第3話
「はい、お水だよ。船酔いは大丈夫かな?」
周辺をひと回りした遊覧船を見送りながら、結斗は湖面を望むベンチで項垂れていた。目の前に差し出されたペットボトルを受け取ると、虚ろな表情で彼を見上げた。
「あぁ、どうも……。ごめんなさい」
「苦手だって教えてくれれば、船には乗らなかったのに」
風間は周囲を見回し、近くにある喫茶店を指差した。「あそこで少し休む?」
「いえ、歩いた方が楽なので」と答え、結斗は立ち上がった。「普段はこんなにひどくならないんですけど、どうしてだろ……」
「僕が甲板を連れ回しすぎたせいかな?」
彼は気の毒そうに結斗を見つめていたが、やがて何かを思いついたように両手を合わせ、「そうだ、滝を見に行こうよ」と言った。
「滝ですか?」
「うん。
嬉しそうにそう言うと、風間は結斗の手を引いて歩き始めた。
未だ胸の辺りに吐き気がこみ上げていた結斗だったが、彼に手を取られた瞬間にそれが一気に頭から吹き飛ぶのを感じた。立ち上がってすぐに離された彼の手の感触は想像以上に力強く、結斗はその余韻を確かめるべく自身の拳を一度強く握りしめ、彼に続いて湖に沿った木道を進んだ。
「君とは初対面なのに、何だか話しやすくてついお喋りになってしまうね」
前方を歩く風間は、わずかに振り返りながらそう言った。結斗は彼に遅れまいと足を進めていたが、少し考えるように首を傾げ、「そうですか? 男の人にそう言ってもらえたのって、……初めてかもです」と恥ずかしそうに答えた。
「彼女には、よく言われる?」
「彼女なんて! ……いないですよ、そんなの」
焦ったように結斗は手を振り、「かざ……、伊織さんは、モテそうですよね」と答えた。
「うーん、そうでもないよ」
彼は、どこか上の空で携帯電話の画面を眺めている。
誰かと連絡を取り合っているのだろうか。彼女といる姿を僕に見せつけておきながら、見え透いた嘘をつく必要なんてないのに。
結斗の脳裏には、またも昨日見た女性の後ろ姿が浮かんでいた。仲睦まじく肩に腕を回していた彼女は、自身を放って一人外出した彼を責めているのか。行動を共にしているのが男性であることを示すため、彼は僕と二人で写真を撮ったのだろうか。
歩みを進める彼の背中が、どこか不機嫌そうに映った。あの写真を見た彼女は、それでも納得していないのかもしれない。
「女友達は多いけど、あまりそういう気は起きないかな」
「あっ、僕も! ……そうかもしれないです」
およそ本意とは思えぬ彼の言動から、自身の過ごす環境がふと頭の中に想起された結斗は、思わず同意していた。「女の子の方が話しやすいんですけど、恋愛対象として興味を持ったことがないというか」
僕は何を言っているのかと、結斗は思った。それでも、彼の口は独り歩きしていく。
「あ、でも仲は良いんですよ? お喋りだって楽しいし、男の子よりずっと親近感が湧くっていうか」
「じゃあ、男友達と遊ぶのは苦手?」
振り返った彼は、なぜか寂し気だった。自身と過ごすことに不満を抱いているのかと、彼は傷ついたろうか。
「いえ、苦手というか、その――」
結斗は急いで言葉を探した。誤解されたくない。あなたと過ごすことがいかに素晴らしい時間か、それをどのように表現するのが適切か、彼は慎重に一歩、足を踏み出す。
「……緊張、しちゃうんです。特に伊織さんみたいな、綺麗な男の人といると、何だか――」
「胸が高鳴る?」
「えっ? いや! えっと……」
意外な返答に、結斗は気が動転していた。次に述べようと準備していた言葉は白い靄の中へ姿を消し、そのまま行方不明になってしまうほどに。
「あはは。冗談だよ」
すっかり気分を取り戻した彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら結斗をじっとりと見つめ返した。
「でも、緊張されるよりは、ドキドキしてくれた方が嬉しいかもね」
「…………」
言葉の裏に秘められた想いなど、あるはずがない。彼と僕は同じではないのだ。そうは思っても、どこか期待してしまう。
結斗は彼の溢れる包容力を前に、いっそ自身の本性を明かしてしまいたくなった。結果は目に見えているとしても、彼ならしっかりと受け止めてくれるのではないか。そんな淡い希望が衝動となり、彼を駆り立てる。
「男の人にドキドキするのって、おかしいことでしょうか?」
思わずそう問いかけた結斗は、漏れ出た言葉をすぐさまなかったことにしようと自身の口を手で塞いだ。頬は紅潮し、額から汗が流れ始めた。
彼は足を止めてゆっくり振り返ると、結斗に向かい合った。
「たとえ男でも女でも、人を好きになる感情自体に罪はないよ」
風間は、どこまでも真摯な表情を浮かべていた。次いで包み込むような笑みを浮かべた彼は、明らかに動揺している結斗の肩にそっと手を触れ、「偏見を持つ奴らこそ、僕はおかしいと思うけどね」と言った。
……あぁ。これが、恋。かもしれない。
結斗は胸を強く押さえ、自身に初めて生じた抗いようのない心の変化にどっぷりと浸りながら、歩き出す彼の後ろ姿を目で追っていた。
受付で入場料を払うと、二人は華厳の滝を眺める観瀑台へ向かうエレベーターに乗った。高低差百メートルを六十秒間で進む広々とした箱の中には彼らの他にも数人の乗客が乗り込み、和気あいあいと会話し合っている。
扉が開くと、視線の先には長い地下トンネルが続いていた。冷気を帯びた空気は地上に比べて異様に肌寒く、地面の所々に薄っすらと水たまりや水滴が見られた。
「足元に気をつけて」
隣を歩く彼にそう言われたそばから、結斗は足を滑らせていた。それをまるで予期していたように風間は彼の腕を支え、「君は危なっかしいな」と肩を竦めた。
「ごめんなさい」と結斗が謝ると、彼は何も言わずに手を取って歩き始めた。
今度はすぐには離されなかった。
「すごい迫力だね」
落差九十七メートルを一気に流れ落ちる滝は、結斗が想像していたものより遥かに壮大な眺めだった。地面に打ちつける凄まじい水の勢いで周囲には轟音が広がり、その自然の驚異に結斗は恐怖を覚えた。
滝の中腹辺りに設置された足場は霧状の水しぶきで湿っており、周りを弱々しい白い柵が囲んでいる。風間は足場の端まで進むと手すりから半分身を乗り出して川を流れる激しい水流を眺めていた。
怯えながらも恐る恐るそこまでついて行った結斗を彼は面白おかしく見つめながら、時々背中をポンと叩いた。その度に結斗は寿命の縮む思いだったが、風間は笑い声を上げながら口だけは謝罪の言葉を述べている。
「もう、やめてくださいよ」
結斗が膨れた顔をしていると、「あぁ、ちょっとごめん」と言って風間はポケットから携帯電話を取り出し、真剣な表情で画面を睨みつけている。
「伊織さん、どうかしたんですか?」
突然黙りこくった彼が心配になり、結斗はそう尋ねた。風間は一度大きくため息をつきながら、「何でもないよ」と答えて携帯電話をもとの場所へしまった。
「下にも行けるみたいだね。降りてみようか」
風間は足早に階段を降りて行った。結斗は彼の後に続き、足場の側面に設置された鉄骨製の階段を降りる。
下の階には小さな売店のような建物があったが、今日は閉店しているようで、入口の辺りに防水カバーが掛けられていた。周囲にほかの観光客の姿は見られない。上階の足場が屋根代わりになっており、先ほどよりも薄暗い印象だった。
「伊織さん?」
風間の姿が見られなかった。売店の外周を回る形で裏側に行くと、そこには静かに佇む風間の後ろ姿があり、どこか憂鬱そうに地面を見つめている。
「伊織さん」と結斗がもう一度声を掛けると、振り返った風間は勢いよく彼の腕を掴み、壁に押しつけた。彼は口元に歪んだ笑みを浮かべ、「早速で悪いけど、さっきの借りを返してもらおうかな」と言った。
「……借り?」
続けて素早く顔を近づけると、風間は結斗の口元へ向け、自身の唇を重ね始めた。
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