第3話

 同じ年頃に見える彼だが、すでに働いているとは驚きだった。学校には行っていないのだろうか。


「婆ちゃんの手伝いなんだけどさ、土日以外は結構暇だから、休憩時間になるとこの辺まで来てるんだよ」


「婆ちゃん?」


 話を聞くうちに分かったことだが、彼の仕事はスワンボートの貸出で、先ほどの老婆はこの子の祖母に当たる人物であるようだった。


「俺、絵を描くのが好きでさ。将来は画家を目指してるんだ。結構上手いんだぜ? コンペにもいくつか出してるんだ。でも画材に結構金が掛かっちゃうから、婆ちゃんの手伝いをしながら今は生活してるって感じ」


 聞いてもいないことを、ぺらぺらと喋る子。年齢を尋ねると、彩葉と全くの同じだった。画家なんて目指して、上手くいかなかったらどうするつもりなのだろうか。


「学校は?」と問いかけると、彼はその大きな瞳で彩葉を見つめ、「……絵は、習うもんじゃないだろ」と答えた。


 これはどうしようもない馬鹿者だ。もしもその道が絶たれた時、保険を用意せずにどうする。この男は、自分をあの貴婦人の木と同じく特別な存在だとでも思っているのか。


 彩葉は思った。私だって、つい最近まではバレーボール一本で十分だって考えていた。けれど人は少なからず失敗をするものだし、思い描いた将来のまま目の前に道がのびているとも限らない。可能性は多ければ多いほど良いのだ。


「ばか」


 と呟き、彩葉はその場を後にしようとしたが、彼は意に返さず右手を差し出し、「俺は杉崎佑来たすく。よろしくな」と言って屈託のない笑みを浮かべた。


 笑顔が、先ほどの老婆にそっくりだった。そのせいもあってか、彩葉は見えない強制力に自然と手を握り返し、「私は、風間彩葉」と遠慮がちに答えた。


「何で、俺が馬鹿だって知ってんだ?」


 彼は裏表のない表情で彩葉にそう問いかけた。どこまでも真っすぐで、純粋な瞳。


 だから彼女は教えてやろうと思った。彼の画力がどれほどのものかは存じ上げないが、そんなに輝いた瞳でいられるのも、挫折を知るまでの短い期間だけだと。後から焦って別の道を探そうにも、スワンボート研究家などという馬鹿げた仕事くらいしか選択肢は残されていないかもしれない。


 ……これは、優しさなんだ。


 そう思って彩葉は口を開きかけたが、彼は驚いたように目を見開き、彼女の後ろを指差していた。


 今度こそ熊が出たかと彩葉は咄嗟に走り出しそうになったが、「さる」と彼が呟いたので、「え、さる?」と尋ねながら慌てて振り返った。


 立てかけた自転車の籠を物色する茶色い生き物。あ、猿だ、と気づいた頃には、すでにカメラを手に木を登り始めていた。


「あ、俺のカメラ! 返せよこいつ!」と彼が叫ぶものの、枝の上に登った猿は赤いお尻を見せながら物珍しそうにカメラを物色している。


「あいつ、前にも来たんだよ」と言いながら、彼は慌てて自転車の籠からゴムボールを取り出した。


「どうするつもり?」と彩葉が尋ねると、彼はボールを木に向かって放り投げた。それは猿に直撃するどころか、見当違いなところへ弱々しくぶつかって落ちてきた。


「全然ダメじゃん」と言うと、彼は頭を掻きながら、「いやぁ、一応猿対策にこいつを持って来たんだけどさ、俺こういうの苦手なんだよな」と言った。


「あそこの枝に思いっきりぶつけたら、びっくりしてカメラを放り投げると思うんだけど、なんせ肝の据わったやつでさ、ちょっとやそっとじゃ笑い飛ばしてやんの」


「猿に直撃じゃだめなの?」


「それじゃ可哀そうだろ」


「お人好し」


「それを言うなら、お猿好しかもな」と言って笑う彼は、能天気と言えばよいのか、うつけと呼べばよいのか。


「ちょっと貸して」彩葉は彼からボールを借り、手のひらで感触を確かめた。


 ――うん。サイズ感は、だいたい同じかしら。


「上手くいかないかもしれないけど、私がやってみてもいい?」


「うん、どうせ俺がやっても駄目だし」


 先ほどまでの絵に対する自信満々な姿とは大違いだなと、わずかにため息を漏らしつつ、彩葉は彼にボールを手渡した。


「え? いろはが投げるんじゃないのか?」


「投げてもいいけど、こっちの方が得意だし」彼女は、適当な高さにボールを投げてもらうよう彼に指示した。


「このくらい?」と言って試しに投げたボールを眺め、「うん、それで良いよ」と答えた彼女は助走距離を取り、彼が放り投げるタイミングに合わせて思い切り地面を強く踏み、宙に向かって飛び上がった。


 空中で海老反りになった身体からしなやかに振り下ろされる右腕、その手のひらにボールが当たると、強烈な打撃音が周囲に響くとともにボールが猿の方へ向かい一直線に飛んでいった。それが足元の枝に当たると、驚いた猿はまんまとカメラを放り投げ、そのまま森の中へ素早く消えていった。


 落とした後のことまでは想定していなかったらしく、急いで樹木に向かって駆け出した彼だったが、それも間に合わずカメラは草むらの中に落下していた。


「あぁ、俺のカメラ」と言いながら、彼は拾い上げたカメラの状態を確かめている。


「……ごめん」


 彩葉はそんな彼の様子を眺めながら静かに謝ったが、振り返った彼はまたも屈託のない笑みを浮かべ、「何言ってんだ、いろはのおかげで取り返せたろ」と答えた。


「それより、すごいなさっきのやつ!」とはしゃいだ様子の彼は、自身の右手を振り下ろしながら、「いろはって、バレーボール選手なんだな!」と言った。


「別に、選手じゃないし」


 着地した後の足首の調子を見ながら、彩葉はぶっきらぼうにそう答えた。


 ――意外と、高く飛べた。何なら前よりも、高く飛べた気がする!


 彩葉は内心で心躍っていた。足も痛くない。リハビリって、無駄じゃなかったんだ。今の私なら、もっと上手くスパイクが打てるような気がする。……でも、やっぱりもう少し筋力をつけないと、これから先は通用しないか。


 視界が途端に、開けたような気がした。


 すっかり諦めたはずの夢。もうやるつもりもないと自身に言い聞かせながら、気づけば次にどんなトレーニングを行えば良いのかと思案している。


 目の前のこいつも馬鹿だけれど、その大きな瞳に映った自分自身も、相当に馬鹿者だと、彩葉は自覚した。今後上手くいく補償なんてどこにもないのに、どこまでも懲りない性格をしているものだ。


 そんな自身について考えていたせいか、すっかりほころんだ彼女の表情を眺めながら、彼も嬉しそうに笑っていた。そこへ来て彼が、「あっ!」と突然背後を指差すものだから、彼女はとうとう走り出した。


 それはまだ見ぬ熊への恐怖心からか、はたまた収まりきらない胸の高鳴りからか、彼女は素早く足を運ばせながら、自身の足の状態が良いことを心底喜ばしく感じていた。

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