6 世界の終わりを君とおどる(4)【完】
テレビから甲子園のサイレンが鳴り響く。アナウンサーは興奮を押し隠し、静かな声で夏が終わったと告げた。喜びあう高校球児の脇には、一塁ベースでうずくまったまま動けない少年もいる。日焼けした顔に浮かぶ汗と笑顔は夏の眩さでありながら、夢の終わりでもあった。
手に、罪過のぬくもりが触れる。どちらもテレビへ視線を向けたまま、指先をたぐり寄せた。互いの指を交互に絡ませ、隙間なく手のひらを合わせる。ずっとこうやって手を繋いできた、そんな気がする。
「兄さん、そろそろ行かなきゃ」
「わかった」
テレビを消して球児たちの涙をテレビのなかに閉じ込める。静かになった部屋に、車が行き交う音と蝉の声がそよ風とともに流れ込む。突き刺さるようだった太陽の切っ先にはいつしか丸みが感じられるようになった。いつまでも続く暑さの裏側で、季節はたしかに移ろっていた。
デニムのポケットに財布を押し込んで片手に沙々奈の鞄を持つ。駄菓子屋で買った万華鏡、使い残した花火、コインランドリーで拾ったタウン誌。あとは金平糖とソーダ水を詰め込んだ。
部屋を施錠して、鍵を扉の新聞受けに入れる。もうここへ戻ってくるつもりはなかった。
晴れ渡って雲ひとつない空は、どこか平面的で息苦しい。空いているほうの手を差し出し駅へ向かう。行き先はすべて罪過に任せていた。繋いだ手はわずかに緊張しているようだった。
降り立ったのは港の駅だった。道のつきあたりに観覧車を見上げる。だが観覧車には乗らず、隣接する美術館の裏手へまわり込み、海を見渡せる場所に立った。堤防にもたれかかり潮風にあたる。コンクリートに囲まれた海は波が小さく大河のようだった。
観光船は今日最後の客を乗せて出航する。どこからともなくカモメがやってきて、船のまわりを飛んだ。広場のベンチでは家族連れがソフトクリームを食べながら笑いあっている。三脚を担いだ学生風の男が慣れた様子で場所を選び、景色と時計を見比べてから煙草に火をつけた。
ひとときも手を離すことなく隣に立つ罪過は、水平線をまっすぐ見つめていた。軽く唇を噛み、緊張した面差しでじっと黙り込んでいる。訊きたいことはいくつもあったが、断罪もまた口を閉ざした。彼女らを信じて待つしかできなかった。
今朝起きると罪過が言った。看守を迎えにいこうと。なぜいまなのか、彼はどこにいるのか、気になることは多々あったが、断罪はただ一言いいよと返した。
大型タンカーに設置されたクレーンの先には太陽が吊り下げられていた。やがて太陽は赤く熟れてクレーンからぽとりと落ちる。線香花火の散りぎわのようだった。観覧車から見たときよりずっとやわらかな光で、太陽は海の向こうへと沈みつつあった。
風の行方を追うように、不意に罪過が振り返った。断罪もまた彼女にならって後方の階段を見やる。そこには片腕を布で吊り、頭に包帯を巻いた看守がいた。脚も痛めているのか、一段ずつゆっくりと階段を下りてくる。断罪も罪過も、彼を迎えに歩み寄ることはしない。その場でじっと待った。
片脚を引きずり、ようやく看守がふたりの前に立ったときには、太陽がいっそう燃えて、辺りは火に取り囲まれたように赤く染まっていた。なかでも看守の金色の髪は炎そのもののようだった。
「その傷、どうした」
「大体は予想ついてるだろ。ロッカーも見たみたいだし」
「じゃあ……」
「あとは公僕の皆さんに託してきた。ひとりふたりを殺せても、組織を潰すことはできないから。それよりさ、これひどくない? 最近は長く入院させてくれないんだね。検査結果に問題ないからって、たった三日で追い出されたよ」
看守は体を見下ろし、目を細めた。
「人って、わかんないね。こんなに痛いのに死んでない」
自由なほうの手を握ったりひらいたりして、乾いた声で笑う。そうしながら看守はふたりから器用に視線をそらしていた。
「看守」
罪過の呼びかけに看守は表情を潜める。
「なに」
「わたし、あなたの願いが知りたい」
「ぼくの願いだって?」
首をかしげて看守は鼻で笑った。
「そんなの決まってるじゃない。君たちが延々と繰り返して、苦しみ続けることだよ」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうするの」
「そう……」
罪過は看守の手を取って握った。
「じゃあ、これからも一緒に繰り返してくれる?」
「え、なに、どういうこと。ちょっと、正気なの罪過。〈浄化〉したいんじゃないの」
看守はひどく慌てて、罪過の手を振り払った。だが片脚が不自由なせいでバランスを崩し、断罪の腕に寄りかかった。
「断罪……。ねえ、なにこれ。どういうこと、説明してよ」
「なあ、看守。〈浄化〉なんて、そんなものははじめからなくて、おれたちを繋ぎ止めるための口実だったんじゃないのか」
「なんで、そんなこと」
看守は断罪を突き飛ばすようにして離れる。よろけながらひとり立ち、じっと地面を睨みつけた。その眼差しに、断罪は戸惑いと安堵の色を見い出す。
「おまえは言ったな、この転生は恨みがかたちになったものだと。そうしてまで生きたかったおまえが〈浄化〉という死を許すとは思えない。だったら〈浄化〉は存在しえない」
「ぼくの話を信じるっていうの」
「ああ、そうだ」
「ばかじゃないの」
「かもな。でも、いい」
まだうまく笑えない。それでも断罪は、看守に向かって微笑んだ。看守は髪をぐちゃぐちゃに掻き乱して、へなへなとしゃがみ込んだ。
「なんだ、これ……。君たちは自ら繰り返そうとでもいうの」
「そうね」
罪過は向かい側に腰を下ろし、看守の絡まった金髪を指でやさしくほどいた。
「みんな一緒に」
「……ばかじゃないの」
いまにも泣き出しそうな顔をするので笑うのかと思えば、看守はそのまま口をへの字に曲げてぼろぼろと泣いた。
「願い、ぼくの、願い……か」
溢れる涙を拭いもせず、看守は恍惚として夕景を眺めた。
「いっぱい、あるよ。ありすぎて何を願えばいいのかわからないくらい。学校へ行ってサボってみたいとか、旅先で枕が違うから寝られないって駄々をこねてみたいとか、オールでカラオケした朝に線路を歩いてみたいとか、目があったとかあわなかったとか、そんなことで一喜一憂してみたいとか……、あるよ、たくさん……。でも、でもね、その前に、そう……」
看守は声にならないため息をこぼした。
「なまえ。なまえをちょうだい」
まるでお菓子を欲しがる幼い子どものようだった。
「呼ばなくてもいい、ぼくはこれまでどおり看守でいい。でも、名なしはもう、嫌なんだ」
「わかった」
断罪はうなだれた看守の頭に手を乗せて、軽く叩いた。
「つけてやるよ、名前」
頭を上げた看守は泣き顔と笑顔の混じった顔をしていたが、それは以前のような不足からくる表情ではなかった。
もしかすると、もう転生は訪れないかもしれない。これが最後のいのちになるかもしれない。断罪の胸にふと不安がよぎった。
首筋に太陽の舌先を感じて振り返る。空は幾筋もの雲に区切られ、それぞれ思い思いに色づいていた。泣いて、怒って、笑う空の向こうで、剥き出しの心臓が脈打っている。
汽笛が低く鳴り響く。
あざやかなままいのちを散らす太陽に、断罪は目を細めた。
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