第2話

 結斗が顔を上げると、隣に腰かけた男性が至近距離からページを覗き込んでいた。


 首筋から鎖骨にかけて薄っすらと汗が垂れ、湿った前髪から覗く瞳は、目尻の辺りが少し吊り上がっている。身体から湯上りの熱気が漏れ出ており、彼と触れあった部分にはそれが直に伝わってきた。


「うわっ!」


 驚いて地面に本を落とした結斗は、咄嗟に浴衣の胸元を押さえながら半身ほど横に遠ざかった。


「驚かせて悪かったね」


 同じ柄の浴衣を纏った彼は屈んで地面に落ちた本を拾うと、結斗と向かい合ってそれを差し出し、笑顔を見せた。


 男性の着崩した浴衣から胸元が覗き、目の遣りどころに困った結斗は本を受け取りながら俯いたが、彼はそれを下から覗き込むように視線を交わらせた。睫毛が長く、顎のラインが綺麗だ。何と美しい顔立ちをした男性であることか。


「大丈夫? 顔が赤いよ」


 立ち上がった男性は思いのほか背が高く、骨格が大人びていた。「のぼせちゃったかな」


 そこで結斗は、ふと疑問に思った。浴場には結斗と彼の父を除いて誰も姿が見られなかったにも関わらず、なぜ目の前の男性は入浴直後の気配を纏っているのだろうか。


「あの――」結斗は彼を見上げ、「湯上りですか?」と尋ねた。男性は一瞬首を傾げ、言葉の意図を探っているようだったが、口元に笑みを浮かべて女湯のある廊下を指差した。


「あっちの廊下を突き当りまで行くと、【小さなご当地風呂】っていう露天風呂があるんだよ。もうすぐ男女入れ替えの時間だから、君も次の機会に行ってみるといい」


「あぁ」


 確かに、父がそのようなことを話していたのを結斗は今になって思い出した。「ごめんなさい。ひょっとして、女性なんじゃないかって……」


 すると彼は突然声を上げて笑い、「それは嬉しい誤解だね」と答えて髪をかき上げた。


「僕から見たら、君の方が慎ましい女性のようだけど」


 顎の辺りに手を添えた彼は、どこか品定めをするように結斗の身体を見つめた。その瞳の色香をどう表現してよいものか、まるで鋭いナイフの先で全身を優しく撫でまわされるようなスリルに、彼は身体の奥がゾクゾク震えだすのを感じた。


「おっ、結斗。待っててくれたのか!」


 男湯の方から大きな声が響き、派手な足音を鳴らしながら父が彼の元へやって来た。結斗はそちらに顔を向けると、彼の粗野な姿に恥ずかしさを覚えた。


「お前、部屋の鍵持ってるか?」


「持ってる」


「そうか! なくしたかと思って焦ったわ」父は前方を指差し、「そっちのちっちゃい冷凍庫に入ってるアイスキャンディーが無料らしいから、二人で食おう」


「冷凍庫?」


 そう言われて彼が父の指差す方向へ視線を遣ると、先刻まで目の前にいたはずの男性はいつの間にか女湯へ向かう廊下に移動しており、一人の女性を出迎えていた。


「あっ……」と声を漏らした結斗は、長い髪を結った湯上りの女性の肩にそっと手を回しながら、エレベーターに向かってエスコートする後ろ姿を黙って見送った。


「おい、お前どれがいい?」と言いながら、父は冷凍庫からオレンジ色のアイスを取り出している。


 結斗はほんの束の間、手に持った文庫本を眺めながら先ほどの男性について思いを巡らせていたが、「じゃあ、ぶどう」と小声で伝えると、すかさず父が赤黒い色のアイスを彼の元へ放り投げた。


 翌日、父と母は部屋で過ごすらしく、結斗は一人で周辺の散策へ出かけることにした。ロビーで鍵を一本預けていると後ろから肩を叩かれ、振り返った先には昨日出会った麗しい顔の男性が立っていた。


「あぁ、やっぱり君だった」


 爽やかな笑みを浮かべた彼は清潔な青いシャツを身に纏い、手元で鍵を揺らせている。結斗に続いてそれを受付に手渡し、「一人? どこかへ観光かな?」と尋ねた。


「あ、はい。えぇと……」結斗は不意のことでどぎまぎと返答に窮し、「湖を、ちょっと」と切れ切れに言葉を発した。


「湖か」呟くように言った彼は、結斗の二の腕にそっと手を触れ、「僕も一人なんだ。良かったら一緒に回る? あまり遠出するつもりはないけど、それでも良ければ」


「え、でも……」と言いかけた結斗は、彼が昨日一緒にいた女性を思い出した。彼の相手も、今日は室内で過ごすのだろうか? それとも、喧嘩でもしたか。


 そのようなことを思考する間にも彼は背中に手を回し、結斗を連れて入口へ向かい歩き始めていた。


「お互い、散歩相手にはちょうど良いかもね」彼は流し目で結斗を眺め、「湖で遊覧船に乗れるらしいよ。行ってみようか。――君、名前は?」


「あ、えっと、僕は野島結斗です」結斗があたふたと漢字の書き方まで説明していると、彼は笑いながら前に向き直り、「結斗。綺麗な響きだ」と答えた。


「あの、あなたは――」と尋ねようとしたところで結斗が敷石の隙間に足を躓き、それを支えた彼は立ち止まって耳元へ向け、「僕は、風間伊織。よろしく」と言って微笑むと、また歩き出した。


「――五分後に出発だってさ。ツイてるね」


「すいません、財布を忘れちゃうなんて……」


 受付でチケットを購入した風間は、何度も頭を下げる結斗にチケットを手渡して肩を叩き、「構わないよ。若い子に出させるわけにはいかないし」と言いながら、テラスに向かって歩き始めた。


 彼に続いた結斗は斜め後方から覗き込みながら、「あぁ、風間さんは、僕とあまり変わらないくらいかと勝手に思ってました」


「伊織でいいよ」


 振り返った風間は穏やかな風に髪をなびかせ、「結斗はどう見たって十代だろ? 僕はとっくにこれが吸える年齢になってるさ」と言って煙草に火をつけた。


「そ、そうですか……」


 結斗は、テラスで優雅に煙草をふかす彼にすっかり見惚れていた。


 素直に美しいと思った。一つ一つの所作が洗練された日本舞踊のようにしなやかで、華々しい。父が煙草を吸う姿からそういった風情を感じたことは一度もないのに、この違いはどこにあるのか。


 咥えるところから煙を吐き出す瞬間まで、まるで隙がない。あたかも彼のような存在のために拵えた嗜好品であるように、それはしっくりと身体に馴染んで見えた。


「どうしたんだい? そんなにじろじろ見て」


「い、……いえ!」結斗は半分開いたままの口を閉じると唾を呑み込み、「あの、い、伊織さん、後で必ず何かお返ししますから!」と言った。


「そう? じゃあ、楽しみにしてようかな」


 無邪気に笑みを浮かべる彼の姿に、結斗は胸が高鳴った。湖を背景に佇む美しい男性の些細な仕草や、僅かに浮かぶ目尻の皺にすら魅了されている。こんなにも心身の均衡がとれた感情の昂り方は、初めてのことだった。


「おっ、橋の方に人が集まり始めたね」彼が遠方を指差し、結斗はふと我に返った。


「じゃあ、行きましょうか」結斗が歩き出すと、風間はポケットから取り出した携帯電話を険しい顔つきでじっと眺めている。


「風間さん?」


 結斗が呼びかけると彼は顔を上げ、「伊織でいいって」と言って隣に並んだが、唐突に肩を抱き、顔を近づけながら携帯電話のカメラで自撮りを始めた。


「えっ?」


 動揺する彼をよそに、風間は平然とした表情で撮った写真を確認したのち、「僕らが出会った記念にね。――行こうか」と言って歩き出した。


「…………」


 胸の内で、不意に心臓が暴れだすのを感じた。膨張した熱量が骨や肉壁を執拗に叩きつけ、その行為が荒々しく繰り返される。


 結斗はすっかり赤く染まった頬を隠すように俯きながら、風間の後に続いて船に乗り込んだ。

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