第2話

「その辺のバス停から、だいたい行けるよ」


 なんとお粗末な回答か。スワンボートに乗らなかったことを根に持っているのではないかと訝しむものの、見ると老婆は屈託のない笑みを浮かべている。


「ありがとう、お婆ちゃん」お礼の言葉を述べると、老婆は皺だらけの笑みを崩さず、「熊に気つけてな」と言った。


 熊……。さりげなく恐ろしい言葉を使うものだ。


 彩葉は道路を歩いてバス停を見つけると、そこでしばらく待つことにした。携帯電話で調べてみると、どうやらここが二荒山神社前というバス停であるから、貴婦人のある小田代ヶ原までは赤沼バス停で一度降り、歩いて付近の赤沼車庫バス停まで行き、低公害バスに乗って小田代ヶ原バス停を目指す、と。


 思いのほか複雑な道筋に、彩葉は小さくため息をついた。老婆の言う通りにバスで進んでいたら、そのまま湯の湖まで行ってしまう所だった。


 低公害バスは、予想外の収穫だった。


 メイン通りから森へ向かって垂直に進み、バスの幅とほぼ同等の細い道を走り抜ける。一般車両の通行は禁止されており、低公害バスが通る際にだけ、鉄製のゲートが開く仕組みになっている。森林に囲まれた緑一色のその空間は、まるで幻想世界へ導く隠し通路のように浮世離れしていた。


「ここが、……小田代ヶ原?」


 彼女が下車したのは、狭い駐車場のようなところだった。隣に建っているログハウスはどうやら手洗い場らしく、その他にはなにもない。誰もいない。ただの森の中だった。


 ここは、有名な観光スポットではなかったのか?


 彩葉は森を抜ける途中で車から突然放り出されたような心地だった。バスが行ってしまうと周囲は静まり返り、鳥の鳴き声と風に揺れる木の葉の音だけが耳に響いた。都会では朝方でもこれほど静かな瞬間はないだろう。


 道路を挟んだ先に二メートルほどの金網があり、扉を開けて中へ入ると広々とした湿原が見られた。湿原内への立ち入りを禁じているらしく、腰ほどの高さの木製の柵が外周を覆うように設置されている。柵に沿って遊歩道が左右に伸びており、どちらも森林の中へ続いていた。


 ――これが、小田代ヶ原。


 と、彩葉が湿原の奥に視線を遣ると、正面に佇む一本のシラカンバを発見した。深緑に覆われた湿原内で、それだけ唯一光を帯びた、一筋の発光体のような存在に彼女は思わず息を呑んだ。


 背後にそびえる山々、青空に広がる雲、湿原を囲むように生い茂った樹林、中央で太陽光の照り返しを受ける池沼、それらすべてを凡庸なる背景として捉えさせるほどの輝き、気品すら漂わせるその樹木に”貴婦人”と名付けられた理由が、一目見ただけでも分かる気がした。


「すごい……」


 彩葉がうっとりした表情で見惚れていると、背後で木の葉を踏む音が聞こえた。


 うそっ、熊……?


 そう思うや否や、彩葉は確認もせずに俯いて遊歩道を早足に歩き出した。リハビリを終えているとはいえ、まだ走るのには抵抗がある。背後から、何者かが追いかけてくる気配が感じられた。


まずい、距離を詰められてる…。


 駆け出すべきか悩んでいるところで、勢いよく肩を掴まれた。


「あんた、こんなとこで走ったら危ないよ」


 彩葉はその場で飛び上がりそうになったが、後ろを振り返ると、そこには彼女と同じくらいの背丈の男が立っていた。


「えっ?」


 彩葉が思わず間の抜けた声を出すと、息を切らせた彼は呼吸を整えてから、「近くに熊がいたらどうすんのさ?」と言った。


 どうするって、逃げるに決まっているではないかと思いつつ、じっと彼を見ていると、男は呆れたようにため息をついた。


「知らないのか? あいつらは素早く動くもんに反応すんだよ」


「知らない」と冷たく答えながら、彩葉は男を観察した。


 汚らしいTシャツに作業パンツを履き、どちらにもペンキのような塗料が飛び散っている。色黒の肌にぼさぼさの髪、大きな瞳をぎょろりと見開きながら彼女を睨みつけていた。とても観光客には思えないが……。


「妖精?」と呟くと、彼は見開いた瞳を近づけ、「お前、頭大丈夫か?」と尋ねた。


 大丈夫かと問われれば、非常にひっ迫した状況とでも表現すべきだろう。彩葉は首を傾げる彼に「冗談だよ」と言うと、僅かに表情を緩め、「教えてくれてありがとう」と答えた。


「まぁ、驚かしちまったのは、俺の方だし」


 男は照れたようにぼさぼさ頭を掻いた。「あんたがちょっと視界の邪魔だったから、どいて欲しくて声掛けようとしたんだよ。そしたら急に逃げ出すもんだから」


「視界?」


 それより、邪魔とは随分な言い様である。こんなにだだっ広い湿原なのだから、どこから眺めたって大した差はないだろう。自分が動けば良いのに。そう思いながら彩葉が顔をしかめていると、男は金網のあった入口の辺りを指差し、「あそこからのアングルで撮りたくてさ」と答えた。


 彼が案内してくれる方へついて行くと、そこには樹木に立てかけた自転車と、籠の中にはデジタル一眼カメラ、それに何故かゴムボールが入っていた。


「この角度から見える貴婦人の写真が欲しくて、休憩時間に撮りに来たんだよ」


「どうして、その角度?」と彩葉が尋ねるよりも前に、彼は勝手に説明を始めていた。


「俺、貴婦人の絵を描いてるんだけど、ここにキャンバスを持ち込むと怒られるんだよな。観光客の邪魔になるし、長時間じっとしてるのも危険だからって言われて」


「あぁ」彩葉が頷くと、彼は嬉しそうな表情で続けて、「だから参考資料として、写真を撮っておこうかと思って。そしたら家でも一応描けるだろ?」と言った。


 写真で良いなら、それらしいものがインターネットでいくらでも手に入るのではないかと思ったが、彩葉は指摘をしなかった。代わりに「休憩時間って?」と尋ねると、「俺、普段は湖で仕事してんだ」と彼は答えた。

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