第3話

 森林の中から突然声が聞こえ、そちらに視線を遣ると一人の老人が立っていた。見覚えのある登山靴から、雨宮は目の前の老人が彼の遥か前方を登っていった登拝者であることに気が付いた。


 皺だらけの顔をした老人は背筋がしっかりと伸び、息一つ切らせていない。


「観音なぎはあぶねぇから、こっちから迂回するっぺ」


 老人の仕草を見る限り、伸びたロープにそって左側から坂道を回り込むのが正規の登山ルートであるようだった。


 手持ちの飲料水を分けてくれた老人は、勢いよくそれを流し込む彼を柔らかな笑みで見つめ、次いで靴を履いていない足元を見遣ると何やら慌てた様子を見せていたが、雨宮は無言で小さく会釈し、大丈夫だと手を振って応えた。


「ありがとうございました」


 深々と頭を下げ、教えられた道を彼が進み始めようとすると、老人はさっと腕を掴み、「なら、ちっと休まねぇと」と言い残して下山していった。


 こわい? 俺は、……恐怖を感じているのか。


 その時の雨宮は知る由もなかったが、こわいとは栃木弁で『疲れた』を意味する方言のことだった。そんなことも知らずに、まだまだ先の長い男体山の頂上を見上げた彼は深いため息をついた。


 登拝を始める前、彼は聳え立つ男体山に圧倒されていた。あまりの威圧感にまるでそれ自体が神に匹敵する存在ではないかとすら感じられ、畏れと言っても差し支えない感情が彼の中に渦巻いていた。


 だが、いざ登り始めると、それは当たり前のことだが無数の樹木と坂道の連続で形成されており、突如としてあの厳めしい姿が現れたわけではないのだと気づかされた。雨宮よりも小さな苗木、石ころ、土くれ、そんな矮小なものの積み重ねによって、あの偉大な造形は生み出されている。


 恐怖の原因は、俺自身の中にあるのではないか。


 彼は日奈子を捨て置いたあの瞬間から、無防備になった背後に何者かが迫る気配を感じ続けていた。亡き妹の恨めしい目つき、身勝手な兄に対する憎悪ではないかと思った。それが自身の内面にある罪悪感から肥大化された、恐怖心によるものであるとも知らずに。


 ポケットに触れた彼は、意を決して後ろを振り返った。


「…………」


 視界の先に広がっていたのは、得も言われぬ美しさだった。澄んだ青い瞳を思わせる中禅寺湖は彼を睨みつけることもなく、輝く陽光に照らされ、包み込むような温かみに溢れている。


 随分と高いところまで登ってきた。そう実感できるほど、眼下の景色が遥か遠くに感じられた。それも、彼のささやかな一歩の積み重ねによって生み出された結果なのだ。


 そこからは、無我夢中だった。


 八合目のガレ場を越え、すでに何度目になるか分からない樹林帯へ足を踏み入れた時、足の裏に湿り気を感じた。足元に雪が残っている。口元から吐き出される息は白く、剥き出しの二の腕は冷え切っていた。びしょびしょになった靴下には土や枯れ木が張り付き、背中に滲んだ汗が急激に体温を冷やし始めた。


 それでも、彼の足が止まることはなかった。湿って重くなった靴下を脱ぎ、雪の上を裸足で歩き進んだ。身体の節々が痛み、体力はとうに限界を迎えていたが、今ではすっかり恐怖心も払拭され、心が妙に軽かった。


 樹林帯を抜けると木々の高さが低くなり、頭上に青空が広がり始めた。九合目を示す石碑を見送り、そこから先は周囲を覆う植物の姿もまばらで、茶褐色の火山礫にぽつりぽつりと枯れ木が立ち並んでいる。


 頂上付近がこれほど荒廃した姿であることを、雨宮は全く予期していなかった。まるで見捨てられた荒野のように草木に恵まれず、一面が赤い砂礫に覆われている。


 うら寂しいところだ。そう思いながら足を進めると、やがて頂上にたどり着いた。そこには深緑の鳥居と、銅作りの二荒山神社奥宮が佇んでいる。


 とうとう奥宮を拝むことのできた雨宮は、思わずその場にへたり込んだ。水分は枯れ果て、唾すら吐き出せないほどの状態にも関わらず、頬には薄っすらと涙が伝っていた。


 山頂をしばらく歩き進むと、端の方に小高い丘のようなものが見え、その頂点に刀剣の白い刃が天に向かって伸びているのが見えた。


 彼は丘によじ登り、刀剣にそっと手を触れた。ひんやりと冷たいその感覚は、工場で扱う工具にも似た懐かしい響きを帯びていた。


 周囲には雲海が広がり、頂上に向けてそれらが湧き上がる姿は、まさに生命力に満ち溢れていた。ここからは眼下に広がる中禅寺湖の全容を眺めることが出来る。周りを取り囲む山々も、戦場ヶ原の湿原も。


 すべてを見下ろす目線、そんな高みにようやくたどり着いた彼は、どこか腑に落ちない心地だった。


 俺は、やり遂げたのか?


 思えば一人で登頂することはおろか、登るきっかけすらも得られなかったこの挑戦が、このような形で終わりを告げてよいものだろうか。何かを得られたという確かな手応えが、彼にはなかった。


 それどころか、未だかつて感じたことのない焦燥が彼を包み込んだ。唐突に襲う欠落感。その正体に、彼はすぐに気づくことが出来た。


「日奈子」


 背中を支えてくれた彼女は、無事に下山を果たしたろうか? 


 彼は一息つく暇もなくその場を後にすると、駆け抜けるように地上を目指し始めた。

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