第2話

「わぁ、すごい!」


 カーテンを開くと、窓外には地平を覆う中禅寺湖の水面や、視界に収まりきらない男体山の雄大な姿が見られた。中禅寺湖の周辺はこれまた山々に囲まれ、いつまでも眺めていられるほどに素晴らしい景色だった。


「いいね、部屋も広いし。これってオーシャンビューってやつかな」


「お客さま、それを言うならレイクサイドビューでしょうね」


 仲居の女性から律儀に訂正され、日奈子は多少頬を赤らめたが、彼女の学のなさは今に始まったことではないのでそれほど気にはならなかった。


 景色に夢中になっている日奈子をよそに、雨宮はソファに座って仲居から館内設備の説明を受けている。黙って真剣な表情を浮かべながら小さく頷いている彼の横顔に日奈子は惚れ惚れしたものだが、一度失言をした彼女は仲居が去るまでの間じっと口を噤み、洗面所や浴室をしげしげと見て回った。


「ねぇ知ってる? あそこの山にある神社が、すっごいパワースポットらしいよ。名前なんだっけ。なんとか山神社っていうんだけど」


 仲居が部屋を去ると、日奈子はソファに腰かけた彼の元へ肩を寄せ、窓外の男体山を指差しながら言った。「お守りでも買おうかな」


「パワースポット……」


 雨宮は独り言のようにそう答えながら、窓外に見える男体山を熱心に眺めていた。日奈子には三つ年下でろくでなしの弟がいたが、彼がまだ幼い頃、おもちゃ屋で欲しい玩具と巡り合った際に見せた表情に似通ったものが、そこには感じられた。


「お守りは明日でいいだろ。今日は旅館でゆっくりしよう」


「そうね。私も足が疲れちゃった」


 日奈子は彼に身体を預けながら、足首を摩った。「三回は温泉に入らないとね。マッサージも予約すれば良かったなぁ」


「今からでも、予約できるか聞いてやろうか?」


 雨宮は無表情を崩さずそう答えた。「この時期なら客もそんなに多くないはずだし、言えばできるんじゃないのか」


 彼の気遣いに日奈子は感激しつつ、「ううん、いいの。その分の時間を、たっちゃんと一緒にのんびり過ごすから」と答えて笑顔を見せた。


 その日の晩、日奈子は温泉に浸かり、旅館の高級そうな料理を味わい、雨宮が手に持ったお猪口に日本酒を注ぎながら自身も果実酒を煽って一人話し続けた。


 職業柄、他人の話を聞くのが日奈子の専門ではあったが、雨宮と二人でいる時は無口な彼に代わってその分の言葉を紡いだ。雨宮はそんな彼女の言葉に耳を傾け、心地よさそうに頷いている。


 本来、彼の方がホステスという職種に向いているのかもしれない。彼女はそう思うことがある。ささやかな表情一つで目の前の相手を高揚させ、饒舌にさせる。そんな魅力が彼にはあった。


「――俺がまだガキの頃、家族で湖の見える旅館に泊まったことがある」


 部屋に戻った雨宮は酔った勢いからか、珍しく自ら話題を提供し始めた。彼が家族の話をするなど滅多にないことだった。


「あれと似た感じの湖だったけど、どこの旅館だったかまでは覚えてない」


 雨宮はすっかり日の暮れた窓外の暗闇を指差している。「妹がやけに喜んでな。その顔は、今でも忘れられない」


「香菜ちゃんのこと、残念だったね。ひき逃げ犯もまだ捕まってないんでしょ?」


「犯人のことなんて、どうでもいいんだよ」


 ぶっきらぼうにそう答えた雨宮は両頬が薄っすらと赤く、瞼の端が眠たげに垂れていた。


「どっかの展望台だか山の上からか、湖を見ながら家族で弁当を囲んだのが、最後の遠出だったな。俺はろくでなしの暴走族になったし、家族とはすっかり疎遠になった」


「でもたっちゃんは、亡くなったご両親の代わりに香菜ちゃんの面倒をしっかり見てきたじゃない。工場も後を継いで、立派だと思うよ」


「工場か……」


 雨宮は俯いて眉間に触れ、瞼をきつく閉じた後、ゆっくり目を開いた。


「実は、工場も売っちまったんだ。その金を葬儀の費用に充てた」


「え?」


 日奈子は青ざめた顔で口元に手を遣り、「ここも、そのお金で?」


「まぁな」


「そんな大事なお金、使っちゃって良かったの? ていうか、これからどうすんのよ!」


「うるせぇな。何とかなるだろ」


 雨宮は拗ねたように答えながら、部屋の冷蔵庫に入っていた日本酒の一合瓶をラッパ飲みしている。「生活するだけの蓄えは残してあるから、心配するな」


 果たして、本当にそうだろうか。


 日奈子は不安でどうしたものかと困惑していたが、酔った雨宮はそんな彼女の気持ちもお構いなしに勢いよく抱き寄せ、そのまま布団に押し倒した。


「あれであいつは満足したんかって、考えるよ。俺は全然、いい兄貴じゃなかったから」


「そんなこと……」


 熱を帯びた彼の逞しい身体と、囁くような言葉に日奈子はつい胸が高鳴った。先刻までの思考や不安はすべてが停止され、彼に身を委ねるように次の出方を待った。


 せめて電気を消してほしいな。そんな彼女の願いも虚しく、耳元には彼の寝息が聞こえ始めた。日奈子は彼の身体の横からするりと抜け出し、浴衣の胸元を軽く整えてから彼に掛け布団をかけた。今では幼い子供のように無垢な寝顔を浮かべている。


 間接照明だけを残し、部屋の電気を消した日奈子は窓際に腰かけ、彼の残した日本酒を飲みながら月を見上げた。綺麗に放物線を描いた三日月が、暗闇の中でぽっかりと浮かび上がっている。不謹慎ながらも火照ってしまった彼女の身体に柔らかな月光が降り注ぎ、潤った肌を艶やかに照らし出していた。


 人よりも少しばかり楽観的な側面を持つ日奈子は、自身の問題で悩むことはそうそうなかったが、雨宮の悩み苦しむ姿を傍で見ることが、彼女にとって最も苦痛なことだった。


 どうにかして、彼に救いの手を差し伸べられないものかと悩んではみるものの、彼女の足りない頭ではどうにも妙案が浮かんでくる気配が見られなかった。


 お金の問題なら、少しは援助してあげられる。それでも、根本の解決になるとは思えなかった。彼は両親に続いて唯一の肉親を失い、職場すら手放したことですっかり生きがいをなくしている。


 室内を仄かに照らす月は、眼下で苦悩する彼女をあざ笑うかのように煌びやかな光を放っている。日奈子はそんな質の悪い姫君のような存在を見上げながら鋭く睨めつけ、手に持った日本酒を勢いよく煽った。


 私には、見守ることしかできないのね……。


 飲み終えた瓶を畳の上に放り投げた日奈子は、月が雲に覆われた隙をつき、暗闇の中に佇む男体山に向かって無意識に祈りを捧げていた。

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