凡庸は罪か

第一部

第1話

 白状します。私、……最近怠けてます。


 高級旅館の大浴場。温泉に浸かった風間彩葉いろはは、短期間ですっかり緩み始めた二の腕に触れながら、心の内でそう告白した。


 足首の怪我で前線を退いて以降、ベンチ外で賑やかしの応援要員として過ごしまま、彼女はとうとう高校最後の大会を終えた。メンバー登録すらされていない選手に大学側からのスカウトが来るはずもなく、引退後は受験勉強に専念するという大義名分を掲げ、今では身体のメンテナンスをすっかり怠っていた。


「別に、大学に行ってもやるとは決めてないし……」


 一人で言い訳をする彼女は、幼少期からひたすらバレーボールに打ち込んできた。他のことに目移りした記憶もなく、このまま大学に行っても当然続けるものだと暗黙のうちに思い込んできた。


 その気持ちが、怪我をきっかけに揺らぎ始めた。


 このまま惰性で続けた果てに、一体何を得るというのだろうか? インカレで活躍してプロを目指す? 正直言って、腕前は高く見積もってもせいぜい中の上といったところだ。区の選抜に選ばれても、県の代表にまでは残れない。「君って意外と上手いんだね」と、素人を驚かせる程度のものだろう。


 それでも毎日、脇目も降らず厳しい練習に励み、監督の叱咤に耐え、他の部員を蹴落としてレギュラーの座を守ってきた。どこまでも高く飛びたいと純粋に願いつつ、最後の大会が近づくにつれ、諦めにも近い気持ちがすでに芽生え始めていたのかもしれない。


 それを象徴するかのように起こったのが、平凡な着地ミスによる足首の骨折。終わってしまえばどうってことはない。チームに必要な部品から、傷んで不要となった部品の一員になっただけだ。結果が伴わぬ努力に、意味なんてあったのだろうか。


 私は今、第二の拠り所を探している!


 彩葉は焦っていた。十七年という短い年月ながら、彼女はそのほとんどをバレーボールという世界につぎ込んできた。それ以外に興味を持った経験のない彼女にとって、熱意を注げるものを探すことが、これほど骨の折れる作業だとは思ってもみなかった。


 精神的に安定せず、何かを見かけたそばから、それが本当は自身にとって最も相応しいものだったのではないかと自問する日々。全くもって、受験勉強どころではなかった。


「温泉の専門家っていうのはどうだろ」


 各地の温泉地を巡り、効能やら湯の加減やら、ついでに旅館の設備やらを事細かにリサーチし、評価する。近頃は若きユーチューバーたちが各地で群雄割拠する時代だ。どんなにニッチな対象物でも、何が当たるか分からない。


「げっ……。虫浮いてるし」


 露天風呂に移動した彼女は、水面に浮いた小さな羽蟲に寒気を覚え、そそくさと室内の大浴場に戻った。……うん。温泉の専門家はよそう。


 浴室を出て女湯を後にした彩葉は、廊下で待つ兄の涼しげな表情を見ると妙に腹立たしくなり、風呂に虫が浮いていたことから色々と八つ当たりをした。


 それでも何かと壺を心得ている兄は、彼女の機嫌が直るようすぐに取り計らってくれる。個人的な事情からおまけで連れて来てくれた温泉旅行とはいえ、彩葉にとっては良い機会だった。


 この休暇を利用して、本来の自分自身を探し当てるのだ。そのためには、これでもかというほどに甘え倒して兄を利用してやろう。日光という、ある種自然に偏った立地ではあるものの、新しい発見が得られる良い環境かもしれない。


 そんなどこぞの学者気取りで翌日の朝食を終えた頃、兄はなぜか突然一人でどこかへ出かけて行った。戦利品は五千円ぽっち。高級料理の食べ歩きとはいかないようだ。


 さて、どこへ出かければ良いのやら。


 お決まりのポニーテールで髪を決め、慣れ親しんだ運動靴で中禅寺湖のほとりを歩き始めた彩葉は、唐突に不安な気持ちになった。部活三昧で日々を過ごし、団体行動に慣れ切っていた彼女は、一人で遠出をした経験がなかった。


 彼女と同じ名前の【いろは坂】にはいくらか興味を惹かれるものの、あの長い坂道を一人で越えるほどの勇気が彼女には持てなかった。


「近場で何か、探してみるかな」


 イヤホンを耳に差し、試合前によく聴いていたブラック・アイド・ピーズを流しながら、旅館のフロントにあった周辺の観光マップで付け焼刃の知識を叩き込む。山、滝、別荘跡地、神社……。今のところ、どの候補地にも彼女はあまりピンと来なかった。


 湖畔には所々に傷んだボートが放置され――どれも誰かしらの所有物ではあるのだろうが――、まるで難破船のようにみすぼらしく、うら寂しい光景だ。


 都会では頻繁に見られるはずのコンビニも周辺になく、ぽつりぽつりと軒を連ねる古びた建物には誰が喜ぶのか分からないお土産品や、営業中かどうかも判別不能な飲食店が見られた。


 寂れた観光地を巡る旅人とか? ……それこそ、誰が喜ぶんだ。


 なら、ご当地グルメとか。……うーん、何だかありきたり。お金もない。


 やはり、ここで私の興味を引くものを探すなんて無理なのだろうか。……駄目だ駄目だ! 何か見つけるまでは帰れないぞ。


 と、そこで目に入ったのは巨大な鳥居だった。そして、道路の先には趣深い神社。あぁ、心底興味が持てない。日本史にも宗教にも歴史建造物にも、私は全く興味がないのだ。そもそも勉強全般に興味がない。受験生としてこれで良いのかとふと思ったが、彩葉はそんな気持ちをスパイクで鍛えた手の平のひと振りで払拭し、次の対象を探した。


 あ、かわいい。


 彼女が次に目をつけたのは、湖畔沿いに並ぶスワンボートだった。近くで見るとどれも微妙に個体差があり、表情が異なっている。


 あらあら、泣かないでよ。


 胸の内で呟きながら彩葉が見つめていたのは、大粒の涙を流す小汚い白鳥だった。上陸した白鳥たちは順に列をなしており、三列構成の最も陸地側に位置したこの子からは、その表情の憂いがより一層引き立たされている。


 スワンボート研究家!


 そんな酔狂な職種がすでに実在するのかどうかはさておき、彩葉はそこいらに並ぶスワンボートを順に眺めていった。やはり各個体によって、表情や瞳の色、首の曲線が違う。大きさもいくつかあり、肌触り、座席のレイアウト、色もまちまちだ。


 おっ、ブラックスワン!


 黒いスワンボートがあるとはついぞ知らなかった。威圧的な身体の色のわりにつぶらな瞳をしている。こいつだけ貸出事務所の手前に置かれ、他の粗末な置かれ方をした白鳥たちとはまるで扱いが異なっている。重宝されているな。


 これって、なかなかの着眼点じゃない? と自分自身を褒めながら、これは結構向いているのではないかと彩葉が湖畔沿いを歩いていた時だった。木製の桟橋に立つ麦わら帽子を被った老婆がこちらに向かって手を振っている。


 何事かと思いイヤホンを外すと、「お嬢ちゃん、ボート乗ってくかい?」と言いながら、彼女は料金表を指差している。


 なるほど、時間単位で貸出料金を設定しているわけだ。この可愛らしいフォルムの足漕ぎボートで、湖のどこまで進むことができるのだろうか。研究家の端くれとしては大いに興味が湧いたが、「それより、一人でスワンボートってちょっと痛くない?」と揶揄やゆする内面の自分自身に負け、彩葉は老婆の誘いを断った。


 道すがらの近辺調査と称し、老婆にこの辺りでおすすめの場所を聞いたところ、彼女は”貴婦人”というワードを寄こした。


「貴婦人……?」


 小田代ヶ原のひっそりと静まり返った湿原に一本だけ佇む、美しいシラカンバだという。樹齢七十年を超える樹木が放つ幻想的な雰囲気に敬意を込め、そう呼ばれている。


 なんて、特別扱いかしら!


 彩葉はたった一本の木に軽い嫉妬心を抱きつつ、そのネーミングにはかなり惹かれていた。ちょっと見に行ってみるかと、彼女は老婆に行き方を尋ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る