第2話
翌日、目覚めてすぐに風間が携帯電話を見ると、深夜にSNSの更新があった。
「職場の奴らと飲みに行ったか」
また杉野とかいう奴がいる。彼の隣をしっかりとキープしたこの男のことが、風間はどうにも気に入らなかった。
カーテンを捲ると鋭い陽ざしが室内に差し込み、隣の布団で眠る妹はうざったそうに唸り声を上げている。
僅かに窓を開けて空気を入れ替えた風間は、投稿された隼人の写真を子細に眺めた。裏垢をパートナーがひっそりと盗み見ているとも知らず、相手は楽しげな表情で同僚たちと酒を酌み交わしている。
この悶々とした気持ちをどう処理したものか、風間は悩んでいた。冷蔵庫から取り出した炭酸水を飲み、煙草をふかし、悲しみの三重奏曲を第二楽章から再度聴き返した。
やはり第三楽章への道のりはまだ訪れない。再び第一楽章へ戻り、しばらくすると妹が目を覚ました。気づけば朝食の時間が近づいている。食い意地の張った妹だ。
「――湯葉推しも甚だしいね」
地元の食材をふんだんに使った献立にぶつくさと文句を言いながら、ちゃっかりご飯のお代わりまでする肝の据わった妹との食事を終え、風間が席を立つと仕切りで囲まれた別の個室席に昨日の彼の姿があった。
どうやら彼は両親と宿泊しているらしく、今日は一人で外出してくるよう促されているようだった。ちょうど良いところに遊び相手を見つけた風間は、口元に薄っすらと笑みを浮かべてその場を後にした。
「俺、今日はちょっと出てくるから」
「えっ、わたしは?」
エレベーターホールで隣に立った妹は、不安げな表情で彼を見つめている。
「ほら、これやるから」風間は財布から五千円札を抜き、「お前も勝手にどっか好きなところ見に行ってこい」
ここまで来て放置かと、妹は心底不愉快そうなため息を漏らしたが、そんなことは彼の知ったところではない。
部屋に戻った風間は早速準備を整え、受付近くのラウンジに腰かけて彼が姿を現すのを待った。
まもなくして、彼はやって来た。改めて見てもどこか垢抜けない雰囲気を持った男だったが、やはり磨きがいがあると感じた。
彼はとても純真な男だった。風間が視線を遣る度に身体をもじもじとさせ、頬を赤らめる。従順で、世間知らずで、パートナーのいない穴埋めをするのに程よい相手だ。
流れで遊覧船のチケットを買ってやると、忠犬のような瞳を輝かせながら、「借りは返す」とのたまっていたが、そんな背伸びをする様子も可愛げがあって良かった。
携帯電話を確認すると、また隼人がSNSを更新していた。そんな暇があるのなら、こちらに連絡の一つでも寄こしてもらいたいものだと思いながら内容を見ると、昨晩共に酒を飲んでいた杉野と一緒に外出しているじゃないか。
……カラオケだと? あんな個室に、まさか二人で行ったわけではなかろうか。
服装が昨晩から変わっていない。徹夜の多い職種に従事している隼人が仕事終わりに好んでカラオケに行くことはもちろん知っているが、決まっていつも隣に座り、迷惑を掛けられるのは風間の役目のはずだ。
頭にきた風間は、隣に立っていた彼を咄嗟に抱き寄せ、自身のSNSに近況として投稿してやった。隼人がこれを見るかどうかは分からないが、こちらもただ黙っているわけにはいかない。
遊覧船に乗ると、風間は彼を誘って甲板に出た。吹き寄せる風がひんやりと気持ちよく、都会よりも空気が澄んでいることを実感させられる。
遠方に臨む男体山には二荒山神社の鳥居が、対岸には山間に立木観音の屋根が垣間見られた。途中で通り過ぎたイタリア大使館別荘記念公園や、英国大使館別荘記念公園などは風間が宿泊している旅館よりも遥かに眺望が良さそうであり、一度はあんな所に別荘地を構えてみたいものだと思った。
船に酔ったのか、彼の体調が優れない。このまま喫茶店にでも行って時間を潰そうかと思ったが、彼は歩きたいと言った。
隼人と一度行ったことはあったものの、ちょうど良い距離に華厳の滝があるのを思い出し、風間は彼を誘ってそこへ向かった。
再び隼人がSNSを更新した。
……おいおい、その喫茶店に他の奴を連れて行くのはなしだろ。
杉野という奴との関係性がいよいよ怪しく思えてきた風間は、話半分に彼の言葉を聴き流していたが、それでも対応に落ち度はなかったようだ。
共に過ごす間に信頼を勝ち得たのか、彼は自分からこちら側の人間であるという気配を匂わせ始めた。思わせぶりな言葉を口にすると彼は過敏に反応し、そこから妙に色気を帯び始めた。
「歩いた方が気分も良くなる」と言ったのは、どうやら嘘ではなかったらしく、受付に着く頃には彼の体調もすっかり元の調子に戻っていた。
エレベーターを下ると、この季節にしては肌寒く――これも以前に経験したことで知ってはいたが――、足元が滑りやすいと注意を促したそばから予想通り彼は足を滑らせ、バランスを崩した。出会った頃から一貫して、彼はドジで迂闊なところがある。
風間は彼の腕を掴み、寒さに多少なりとも人恋しさを覚えていたとはいえ、大胆にも彼の手を取ってトンネルを歩いた。
彼の色気がまたもや増し始めた。今では瞳や唇の辺りに艶すら感じられる。体温の高い彼の手のひらは汗で少々湿っており、そんな冴えない姿にすら、本能に訴えかける魅力的な要素が彼の中に備わり始めていた。
冗談を交えて彼に意地悪をするのは楽しかった。反応がうぶで可愛らしい。まるで青い果実が、徐々に赤く色づき始めていく様子を眺めているようだった。
戯れの最中ではあったが、ふと気になって風間は携帯電話を取り出した。細かな飛沫が画面に付着し、拭き取ってもすぐに画面が湿り始める。
冷ややかな風が、体内を突き抜けるような感覚を覚えた。
隼人が投稿していたのは、室内でくつろぐ自身の姿だった。セルフで撮影を行ったのがアングルや距離感から予想できる。
見慣れた家具からそこが彼の自室であることも分かり、ようやく帰宅したかと一時は安堵したが、よく見るとソファに座った彼の隣には見慣れぬ鞄が置かれていた。
それが前日の投稿にも、本日の投稿にも登場した杉野の所有物であることが、風間にはすぐに分かった。
彼の頭の中は、突然霧で覆われたように真っ白になった。
階段を下り、以前に隼人とこっそり口づけを躱した売店の片隅へ来ると、怒りとも悲しみとも取れない曖昧な感情が沸き起こった。
「伊織さん?」
振り返ると、すっかり熟れた果実のように潤った彼の姿があった。
風間がふと思い出したのは、「借りを返す」と湖の付近で一丁前にのたまっていた彼の姿だった。
風間は乱暴に彼の腕を掴み、壁に押し付けた。彼は抵抗することもなく、むしろ物欲しそうな瞳でこちらを見つめている。
荒々しく彼と唇を重ねながら、風間は彼のパートナーが今頃はどんな不貞を働いているのかと想像し、腹の底では黒くうねる醜いものを生み出し始めていた。
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