6 世界の終わりを君とおどる(2)

 踏み出す足に迷いはない。向かう先に間違いはない。求めれば、必ず彼女にたどり着く。

 ひとりになるとさまざまなことが去来した。それらはこれまで通り過ぎてきた命が映した景色、それぞれの世界の手触りだった。一度足をとめてしまえばいま目に映る世界を見失ってしまいそうで、断罪は歯を食いしばり走った。走って、走って、息があがって苦しくなっても、心臓が破裂しそうになっても走った。そうしているとやがて不意に、嘘のように呼吸が楽になる。羽が生えたように体が軽くなる。肌ではじけた雨が花吹雪のように舞いあがり、断罪の駆け抜けた背後へ散っていく。そのたびに、これまでのいくつもの命の景色が光になって弔われていった。

 看守を殴った手は、いまも痛みに疼いていた。見ると小指の付け根に血が滲んでいた。きっとコインロッカーの鍵で切ったのだ。

 看守はコインロッカーの中身をもとに、隼弥が遺した未練を晴らすのだろう。それが彼のいう復讐に違いない。看守はきっともう部屋にはいない。だがあれが今生の別れとは思えなかった。

 罪過を追って行き着いたのは前にも訪れたショッピングモールだった。あの日広場を彩っていたひまわりは、いまはもうない。不穏な天候に人影もない。屋上までの階段を一気に駆け上がり東屋を目指す。そこに罪過はひとり座っていた。髪も服もずぶ濡れで、いっそう頼りない後ろ姿だった。

「罪過」

 返事はない。うつむいた罪過の前髪から雨がしたたる。断罪は彼女の濡れた髪を指でそっとかき寄せた。軽く伏せた罪過の目元は雨に潤んで、まばたきをするたびに小さな雫がこぼれた。

「死ねないものだ」

 罪過は笑みに届かない哀切を浮かべる。

「柵に身を乗り出して下を覗き込んだだけで足がすくんだ」

「罪過……」

「どうせまた、生きるのに」

 白くやわらかな頬に睫毛の影が落ちる。

「きっとわたしは、死を知らなかった。あんなに孤独な気持ち……」

 死を恐れはしても弱さを曝け出すことをおそれない罪過はうつくしかった。

 断罪は罪過の隣に腰かけて雨に煙るビル群を眺めた。大きな看板もネオンも霞んで街は重たげに沈んでいる。それでも街路樹の緑だけはあざやかなまま、打ちつける雨粒に身を委ねていた。

 ふと指先がこすれあう。断罪は沙々奈と雨宿りしたときのことを思い出した。断罪は指をたぐり寄せ、逃してしまわないようにしっかりと握った。罪過はあの日の断罪のように、握り返すことも振り払うこともしなかった。

 互いの肌を伝う雫が吸いついてひとつになり、スピードを上げて落ちていく。

 遠くを見つめる罪過の瞳を、彼女の邪魔にならないようそっと見守る。この雨が止む前に罪過が次の命を望んだなら、その願いを叶えてやろうと心に決める。

 いつまでも繰り返すというのなら、そうしよう。終わり方を知らないまま、いつまでも世界をさまよおう。罪過と、そして看守がいるなら、断罪に恐れるものは何もなかった。

 どちらも言葉を交わさないまま雨が降り続けるのを見つめていた。やがて空の端に目を疑うような青空が生まれる。街中を覆っていた雨も嘘のように過ぎ去った。街は息を吹き返したようにいつもの喧騒に包まれていく。

「かえろう、罪過」

 握った指がかすかに震えたが、罪過は何も口にはしなかった。断罪は彼女の手を引いて立ち上がり、強風の残る屋上庭園をあとにした。

 風に吹かれて歩いていると、断罪のシャツや罪過のワンピースはすぐにも乾いた。だが繋いだ手の内側はいつまでもしっとりとして、都々の子どものころを思い出させた。ふたりの手のあいだには、いまも秘密が潜んでいる。その蜜が手のひらを隙間なく、混ざりあいそうなほどぴったりと引き寄せていた。


 今日一日のことが走馬灯のように脳裏をよぎった。今朝いつもどおりアルバイトに向かったことが、もう何日も前のことのように思える。

 ドアを開けると部屋に看守の姿はなかった。やはり、と胸のなかで呟く。殴ったときに落としたであろうコインロッカーの鍵も見当たらない。卓上には隼弥の携帯電話が置き去りになっていた。

 水彩絵具のように透けて暮れそむ空に、そこだけ塗り忘れたように満月が浮かぶ。木漏れ日にも似た光のかけらが部屋を薄ぼんやりと照らした。

 するりと指先をすり抜けて罪過が離れていこうとする。

「シャワーを浴びたいから」

 罪過は自由にならない手を見つめる。

「寒いの。離して」

 歩いているあいだに服は乾いたものの、体の芯の部分は死んだように冷えきっていた。わかりながら、さらに強く手を握る。

「もう逃げたりしないから」

「そんな約束が欲しいわけじゃない。逃げられたって、また見つけだす」

「だったらどうして」

 罪過は鋭く睨みつける。月光のような眼差しだった。どこまでも冷たいくせに、ほんの一瞬だけ哀しいほど優しい目をする。

 その目をずっと昔にも見たような気がした。その眼差しをかつて深く慈しんだようにも思った。

 断罪は気づく。いのちのはじまりは灰に埋もれた種火のように静かに熱を孕み続けて、いまもここにあるのだと。

 繋いだ手だけが熱く、融けてしまいそうだった。

 罪過は断罪の視線を察して鼻で笑った。

「繰り返すというの、罪を」

「いけないか」

「愚かよ」

 表情を変えることなく罪過はさらりと言い放った。

「そうか、愚かか」

 断罪は思わず笑みをこぼした。頑固な彼女に安堵といとしさを覚える。強くあろうとする姿が健気でもあった。だがかたくなに揺らがないことは強さだろうか。

 罪過は静かにため息をつく。

「なにを言っても無駄みたい。わかったわ」

 罪過は断罪の手を払い、部屋の片隅にある作り付けの棚からサバイバルナイフを取り出した。切っ先を断罪に向ける。

「あなたを殺してからにする」

 迷いのない目をしていた。けれど自らの弱さを押し殺して気丈に振る舞っているようにも見えた。

「あの廃墟で撃ったみたいに?」

「今度はその喉をかき切ってやる」

「そうか」

 断罪は一歩、二歩、罪過へ歩み寄る。

「なにを……」

 罪過は怪訝そうに眉をしかめた。断罪との距離を保とうとするが背後の壁に阻まれる。

「罪過、なるべく一瞬で殺せよ。そうでないと、おれはおまえに手が届いてしまう。繰り返してしまう。それは避けたいだろう?」

 ナイフの先端が断罪の喉の皮膚を薄く裂いた。爪で引っ掻いたような赤い線が浮かび、やがて滲む。

「来るな、死にたいのか」

「おまえこそ、もたもたするなよ。おれを殺してシャワーを浴びるんだろ」

 ぴんと伸びていた腕は断罪との距離が縮まるにつれて、窮屈そうに折りたたまれていく。

「おれは繰り返したい、なにもかも。〈浄化〉なんてなくていい」

「正気か」

 断罪はゆっくりうなずいた。

 いつしか互いの爪先が触れ合うほどになっていた。あと一歩踏み込めば、このまま彼女を抱きしめれば、たちまち断罪の首は切り裂かれてしまう。

 罪過の指先は血の気を失って白くなっていた。この手がやがて自分を殺すかもしれないと思うと、甘い想いが胸に広がり背中が震えた。

「おれはおまえになら何度だって殺されてもいい、殺されたいと思う」

 否応なく罪過の存在で断罪が埋め尽くされていく。罪過もまたいつもこんな気持ちだったのだろう。だから彼女はビルの屋上で死を恐れた。その死は断罪の手によってもたらされるものではない、孤独なものだったからだ。

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