小話
プリズム
旅に出ようと罪過が言った。
断罪がわずかに目を細めて微笑むのを見て、看守は停めてある車のほうへ歩き出した。
旅っていってもこの国からは出られないよ、ぼくの名前はどうしてくれるの、とりあえずご飯食べていこうよ。看守は矢継ぎ早に言葉を投げる。そうやってふたりの心が一瞬でもここから離れないように話し続けた。
喜びの足元に不安の影がある。ばか騒ぎをして連れ立って歩きながら、看守はふたりの目を見ることはできなかった。
「あ、コンビニ」
通りすぎた光を振り返って助手席の断罪が呟いた。看守はそうだねと極力そっけない相槌を返す。
「とまれよ」
「なんで」
「いいから」
看守は舌打ちしながらUターンをして店の正面の駐車場に車を停めた。
「まだなんか食べるわけ」
「どうせ夜通し走るだろ。適当に買ってくる」
そう言って断罪は降りていってしまう。呼びとめる間もない。
「あんたの兄さんの胃袋、あれどうにかなんないの」
「さあ、わたしに言われても」
バックミラー越しに罪過が目を細めた。看守は逃げるようにして目をそらす。
「ぼくは構わないけど、任せて大丈夫? きっと肉だらけになると思うんだけど」
「あと、おにぎりの山ね。……阻止してくる」
車を降りた罪過が、思い出したように振り返って運転席の窓を指で叩いた。看守は窓を開けて、なにと問う。
「欲しいもの、ある?」
まばたきの瞬間、まぶたの裏にいのちのように赤い夕日がよみがえる。看守はとっさに首を横に振った。いらないと一言添える余裕もなかった。罪過はワンピースの裾を軽やかに揺らして店へ入っていった。
重たげな潮騒が、夜になっても燻る熱気とともにどっと流れ込んでくる。看守はシートベルトを外し、背後に広がる暗い海を見やった。海は車道と防波堤の向こうにあるはずなのに、見つめていると足元まで波が寄せて海の上に浮かんでいるような気がして不安になる。のみこまれる、と繰り返し思う。夜の海は短い命が切り替わるときの根源的に断絶された場所によく似ていた。
縊られるような苦しさを覚えて、看守は夜の深いところから目をそらす。そのときふと、後部座席に転がる筒のようなものに気づいた。片腕が不自由なまま手を伸ばして掴み取ると、和紙の手触りがあった。万華鏡だった。
振ると色紙や色ガラスがさらさらと鳴る。覗いてみるが暗くてなにも見えない。シートに座りなおして店の明かりに透かしてみる。なかには赤、青、黄、銀など、色とりどりの三角が積もっていた。回すと円い世界に結晶のような花が咲く。砕けては連なって凍りつくようにまた咲く。一周回すあいだに生き死にを何度も繰り返した。どんなにおなじように見えても、まったくおなじ繰り返しはない。いつまでだって覗いていたくなるうつくしさに看守は息を忘れた。
これまでのすべての命を覚えている。姿や、体に響く声や、癖、好み。そして生きざまと死にざま。どれも忘れられるはずがなかった。はじまることができなかった看守にとって、宿主の目を通して見える世界はいつだって万華鏡のなかのようにきらきらと煌めいていた。
どうかこの夜が、この夏が、この命が続きますようにと一心に願う。たかが名前ぐらいのことで満たされるような想いではなかったはずだ。ようやく生まれ落ちた。もう、泥のような、かたちを持たない存在ではない。ようやくはじまるのだ。まだ、まだ終わらせない。万華鏡を回しながら、看守は奥歯を噛みしめた。
「きれいだろ、それ」
すぐそばから断罪の声がして、看守はあわてて万華鏡を下ろした。断罪を睨みつけるように見て、その手になにも持っていないことに気づく。
「なんにも買ってないじゃん。罪過は?」
「勝手に買うこともないよなって。罪過がおまえ呼んでこいって」
「はあ……、ケガ人に車運転させるだけじゃ飽き足らず買い物までさせるんだ」
看守は眉を顰めて長く息を吐いた。渋々車のドアを開けると断罪に腕を掴まれ、強く引っ張られる。
「肩」
断罪は海に向かって顔をそらして、看守と目を合わせようとしない。看守は低い声でおうと応えて、断罪の肩を支えに車から降りた。
潮風がシャツの裾から潜り込む。まだなにもない、この軽いいのちでは、いまにも吹き飛ばされてしまいそうだった。
横からそっと、断罪の手に抱かれる。
「なあ看守。おれはいつもどうやって死んでた?」
「なんだよ、いきなり」
「おまえは、どうやって死んでた」
看守は返す言葉を失って断罪の横顔を見上げた。何度も口をひらこうとするが引き攣ってうまく動かない。
「運転するおまえを見ながら考えてた。おれはいつだって、気づけば次の命にいた。明確な死を感じたのはこないだ罪過に撃たれたあれが初めてだった。目覚めるとおまえが迎えに来て……、そうやって途切れないいのちを繰り返すうちに、考えることをやめてしまった。おれは……、もっとずっと昔におまえに訊くべきだった」
看守は断罪の視線を追って海を見やる。そこには変わらず不安が波打っていた。
「……知りたい?」
断罪が振り返る。わずかに驚いたような顔をして、やがて静かに吐き出すようにして笑った。
「いや、……うん。いま言葉にするまでは知りたかった。でも、もういい」
目が合う。看守は胸のうちの弱さを知られたくなくて目をそらそうとしたが、断罪の目の奥に夜の海のような揺らぎを見つけて、ひっそりと感嘆のため息をこぼした。
看守は断罪の肩に掴まりながら片足でけんけんをして、海を真正面に見据えた。
「ぼくたちはまっとうな生きびとじゃない。明日にも死んでしまうかもしれない」
肌に触れる暑さに翳りを覚える。季節も、命も、どんなものでも、褪せていってしまうときには寂しさが募った。いとしい、厭わしいと思うものほどそうだった。
「そのときがいつ来るのか、もしくはこれからも転生を繰り返すのか、それは……、ぼくにもわからない。でもいまはそれでいい気がする……。ほんとにいま、たったいまそう思った」
震える声を飲みこむ。
「ずっと、ぼくのほうが繰り返そうって言ってたのに」
へんなの、と乾いた笑いとともに呟くと、断罪はそうだなと言って店へ向かって急に歩き出した。看守は転びそうになりながら断罪の腕や背中にしがみついてあとに続いた。
不安が消えることはない。いのちをなぞるほど死はますます怖くなる。だがその痛みがいまは心地よかった。生きているのだと胸を張って言える。
まぶたの裏ではいまもまだ真っ赤な太陽が脈打っている。まばたきをすると万華鏡の輝きが世界にちらばった。
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