は決まって、佑来と会う時は市街地にあるホテルのラウンジに彼を呼び出した。彼女はいろは坂のヘアピンカーブが苦手だったし、何より田舎が嫌いなのだ。彩葉から送られてくる画像に映った都会の街並みに比べれば、ここも市街地も大した差はないというのに。
「お父さんだって、あなたが一緒に住んでくれたら嬉しいって言ってたし」
「そういうのはさ、普通自分の口で伝えるもんだよね?」
「あの人は忙しい人だから、時間が取れないのよ」
佑来は目の前に置かれた分厚いステーキ肉を睨み、「それに俺、まだあの人のことを、お父さんって呼べる気がしない」
「そんなこと言わないでよ、佑来」
眉を八の字にし、訴えかけるようにそう呼びかけながら、彼の手に触れる母の指には大きな宝石のついた指輪がはまっていた。
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