6 世界の終わりを君とおどる(3)

 手を伸ばし、頬に触れる。抱き寄せようとすると、さらに傷が深くなった。

「やめて、こないで」

 罪過は声をこわばらせた。ナイフを持つ手は震えていた。傷口が氷のように冷えて、やがて焼かれたように熱くなる。

「もう殺してくれないのか」

「ひどい……、ひどいひと」

 じわじわと罪過の顔が歪んでいく。笑うでも、怒るでも、泣くでもない、いくつもの感情が綯い交ぜになった顔をした。そうやって足りない感情を補っていた。

「一度撃ったんだ。二度殺すのも同じだろ」

 額を重ねて、そらすことのできない距離で視線を交わす。

「だって、あのときは知らなかったから」

 言葉を紡ぐたび唇がこすれあう。罪過が唇を噛もうとするので、断罪はほぐすように舌で舐めた。

「知らなかったって、なにを」

「言わない。言わない、絶対に」

 目に涙を溜めて、罪過は声を振り絞る。なおも重ねられる否定の言葉を、断罪は口づけで塞いだ。くぐもった声が聞こえたが、ひどく拒まれることはなかった。

 唇と舌で呼吸を縫いあわせていくほどに、傷口が深くなる。血がナイフを伝い、ふたりの肌の隙間へぬるりと入り込む。やわらかな唇を吸うと理性がやさしく痺れていった。

「罪過」

 離した唇から、飲み干しきれない熱がこぼれていく。

「兄さんは……ずるい」

 罪過は手に張りついたナイフを振り落とした。傷口に指を添え、ため息とも失笑ともつかない息をつく。

「兄さんはいつもなんでもわかってる振りで、わたしがどれだけ苦しんでも届かない高みにいて、どんなときも、這いつくばってるわたしに手を差し出してくれて……ずるい。絶対に追いつけない。わたしのほうがずっと、ずっと、……」

 罪過は続く言葉を飲み込んで断罪を睨みつけた。

「だいきらいよ、兄さんなんて」

 血で染まったシャツにしがみついて、罪過は触れあうだけの口づけをした。引き千切られた真珠の首飾りのように、こらえていた涙がまばたきとともにこぼれ落ちていく。断罪は罪過を強くかき抱いて、ワンピースの下の素肌を手繰り寄せた。

 もつれあうようにして床へ倒れ込み、夜風に晒された肌に咬みつく。下着の留め金を外し、ささやかな膨らみを手におさめる。冷たい肌の奥深くでは、罪過と沙々奈の命が脈打っていた。

 千億の夜と数えきれない命を弔うには、慈しみあうだけでは足りなかった。寄り添うだけで満たされるなら、このようないのちを生きることもなかった。

 触れていたかった。終わりのない転生も、あるかどうかもわからない〈浄化〉も、はじまりの罪やいのちも関係なく、指や舌や全身で、彼女の肌をなぞっていたかった。次の命へ渡ったときに、体を重ねれば時を越えられるよう、互いのいのちに刻み込んでおきたかった。

 かつてそうしたように。

 いま、このときのように。

 何度も唇を吸いあったせいか麻酔でも打たれたようになり、どこまでが自分でどこからが罪過かわからなくなった。それでも離れたくなくて、どこかで必ず重なりあう。鎖骨を舐め、乳房を嗅いで、臍をなぞって、脚の付け根に耳を寄せた。

 ネオンと月明かりが彼女の体に陰影を作る。その影の奥へと舌を伸ばして絡めると、無言の切なさがじんわりと滲んだ。髪を掴まれ顔を上げると、上半身を起こした罪過と目があった。いつまでも続くいのちのように、果てることを知らない彼女の瑞々しい吐息がいとしくてたまらなかった。

 首筋の傷から垂れた血が、罪過の白い肌に点々と落ちる。花びらのようだった。香るはずない花の香りがする。それは遠い過去から響く香りだ。色とりどりの花が脳裏を掠める。少女が歌い、踊り、駆けながらこちらへ手を振っていた。呼んでいる。愛らしい声でにいさん、にいさんと笑いかけてくる。断罪は奔流のごとく押し寄せる記憶に息をのんだ。

 月の輝く夜に部屋を抜け出した。手を繋いで、子うさぎのように跳ねながら軽やかに走る。たどり着いた丘で腹這いになって寝転がり、辺りに広がる花の群れをともに見つめた。きれいだねと囁きあったそのときにはもう、花など見えない。互いの目に自分以外のものが映るなんて許せないほど近づきあって、抱きあいながら草の上を転がった。

「にいさん」

 窮屈になる体に耐えられず、罪過が熟れた目で呼んだ。断罪はかつて手を繋ぎ、見つめあい、重ねあった少女を強く抱く。

「罪過、……」

 少女の名を喉の奥に押し留めて、無言のままそっと口づける。呼ぶと、これまでの繰り返しがすべて消えてしまうような気がした。

 互いの息を奪いながら、夜の海を泳ぐように手さぐりで繋がりあう。青黒く沈んだ部屋は、走り去る車のヘッドライトでときおり水面が揺れた。次第に、波にのまれているのか、自分たちが波そのものであるのかわからなくなる。ただ、揺れていた。揺れ続けていた。いのちをたゆたうように、命をたどるように、夜へ潜るように、揺れては凪いで、また揺れた。果てても次の波が待っていた。終わることのない夜だった。たったひとつの夜だった。

 やがて夜が明け、断罪はまどろみから目覚めた。首にはいつのまにか包帯が巻かれている。すぐそばでは罪過が静かに眠っていた。

 胸に湧き上がってくるものがあった。断罪はその想いの名を知らない。持て余すほどの感情に、いっそ身が引き裂かれてしまえばいいのにと思う。それほど狂おしい熱が息づいていた。

 触れると壊してしまいそうで、けれども我慢できずにやわらかな唇に指を這わせる。奪いあったせいか、いつもより乾いていてあたたかい。目覚める気配がないので、息を潜めて唇を重ねた。

 あと何日、この体で生きられるのだろう。あと何度、彼女を抱きしめられるだろう。一度死んでいる肉体だ。いつまでも動いてくれるとは限らない。次の鼓動のすぐあとで息絶えるかもしれない。いつかまた、今日のことを忘れてしまう日が来るかもしれない。

 息吹を注がれたように罪過が目を覚ます。ふと、彼女がふたたびすべてを失っていたらとこわくなる。

 だが断罪の心配を吹き飛ばすように、罪過は眉を寄せて困ったように微笑んだ。

「おはよう、兄さん」

 笑い方を知らないふたりは、清新な朝日のもとで不器用に微笑みあう。

「おはよう」

 触れる手が震えていた。目に映る、肌に触れる世界のいとおしさに、いのちのすべてが歓喜していた。

 いまここに、たしかに生きていると。

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