恋のいろ

第一部

第1話

 両親に連れられ、野島結斗ゆいとは二泊三日の温泉旅行に訪れていた。


 五月の連休で道路は相当に混みあっていたが、父親が大の温泉好きということもあり、長い休みに入ると彼は後部座席に揺られながら国内のあらゆる温泉地を巡ってきた。


 今回の宿泊先に選んだのが奥日光の高級温泉旅館で、彼は内心ほっとしていた。前回のように森の中を一時間も彷徨って浸かりに行く秘湯など、まっぴら御免である。


 高校二年に進級して間もない結斗は、そろそろ家族旅行よりも友達と遊び盛りの年頃になっていたが、他の同じ年代の子たちに比べて内向的な性格の彼には友人も出来づらく、むしろ家族で過ごす方が気楽だった。


 腫れぼったい瞳、両頬から鼻の頭にかけて広がったそばかす、肉厚の唇など、結斗は自身の容姿に対するコンプレックスを数多く持っていた。体形的なものも含めるとさらに要素は増える一方で、そういった負い目もあってか、彼は他人へのアプローチを自然と避ける傾向にあった。


 誰にも期待をせず、執着もしない。


「今回はちょいと奮発したからな!」


 溌剌とした声で後部座席に声を掛けた父は、煙草をふかしながら窓外へ大胆に右手を垂らしている。母はそんな彼を見ながら顔をしかめるものの、自身はナビゲーションの役目もほっぽり出してアイドルソングを大声で歌う奔放さである。


 自己主張の強い夫婦のもとで生まれ育った結斗は、大抵は頷くか返事一つで事足りる生活を送っていた。彼らの間に割って入り、ささやかな抵抗を示したところですぐに覆されるのが落ちだ。


「結斗は誰に似たのかしら」と毎度言われてしまう始末だが、父方の叔父が彼とそっくりな性格をしており、「妙な配列で遺伝しちまったなぁ」と言いながら、両親はそんな押しの弱い彼を笑い飛ばしていた。


 父と二つ歳の離れた叔父は未だに結婚をしておらず、「独り身を満喫してるんだよ」と本人は語っていたが、周囲から妙な噂が立つのを耳にしたことがある。


『あいつはゲイだからねぇ。仕方ないよ』


 子供の頃、親戚の集まりで祖父の家を訪れた際に結斗はキッチンでそんな話し声を聞いた。ゲイとはいわゆる同性愛者のことで、叔父の恋愛対象が男性であることを幼い頃の彼は知った。そういった生き方に偏見を持つ者が、少なからずいるということも。


「やっと着いたな!」


 部屋に通されると父は畳の上で大の字に寝そべり、肩を揉み始めた。


「お茶入れようかしらね」


 母は自宅にいる時と同様、室内を落ち着きなく動き回りながら過ごしている。


 結斗は一人窓際に立って景色を眺めていた。窓外に広がる中禅寺湖では水面に膝まで浸かって釣りを楽しむ人々や、水上を進むスワンボートが多く見られた。


 右手に見える男体山を眺めようと彼は窓を開いたが、網戸の付近に見事な蜘蛛の巣が張られており、やむなく断念した。


「よし! 温泉に行くぞ」声を上げながら、父は勢いよく姿勢を起こした。


「もうお茶入りますよ?」


「お前、それじゃ家にいるのと変わらんだろ」父は呆れたように肩をすくめ、「とりあえず風呂だよ、風呂。結斗も行くぞ」


「え、……僕も?」


「当たり前だろ。ほら、手ぬぐいの作り方教えてやる」


「父さん一人で行ってくれば? 僕はその、気分じゃないし…」


「気分を待ってたんじゃ、温泉が混雑しちまうぞ? こういうのは少し早いくらいの方がいいんだよ。ほらほら!」


「あ、結斗。ついでに売店覗いてきてくれる? 良さそうなお土産あったらよろしく」と言いながら、母はテレビのワイドショーを見始めていた。


 結斗は父の後に付き従い、エレベーターに乗って地下一階にある大浴場へ向かった。


「ほら、まだ誰も来てないだろ? 一番風呂だ!」


 はしゃいだ様子の父は籠の中に荷物を入れ、いそいそと服を脱ぎ始めた。


「ちょっと、父さん! ま、前隠して!」


 全裸になった父はハンドタオルを肩に掛け、堂々と紙コップに水を注いでいる。


「何を今さら男同士で恥ずかしがってるんだ? お前は変なところで繊細だなぁ」と派手な笑い声を上げ、父は浴場へ入っていった。


 結斗は周囲を警戒しながら一枚ずつ服を脱ぐと、それらを丁寧に畳み、タオルで下半身を隠して浴場に向かった。


「お前は相変わらず白いな。もう少し運動するとか、鍛えたりしたらどうだ?」


 湯船に浸かった父は彼の胸の辺りを指差し、「読書ばかりじゃ女の子にモテないだろ。誰かいい子はいないのか?」


「いないよ、そんなの」と答えた結斗は父から注がれる視線に耐えきれず、頬を赤らめながら「もう、放っといてよ!」と叫び、肩まで湯に浸かった。


「おっ。我が子もとうとう反抗期か! ――はっは。男らしく育てよ」と何故か喜びだす父は捨て置き、結斗は身体が温まるより前に浴場を後にした。


「先に部屋へ戻っちゃ悪いかな……」


 脱衣所を出ると、結斗はエレベーターホールへ向かう途中にある湯上がり処で本を読みながら父を待つことにした。


「すごいな、太宰治って」


 堕落的な人生にも関わらず、彼の描く世界は潤いに満ちていた。女性関係の描写は思わず目を瞑りたくなったが、言い訳がましい語り口調にもまたこの上ない愛嬌が感じられ、ページを捲る指先が止まらない。


 結斗は未だ、恋愛というものにどっぷりと浸かった経験がなかった。幼少期から美しいものに対する関心は少なからずあったものの、異性と発展的な関係を持つことが彼にはどうしても想像がつかない。


 それでも彼は、異性との接点が全くなかったわけでなく、むしろ他の男性よりもざっくばらんに話ができると女性陣からは評判だった。


 それこそ道化とまではいかないが、複数人の女性と行動を共にしたり、机を囲んで噂話をすることもしばしばで、そういった側面から同級の男子生徒にからかわれたり、時には辛辣な言葉を浴びせられることもあった。


 中学に上がった頃から周囲では『恋バナ』に花を咲かせる者が増え始め、結斗はそんな彼女らの話を聞きながら、自身の恋愛対象について疑問を抱き始めていた。


『結斗くんって良い人だけど、何か友達って感じだよね』


 友人たちに口を揃えてそう言われた結斗は、まさしく同じことを考えていた。女性陣に囲まれ、異性と触れ合う機会が多分にあったにも関わらず、彼が胸をときめかせるのは賑やかな彼女たちではなく、決まって美しい容姿を持つ男子生徒だった。


 自身のコンプレックスゆえの憧れと言ってしまえばそれまでだが、彼の場合はそうなりたいという願望よりも、そういった男性と関わりを持ちたいという欲求の方が徐々に強くなり始めていた。


 結斗のそんな違和感がおよそ確信へと変わったのは、卒業間際に行われたクラスの催しもので起きた、些細な出来事だった。


 とある遊びの罰ゲームで、クラスでも人気の男子生徒と手を繋ぎながら社交ダンスの真似事をするという趣旨の戯れをさせられた結斗は、彼と手を触れ合い、至近距離で向かい合った瞬間、未だかつてない感情の渦に襲われた。


 まるで稲妻に打たれたような衝撃――、心では拒否感を示しつつも、身体がぴったりと収まるような感覚に彼は戸惑いを隠せなかった。


 高校へ進学し、クラスで騒ぎ合う逞しい体つきの男子生徒をついつい目で追っている自身に気づいた結斗は、このことを両親に相談したものか迷っていたが、それから一年余り経過した今でも、このことを誰にも言い出せずにいた。


 父方の叔父が同じ性質を持っていることは昔から知っていたが、彼は現在海外に単身赴任をしているため、会って話すことが叶わない。


 とはいえ、電話や電子メールで伝えるにはあまりに気恥ずかしく、それゆえ結斗は、消化不良を起こしたような偽りの日々を積み重ねていった。


「――へぇ。湯上りに太宰とは、なかなか風情があるね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る