第二部

第1話

 風間伊織は、物憂げな面持ちで湯船に浸かっていた。


 岩風呂造りのこぢんまりとした露天風呂は、頭上に檜の大屋根が広がり、側面にのれんが垂れ下がっている。隙間から覗く広々とした庭園は開放感に満ち溢れており、絶え間なく流れ出る湯の音が周囲に響き渡っていた。


 そんな清々しい空間で過ごしながら、彼の気分は落ちていく一方だった。


「こんなことなら、僕も仕事に行けば良かった」


 女風呂の暖簾を横目に廊下を通り抜け、突き当りに佇む【小さなご当地風呂】を訪れた彼は、貸切状態の湯船に浸かりながら物想いに耽っていた。


「……隼人のやつ」


 防水機能搭載とはいえ、非常識にも露天風呂の中まで携帯電話を持ち込んだ彼は、湯船に落とさぬよう注意しながら画面を見つめ、時おり大きくため息をついた。


 液晶に表示されたメッセージを何度も読み返した彼は、端末から音楽を流し始めた。


 セルゲイ・ラフマニノフ、悲しみの三重奏曲第二番。


 一八九三年にチャイコフスキーの訃報を受け、それからわずか一か月の間に故人を偲んで完成させたピアノ三重奏曲である。第一楽章から第三楽章までの三楽章で構成されており、風間は気落ちした際にこれらを順に聴いて過ごす習慣があった。


 風呂場に誰かが入って来る気配があれば、すぐに再生を止めようと思い流し始めたが、一曲で二十分もある第一楽章を終え、第二楽章が半分ほど演奏を終えたところまで聴いても、誰も訪れない。


 今日の彼は、どうしても第三楽章まで聴き通す気分になれなかった。


 第二楽章の途中で再生を停止し、彼は湯船から出た。色白の肌は赤みを帯び、身体全体を気怠さが覆う。シャワーで硫黄の匂いを洗い流し、脱衣所に出た。


 バスタオルで身体を拭いながら、風間は脱衣所の棚に整然と並べられた藁の籠を眺めた。彼以外に風呂場を利用した形跡が一つ、他の裏返された籠と異なり、それだけ上を向いて列の規律を乱している。


 棚を覗くと、籠の中に何か黒いものが残されている。財布や携帯電話の忘れ物なら大事だと思い、風間は手を突っ込んでそれを掴んだ。


 手に触れたものはふんわりと柔らかく、丸みを帯びた箇所がシルクのように艶のある感触だった。取り出して広げてみると、それは女性用の下着だった。サテンの生地にレースの装飾が施されている。


 男女入れ替え制の露店風呂ゆえに起こりうる忘れ物か。あいつもたまに、胸がきついだとか言って風呂上りに外している時があった。


 次の入れ替えの際に本人が取りに来るかもしれない。そう思いながら風間は籠の中にそっと下着を戻したが、入れ替え時にきちんと点検を行っていない旅館の清掃員に沸々と憤りを覚えていた。


 風間は廊下を進みながら携帯電話を眺めてみたが、隼人からの連絡はなく、SNSも更新されていなかった。休憩時間を省いて業務に勤しむ彼の姿が、ありありと浮かんでくる。


「休めないなら、早く伝えろよな。……せっかく予約したのに」


 そう一人愚痴りながらも、風間は勤勉な彼の姿を脳裏に思い描き、自然と口元が緩んだ。あぁ。早く帰って、彼に会いたい。


 湯上り処に出ると、一人の男の子が読書に耽っていた。風間の存在には気づいておらず、俯いたまま熱心にページを捲っている。


 幼い顔立ちに野暮ったい髪型、およそ美意識の欠片も感じられない男に彼は思わずため息を漏らしたが、読書に夢中になっている姿はどこか潔白で、惹かれるものがなかったこともない。


 どんなものを読んでいるのか、興味本位で隣に腰かけるものの、彼は気づく気配がない。……なるほど、太宰治か。声を掛けると彼は心底驚いた表情を浮かべながら文字通り飛び上がり、文庫本を地面に落とした。


 拾い上げて彼の顔を眺めると、あどけないながらも磨けば悪くない素材だと感じた。どこか憂いを帯びた表情が今の風間にも相通ずるところがある。


 彼の仕草は、どこかぎこちなかった。未だ自身の本質に気づいていないか、それとも気づいたうえで見て見ぬふりをしているのか。同じ匂いを漂わせる彼を観察しながら、風間は仕事で都合のつかなかった彼が恋しくなり、妙に淫らな気分になった。


 ここらでひとつ羽目を外してやろうか。良からぬことすら頭をよぎった。けれども、そろそろあいつが風呂から上がる頃合いだ。またがみがみと文句を言われるのも面倒なので、大人しく女湯の方へ様子を見に行った。


 廊下を覗くと、ちょうどあいつが出てくるところだった。


「露天風呂に虫が浮いてた。……最悪」


「そう言うなよ。せっかく兄ちゃんが連れてきてやったのに」


 風間は不機嫌な妹の肩に腕を回し、「時期的に仕方ないだろ。すくう用の網なかった?」


「浮いてる時点で無理だもん」


 妹はその光景を思い出すように身震いし、「せっかくって言うけど、どうせキャンセル料が勿体なかっただけでしょ? お母さんに半分立て替えてもらったくせに」


「一円も出してないお前には、それを言われたくないな」


「だって私、まだ高校生だもん。こんな高い旅館払えないよ」


「そのお高い旅館の夕食がどんなものか、お前も今のうちに味わっておけよ」


「あっ。それだけは、ちょっと楽しみかも」


 徐々に機嫌を取り戻し始めた妹を引き連れ、風間はエレベーターに乗って部屋に戻った。

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