第28話

 母さんが帰って来るのはいつも遅い。


 基本的に、想夜歌が既に寝静まった九時以降だ。会社員のはずだがどうしてこんなに遅いのか。尋ねたことも糾弾したこともあるが、状況は改善しない。

 単身赴任の父親とは、もう何年も会っていない。


 俺と想夜歌にとって、両親というのはあまり関わりのない存在だ。


 今日も、幼稚園で遊び疲れた想夜歌を寝かしつけたところで玄関が空いた。


「ただいま~」


 想夜歌を起こさないようにと、小声でつぶやきながらリビングに入ってくる。俺は母さんを一瞥して、すぐに視線を外した。家事を再開する。


「ちょっと、お母さんが帰ってきたっていうのに、その態度はないでしょー響汰」

「なら少しは母親らしくしてくれ」

「も~、またそんなこと言って」


 母さんはスーツ姿のままソファに沈み込んで、大きく伸びをした。家の中じゃ家事もしないだらしない母親だが、職場ではバリバリ仕事をするエリートらしい。想夜歌を生んですぐに職場復帰するくらい、求められているのだとか。


 母さんは冷蔵庫から取り出したビールを開けた。ぷしゅ、という音が響く。


「ねえねえ、今日もあの子来てたんでしょ?」

「ああ。想夜歌と仲良いからな」

「ふふ、玄関が片付いてるからすぐわかるのよ。それに、いつもお菓子置いていってくれるし。響汰には、こんな可愛いお菓子を選ぶセンスなんてないもんね」


 テスト前、疲労がたまって倒れた暁山を送り届けたのは母さんだ。それについては感謝しているが、たまたま早く帰って来たせいで余計な詮索をされるハメになっている。

 ぐいぐい話しかけて来る母さんに暁山もだいぶ辟易してそうだな……。人の母親を悪く言うような奴じゃないから、真相は分からないけど。


「お母さんがいない間に女の子連れ込むなんて、響汰もなかなかやるね~?」

「朔って子がご飯食べにきてただけだよ」

「ふふっ、まあそういうことにしといてあげよう」


 イライラを抑えて、適当につまみを作って出す。母さんは「お、気が利くじゃん」と素手でキュウリを口に放った。


「そーいえば響汰、進路どうするの?」

「さあな。考え中」

「ま、お金のことは気にしないでいいよ。想夜歌だって預けられるところはあるし、シッターを雇ってもいいからね。響汰は自分のやりたいことしな」

「は? 想夜歌ことは無視かよ」


 そういえば、雉村先生にも言われたな。

 だけど、俺にとって将来の選択と想夜歌の存在は切り離せないものだ。母さんがこの態度では、安心して家を出ることなんてできない。


「大丈夫よ。あんただってちゃんと育ったでしょ」

「想夜歌に寂しい思いをさせるわけにはいかない」

「自分の自由を捨ててでも?」

「ああ」


 母さんは知らないだろう。

 想夜歌が普段、どれだけ寂しそうにしているか。


 想夜歌が母さんと会えるのは、多くても週に一日。仕事が休みで家にいる時に顔を合わせるくらいだ。想夜歌は暗い顔を見せないし母さんを責めるようなことはしない。その代わり、会える日に目いっぱい甘える。だから母さんは、今のままで十分だと思っている節がある。

 いつもの想夜歌を知っている身としては、空元気のようなハイテンションが痛々しくて見ていられない。


「だからって進路を諦めていいわけじゃないじゃない。ま、どこでも良いから大学には行っておきなさいよ」

「たまに母親面するするなよ」

「もう、可愛くない」


 二本目のビールが空く音がした。


 いつもそうだ。この人はたまに、思いついたかのように親のフリをしようとする。本心では子どもに興味なんてないくせに。

 放任主義といえばまだ真っ当に聞こえるが、ただの育児放棄である。

 親の責任は金を出すことだけか? 違うだろ。


 だがそんな問答は何度も繰り返してきたから、もうやらない。この人には何も期待していない。


「そういや、来週だけど」

「何かあったっけ? 三者面談なら適当にやっときなさい」

「……想夜歌の誕生日だよ」


 母さんは二本の空き缶を叩き捨てて、風呂場に向かいながら言った。


「ああ、仕事」

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