第29話

「あめだー!」


 夏の雨は、じめじめとしていて朝から気分が悪い。湿気で髪はばさつくし、傘を差して学校まで歩くのも億劫だ。洗濯物も乾かない。正直言って嫌いである。

 でも、想夜歌にとっては、いつもと違う楽しい一日の始まりだ。お気に入りの赤い長靴を履いて、可愛らしい傘を広げる。雨の日にしか使えないもんな。


「走ると危ないぞ」

「はしってない。お兄ちゃんがおそいだけ」

「はいはい」


 子どもは無邪気で羨ましいよ。いや、俺が楽しめなくなっただけか。

 想夜歌がはしゃぐ姿が見られるなら、雨の日も悪くないと思える。とりあえず、水たまりをバシャバシャ踏みつける様子を写真に収めた。


 想夜歌は傘を肩に乗せくるりと回した。そのまま振り返って、にっこりと笑う。可愛すぎる……。


 雨の日はちょっと早めに出て、歩いて幼稚園に向かう。


「想夜歌、そろそろ誕生日だな」

「たのしみ!」


 今年の誕生日は土曜日だから、時間をかけて準備できる。どこかに出かけても良いかもしれない。


「けーきある?」

「あるぞ」

「じゅっこくらいね。いっぱいたべる」


 まだ月曜日の朝だというのに、この喜びようだ。週末までテンションがもつか心配になる。


「何か欲しいものあるか?」

「だいや」

「港区女子かなにか?」


 ノータイムで宝石を要求してくるとは、なかなか将来有望である。想夜歌の彼氏になる男は大変そうだ。いや、彼氏など作らせないが。


 去年のプレゼントはキャラクターのぬいぐるみだった。今でもたまに取り出しては遊んでいる。

 四歳の誕生日って、何がいいんだろう。無難におもちゃや人形などでもいいし、簡単なパズルなど知育玩具をあげる家庭もあると聞く。最近想夜歌がハマっている魔法少女アニメのおもちゃがいいかな。


「ぱぱぱー、るーるー」


 六月中旬にもなると、俺も想夜歌も幼稚園に通うことにだいぶ慣れた。

 公園に植えられたアジサイは丁度綺麗に咲いていて、雨空にはよく映える。想夜歌は小走りで近づいて、女の子らしく目を輝かせた。


「かたつむり!」

「なんとなく分かってた……」


 まあ子どもは花なんて見ても面白くないだろう。俺だって、有名な花以外見分けなんて付かないし、見かけても一瞥しただけで通りすぎる。


 うきうきで歩みを進める想夜歌をなんとか制しつつ、住宅街を抜ける。車通りは少ないが油断できない。特に傘を差していると、視界が狭くなるし道路側にはみ出しがちだから危険なのだ。想夜歌は目を離すと遠くにいたりするから、注意しないと。


「ねえね、お兄ちゃん」

「ん?」

「たんじょーび、ママくる?」


 ああ、入園式の時と同じ顔だ。


 切ない、張り付けた作り笑い。諦めたように口元だけ歪めて、それでも一縷の望みをかけて尋ねる。

 なんで子どもにこんな顔させなきゃいけないんだよ。


 嘘をつくのは簡単だ。

 来るよ、と一言伝えるだけで、想夜歌は弾けるように笑って、楽しい気持ちで幼稚園に行ける。誕生日当日までは良い気分のまま過ごして、ちょっと来れなくなったみたいだ、なんて言えば事なきを得るかもしれない。


 でも、その後のことを考えると胸が締め付けられる。

 絶望すると分かっているのに希望を持たせることが、本当に良い事なのか。


 俺は奥歯を強く噛みしめて、想夜歌と目線の高さを合わせた。


「ママは忙しくて来られないみたいだ」

「そっか……」

「でもほら、お兄ちゃんがいるからさ! ケーキもたくさんあるし、プレゼントもいっぱい買おう。またピクニックに行ってもいいな。土曜日だから、弁当も作って」


 こんな言葉では想夜歌の気持ちは晴れないと分かっていても、尽くさずにはいられない。


 結局、俺は母親の代わりにはなれないのだ。


「お兄ちゃん、うるさい」


 歩き出した想夜歌の横顔は、夏の雨空のように暗く曇っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る