第19話 姉の苦悩⑤

 一時は不穏な空気が流れていた教室も、平穏を取り戻していた。


すみ! おつかれ~」

「ひいら……いえ、麻帆まほ、お疲れ様」


 そして、二人が仲良くなった。暁山はまだぎごちないけど、柊はさすがの会話術で積極的に話しかけている。見た目だけじゃなく人柄への人気も高い柊が友達認定したことで、暁山への悪口は鳴りを潜めた。世の中は案外単純なものだ。


 柊の好み一つで流れが変わるのだとしたら、影響力がありすぎて怖い。


「可愛い子が並んでいると絵になるね? 響汰」

「想夜歌の次くらいにはな」


 ニヤニヤしている瑞貴がうざい。

 クラスは平和になったけど、俺にとっては緊迫した状況が訪れていた。


 なぜなら……。


「テストがやばい……!」

「えーっと、明日はさっそく数学があるね。響汰が苦手な」

「一夜漬けするしかないな」

「数学ってそういうものじゃない気がするなぁ」


 一年生の頃は赤点を連発、あわや留年というところまで追い込まれた。一発目から躓きたくないぞ。

 余裕の笑みを浮かべる瑞貴は、なんだかんだ勉強ができる。平均点以上は確実に取るタイプの男だ。運動部で忙しい上に遊び回っているくせに。


 前期中間テストなんてそんな難しくないから余裕。そう思っていた時期が私にもありました。

 ちくしょう、数学の田中先生め……テスト範囲と広すぎるし難しすぎるんだよ。


「なんでもっと前から勉強しておかなかったの?」

「勉強ならしてたぞ。綺麗なひらがなを書けるように毎日一時間は練習してる」


「想夜歌ちゃんに教えるためだね……」


 想夜歌には字が綺麗な女の子になって欲しい。

 そろそろ文字を書く勉強を始めるから、先だって俺が練習しているのだ。おかげで、硬筆はだいぶ上手くなってきた。さらさらと名前を書いて、瑞貴に見せる。


「うわ、めっちゃ綺麗。頭良さそう」

「だろ?」


 想夜歌が文字を覚えたら、日ごろの感謝とかを手紙にしたためて渡してくれたりするのだろうか。今から嬉しい。これを捕らぬ狸の皮算用と言う。


「で、数学は?」

「算数なら想夜歌に教えるために覚えた」

「算数はもともと出来てて欲しかったよ」


 ん、待てよ?

 想夜歌が高校生になるころには、俺は二十代後半……。高校生になった想夜歌が「お兄ちゃん、分からないところ教えてくれない?」と言いにくる……。その時、教えられないなんて情けないことを言うつもりか?


「瑞貴、俺本気出すわ」

「あ、そう」


 瑞貴の半眼を受け流し、教室を出る。帰ったら勉強だ。


 テンション上がってきた。想夜歌に頼られるためなら、俺は頑張るぞ。

 駐輪場にダッシュで到着すると、暁山がいた。


「……さすがに走って追いつかれると怖いのだけれど」

「暁山、俺は変わったぞ。今なら連立方程式を解けそうだ」

「中学生の範囲よ」


 瑞貴も暁山も冷たいな。まったく、点数を爆上げしてから手の平返しても遅いぞ。


 自転車を押して俺の隣に並んだ暁山は、なぜか乗ろうとしない。俺の顔を見て、口をもぞもぞと動かした。


「どうした?」

「一つ言っておこうと思って。……この前は助かったわ。ありがとう」

「お? おう。まあ体調が良くなったようでよかったよ」

「朔のことも、柊さんのことも。私は案外、何も分かっていなかったようだから、響汰がいてくれてよかった」


 なんか、いつも冷たい相手が素直だと調子狂う。

 自分で言いながら恥ずかしくなったのか、暁山は頬を染めてそっぽを向いた。暁山のこんな顔を知っているのは俺だけなんだよな、なんてらしくない考えが浮かぶ。一応、こいつはクラスでトップクラスに可愛いと言われている少女だ。ちょっとした特別感がある。


「感謝しているから、家に連れ込んだあげくに手を出したことについては不問にしてあげるわ」

「は? 手なんて出して――」


 ふいに、彼女の感触がフラッシュバックした。

 気絶した暁山を抱きとめた時は、必死だったから劣情を抱く暇もなかった。でも、記憶にははっきり残っている。細いのに柔らかい身体が、しっかりと伝わる熱が、ソファに運んだ際の重みが、腕に残っている。


 言葉を止めた俺を、氷点下の瞳が射抜いた。


「最低……」

「ご、誤解だ。何も覚えていない。そんな事実はなかったぞ、うん」


 だから怯えた顔で離れないでくれ。


 想夜歌の方が百倍可愛いだろ落ち着け俺……。スマホを取り出し、想夜歌の写真を見て心を落ち着かせる。なにこの写真、天使?

 そんな俺を見て違う意味で視線が冷たくなったけど、問題なし。


「ふふっ」


 暁山が声に出して笑うなんて珍しい。

 驚いて顔を上げると、彼女は自転車にまたがって走り始めていた。


「それと、カバンがずいぶんと軽そうに見えるのだけれど、大丈夫なのかしら?」

「あっ、やべ」


 教科書置きっぱなしだ。





「良かったよ、麻帆と暁山ちゃんが仲良くなれて」

「俺のおかげ、って瑞貴は言いたいわけ?」


 慌てて教室に戻ったら話し声が聞こえたので、扉の前で立ち止まった。中にいるのは瑞貴と柊か?

 なんとなく気になって、中には入らず耳をすませる。


「うーん、どうだろう。俺はただ好きなようにしてただけだからね。でも、俺が話しかけなかったら二人とも距離を置いてたでしょ?」

「瑞貴が余計なことしなければぶつかることもなかったよ」

「あはは、ちょっとくらいぶつかった方がいいんだよ。雨降って地固まるって言うでしょ。暁山ちゃんの塩対応を崩すには、これくらいしないと――っ」


 パンッと、小気味いい音が響いた。


「女の子で遊ばないで。瑞貴はもっと優しい奴だと思ってたよ」

「理想の押し付けだね」

「一応、仲を取り持ってくれたのは感謝してる。でも、許さないから」


 柊が瑞貴に対してここまで言うと思わなかった。あいつ、瑞貴のこと好きなんじゃなかったのか。

 俺も瑞貴の悪癖には腹を据えかねていた。だから正直、スカッとした。

 まああいつは痛い目見た方がいい。女性から嫌われるという形でな。


 ところで、教科書どうしよう。

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