第二部
第1話
窓際の席に腰かけた日奈子が窓を開くと、草と土と少しばかりの花の匂いが風に乗って勢いよく車内に吹き込んだ。
顔面に吹き付ける強風に雨宮は思わず目を細め、オールバックにセットした髪が乱れないか不安を覚えつつ隣の日奈子を肘で突っついたが、彼女は気にかける様子もなく、水浴びをする要領で風を感じながらオリーブ色に染まった長い巻き髪をかき上げ、樹木に覆われた周囲の景色を興味深そうに眺めている。
「たっちゃん! ほら、下があんなに遠い」
彼女が指差す先には、蛇のごとくうねった道と、谷底を流れる細い小川、ミニチュアのように佇む街並みが切れ切れに垣間見られた。
「落ちたら、死ぬかな?」
「馬鹿なこと言ってんな」
「あっ、ごめん……」
つい先日、唯一の肉親である歳の離れた妹を失ったばかりの雨宮にとって、『死』というワードは快いものではなく、それを咄嗟に察したのか、日奈子はしゅんと縮こまりながら謝罪の言葉を述べた。
「それにしても温泉旅館だなんて、たっちゃんも粋なこと考えたよね」
日奈子が葬儀に参列した際、まるで彼の方が死びとではないのかと思われるほどに雨宮の表情は生気を欠いていた。式場には彼の私生活からは考えられないほどに豪勢な祭壇が整えられ、テレビで中継される一流芸能人のように盛大な式が催された。
それに加え、今回の一泊温泉旅行。宿泊先は国内でも名の知れた有名リゾートホテルチェーンの運営する湖畔沿いの高級旅館であり、相当な額の宿泊料が予想される。
日奈子はどこか、悪い予感を覚えていた。
葬儀から日増しに頬がやつれていく雨宮は、腕を組んだまま思い詰めたように俯いて考え事をする姿が多く見られた。普段から硬派な彼に惹かれているとはいえ、さすがに心配になるほどだった。
ホステスとして働く日奈子にとって、羽振りの良い人物の相手など日常茶飯事だったが、みな一様に隠し切れない陽気さや、迂闊さを胸の内に秘めているものだ。
万年金欠の雨宮にそれほどの資産がないことを彼女は十分承知しているし、彼にはむしろ、陽気さとは対極にある負のエネルギーすら感じ取れた。
良からぬことを考えていなければと祈るばかりだったが、彼女は少しでも彼の気分を解そうと、普段よりも明るく無邪気に振舞ってみせた。雨宮は時おり不愛想な表情を浮かべたままそんな日奈子をたしなめたが、それでも不機嫌というわけではなく、むしろ気心の知れた仲だからこその態度に思えた。
いろは坂を越え、標高千二百メートルにもなる中禅寺湖付近のバス停で降りた日奈子は、肌に感じるひんやりとした風に思わず身震いし、手に持ったデニムジャケットを肩に羽織った。
五月とはいえ、都心に比べてこの辺りはまだまだ気温も低く、澄んだ空気を肺の中に取り込むと、彼女が好んで吸っているメントールの煙草と同様の冷ややかな味がした。
緩やかに延びた坂道を下ると湖の手前には二車線の道路を取り囲むように特大の鳥居が建っており、そのあまりの大きさに日奈子はスマートフォンを取り出して写真に収めたが、続いて視界に入った背景の男体山や中禅寺湖の壮大さの前には、これも勝手口に設置されたペット用の扉に相違ないように思えた。
前日の雨の影響で空気中には霧がかかっているものの、男体山の壮観さはありありと映し出されている。綺麗な円錐形から別名を『日光富士』とも呼ばれるその山が所々に雲を纏う姿は、幻想的ですらあった。
二人は湖を右手に目的の旅館を目指して歩いた。歩道の整備が行き届いておらず、キャリーバッグのコロコロが音を立てながら不安定に揺れ、時おりバウンドしている。
キャリーバッグを引く彼女に対し、雨宮の荷物はボディバッグ一つと恐ろしく少ない。着替えは持っていないのだろうか。彼は一張羅のジーンズに首まわりの伸びた半そでのTシャツ姿と多少寒そうな印象だったが、本人は特に気に掛ける様子もない。
歩くにつれ、男体山が背後に回ると、その存在感に日奈子は厳しかった父親の姿が頭に浮かんだ。病気で入院してからは萎んだ狸のようにすっかりおとなしくなってしまったが、胡坐をかいた彼から説教を受けた際には、毎度このような圧力を感じたものだ。
「――お前、先いけ」
心臓破りの坂道を登りきり、日奈子が胸に手を当てて息を整えていると、旅館の入口に差し掛かった雨宮は俯きながら彼女を手招きした。自身の服装になのか、強面の顔にか、彼は立派な佇まいの旅館にどこか気後れしているように思えた。
「たっちゃんの名前言えばいいの?」
彼は小さく頷いている。
建物の敷地を眺めると高そうな自動車が何台も駐車され、果たしてここまで歩いてやって来る客人がどれほどいるのだろうかと日奈子は思った。
たんぽぽの綿毛にも似た白い何かがゆらりと宙を舞い、それが季節外れの雪景色のように美しかった。旅館側からの演出かと一瞬勘ぐったが、これも自然のなせる業であると認識した日奈子は、こんな恵まれた立地に旅館を設けること自体が『ずるい』と感じてしまう。
自動扉を潜り、受付に向かう広大なエントランスには日光下駄や日光彫りの椀物が上品に展示されている。髪を結った受付の女性はそれらにおよそ相応しい気品のある笑みを浮かべ、いかにも軽薄そうな彼らに向けて丁寧に会釈をしたのち、先導しながら部屋へ案内してくれた。
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