やわらかな檻

 会ったばかりのおとこの腕に抱かれながら、沙々奈は宇宙空間が広がる天井を眺めていた。耳のそばではおとこの腕時計がかちかちと鳴っている。午前二時を回ろうとしていた。

 いまごろ兄はどうしているだろうかと目を閉じて姿を浮かべる。すこし癖のあるやわらかな髪、肉の薄い頬、体温を感じさせない手首、低すぎない声、鋭くて優しい一重まぶたのまなざし。死んだ父に年々似てくると母は言うが、沙々奈には父の記憶がほとんどない。兄の姿も声も沙々奈にとっては兄だけのものだった。

 秒針の響きの向こうで、沙々奈ちゃん、と繰り返し呼ぶ声がする。兄とは似つかない甘い声だった。けれど兄も彼女にはこんなふうに囁くのかもしれないと思うと、途端に指先まで熱くなり息があがった。あんまり苦しいので大きく息を吸う。たまらず、かぼそい声が洩れた。

 急によくなったね、ごめんもういいかなとおとこが繕うように笑うので、沙々奈はかすかにうなずいた。このままでいいのと何度も確かめてくるのがうっとうしくて両手で耳を塞ぐ。まぶたの裏や耳の底にいる兄が消えてしまうから、なにも言わないでほしかった。勝手にしてよと掠れた声で言い返すと同時に涙がひとすじ流れる。いつしか兄の姿が見えなくなっていたことに気づいた。

 空調のかすかな風が腹を撫でていく。背中へと沈殿していく濡れた砂のような重みを他人事のように傍観しながら、沙々奈は小さくため息をつく。それだけで胸はすっかりからっぽになった。

 シャワーを浴びているあいだに、兄に会いたくなった。一度そうなるとどうしても我慢できない。引き留めようとするおとこと言い合いになり乱暴に髪を掴まれたが、つま先の尖ったパンプスで脛を蹴りつけ逃げ出した。

 自動ドアの外はひどく蒸していた。霧のように細かな雨が降る。いつまでも灯り続けるたくさんの明かりが雨滴に映って乱反射した。沙々奈の肌にも明るいばかりの白い光が落ちる。光は膨張する。ほんの小さな明かりでも、暗闇が深いほど濃く、遠くまで届く。そうやってこの街は光に満ちている。

 これからどこへ行くのと体を寄せてくる客引きを無視して、兄の部屋へ向かった。外から部屋を見上げる。明かりはない。仕事だろうか。時刻は三時を過ぎていた。

 寝ているだけかもしれないと部屋の前に立ちインターホンを押してみる。からっぽの空間に何重にも響いて、やがて煙が消えるように静かになる。五分待っても十分待っても、ドアがひらくことはなかった。

 マンションやビルが邪魔をして、たかが三階の廊下からでは世界はすこしも広がらない。身を乗り出すと街の隙間に逃れた暗がりが明かりのなかでひっそりと息をしていた。足取りのおぼつかない酔っ払い、破れたビニール袋からこぼれる生ごみ、骨の折れた傘、暗闇をまとって颯爽と走る猫。そういった景色を目にすると沙々奈はすこし落ち着いた。スカートの裾を気にすることなくその場に座り込み、兄の帰りを待つことにした。

 もっとずっと子どものころにも、家の鍵を失くしてしまい兄を待っていたことがある。ランドセルをおろしてドアにもたれて鉄柵のあいだから辺りを眺めていると、行き交う人の姿がなく、風が吹かず空も滞り、停止した世界のなかで自分ひとりだけが生きてしまっているような気持ちになった。兄も母も、もう帰ってこないかもしれない。鍵さえ失くさなければ世界に取り残されることもなかったと思うと情けなくなった。太陽が傾きはじめるころになってようやく制服姿の兄が帰ってきて、すっかり冷えた手を大きな両手で包み込んでくれた。

 あのときはお気に入りのブラウスとカーディガンを着ていたから晩秋だった。おなじように膝を抱えてみる。梅雨特有の湿気がまとわりついて、ときおり触れる夜風が心地いい。悲しいほどあのころのような寂しさは感じられなかった。むしろ待っているあいだだけは、自由だった。

 エレベーターのとまる音がして足音が近づいてくる。兄の都々だという確信があった。

「沙々奈?」

 呼びかけられるまで眠っていたように装いながら沙々奈はのろのろと顔をあげた。

「おかえり、おにぃ」

「おまえなにしてんの」

「始発までまだ時間あるから、おにぃのとこで寝ようと思って」

「学校は」

「昼からだから大丈夫。ただ昨日レポート書いてたせいで寝不足」

「だったらちゃんと終電までに帰れよ」

 眉をしかめて冷たく沙々奈を見下ろしながら、都々は部屋のドアを開ける。沙々奈は膝をゆるく抱えたままじっと兄を見上げていた。目を逸らしてはいけない。やたらと微笑んでもいけない。そうしていると、都々は疲れきったため息をついて手を差し出した。

「ほら」

「ありがとう、おにぃ」

 強く引かれて立ち上がる。掴んだ兄の手は乾いていて、皮膚よりもその奥の肉や骨があたたかく感じられた。

 繋いだ手を見つめて都々がぽつりと問う。

「いつからここに」

「わかんない。三十分くらい、かな」

「そう」

 冷たい手と呟いて都々は大切そうに手を離した。

 部屋のなかは日中の熱が降り積もっていた。沙々奈は断りもせずエアコンをつける。都々はシャワーを浴びるといって部屋の片隅で山になっている洗濯物からタオルと下着を持っていった。洗いたてのスウェットが上下揃っていたので、沙々奈は遠慮なくそれに着替えた。

 ここには家のにおいというものがない。一日のほとんどの時間を職場で過ごすからか、荷物が少ないからか、兄の部屋にいるという実感はあまりない。けれどスウェットからは乱暴な洗濯洗剤の香りに混じって兄のにおいがする。顔をうずめると兄に抱きしめられているように思う。沙々奈は胎児のように体を丸めて敷きっぱなしの布団に転がった。

 ずっとここにいられたらいいのに。

 カーテンを開けて明かりを消す。外からの光だけで部屋を眺め、この狭いワンルームでふたり暮らす姿を想像してみる。実家も1DKの小さなアパートだ。はじめは窮屈に感じてもすぐに慣れるはず。喧嘩はたくさんするだろうが、そのたび仲直りできる自信が沙々奈にはあった。掃除や洗濯は実家でもやっているし、苦手な料理はすこしずつ覚えていけばいい。兄はなにがあっても沙々奈に手をあげないし、どんなわがままだって最後には聞いてくれる。沙々奈も兄のためならなんだってできた。きっと仲良く暮らしていける。

 ただし、それらはすべて兄妹を越えない。

 シャワーから戻ってきた都々は沙々奈がスウェットを着ているのでTシャツを引っ張り出し、先ほど脱いだジーンズを再びはいた。布団は沙々奈が占領していたので、クローゼットから取り出した毛布を敷いて横になる。都々はおやすみという間もなく眠りに落ちた。

 兄の呼吸がかすかに聞こえてくるだけで幸福感でいっぱいになる。それなのに満たされない思いも強くなる。やがて飢餓感だけが沙々奈の胸のうちを占めた。

 沙々奈は起き上がり、眠る兄の顔を見つめた。あまり似たところのない兄妹だが、すこし薄い唇のかたちだけはおなじ血を感じさせた。沙々奈にとってはコンプレックスの唇も、兄には魅力でしかない。この唇が話したり、食事をしたり、微笑んだりする以外のために使われるときを思うと気が狂いそうになる。

「おにぃちゃん」

 子どものころのように呼びかけるといっそういとしさが募った。何度も何度も呼びかけているとたまらなくなった。人差し指でそっと唇に触れてみる。うっすらとひらいた部分から兄のものであった息がこぼれて指を湿らせていく。沙々奈は吸い寄せられるようにして、ためらうことなく口づけた。

 背中に流していた髪が肩をすべり、兄の頬や首へ落ちていく。都々は眉をしかめてのろのろとした手つきで振り払おうとする。沙々奈がようやく顔をあげると待っていたように都々は目をひらいた。

「なにしてんだ、はやく寝ろよ」

 唇には兄の感触が残っている。いつから起きていたのか訊きたい気持ちを飲み込むと、代わりの言葉がすり抜けていった。

「おにぃは彼女とかいる?」

「答える必要なし」

 きっぱりした拒絶に息が詰まりそうになる。沙々奈は、あーとかへーなどと言って呼吸を整える。

「いるんだ。わたしよりかわいい?」

「意味がわからん。寝ないなら帰れ」

 あくびを噛み殺しながら兄は寝返りを打とうとする。沙々奈は慌てて手を伸ばした。

「ねえ、おにぃ」

 引っ掻くようにして兄のTシャツを掴む。

 他の誰にも渡したくない。沙々奈のためだけのおとこでいてほしかった。

「もしわたしが妹じゃなかったら」

 言葉にしてから、はっと我に返る。

「なんだよ」

 眠たげだったまなざしに静かで優しい光がにじむ。

 なぜ急にそんな目をして見つめるのか。沙々奈の想いに兄はどこまで気づいているのか。言葉の続きを言ってしまってもいいのか。

 吐き出してしまいたい。この苦しい想いから解放されたい。

 そう思うほど言葉は体の底のほうへと沈んでいく。兄妹という檻は疎ましいが、ここに繋がれているかぎり兄と離れることもない。

 沙々奈はぎりぎりと絞められるような苦しさをこらえて、へらっと笑った。

「なんでもなーい。おやすみ」

 背を向けて寝る振りをする。しばらく視線を感じたが、やがて兄は眠ったようだった。

 なんでもない、なんて。なんて見え透いて甘ったれた嘘だろう。ばかみたい、と唇だけで呟くと涙が止まらなくなった。

 窓辺から夜明けが染み入る。

 泣き疲れてぐったりと横になっていたが、ひどい空腹で起き上がった。冷蔵庫にはミネラルウォーターとマヨネーズと小さなレジ袋しかない。袋には先日発売したばかりのコンビニスイーツと水玉模様のメモが入っていた。職場でもらった差し入れのようだった。丸っこい女の手で、お疲れさまですと書かれていた。

 窓を開けて、小さなベランダへ足を投げ出す。メモは丸めて外へ投げた。音もなく明けていく空を見上げながら、沙々奈はプラスチックの蓋を開けた。

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