6 世界の終わりを君とおどる

6 世界の終わりを君とおどる(1)

 断罪はドアに額を押しつけ、玄関に立ち尽くした。

 空っぽのビニール袋になったような気持ちだった。嵐のなかで簡単に吹き飛ばされて、なされるがまま踊らされている。

 罪過が遠ざかっていくのを意識のうちで追う。もうアパート前の横断歩道は渡ったころだろうか。ドア越しにも雨が激しさを増しているのがわかる。罪過は雨宿りをする様子もなく、すこしずつ離れていく。

 目を閉じると瞼の裏に彼女の涙が浮かんだ。殺せばよかったのか。これまでと同じように繰り返せばよかったのか。彼女がそう望むなら……。けれど断罪は胸に焼きついた光を忘れることができない。

 断罪はそのときはじめて、罪過がこれまでの転生で一度も逃げなかったことに思い至った。断罪がそこへたどり着くまで何日かかろうとも、罪過ははじめに目覚めたその場所から動かなかった。殺されるとわかりながら、きっと断罪を待っていた。

 いつだって、彼女は。

 断罪は踵の潰れたスニーカーを急いで履いて、ドアに手をかける。行かなければ。

「……罪過」

 しかし部屋を飛び出そうとした断罪の足がとまる。ドアを開けるとそこには看守が、突然ひらいたドアに驚いた顔をして立っていた。

「看守」

「やあ、どこかへお出かけ?」

「いや……」

 罪過が目覚めたことを断罪はとっさに隠す。今生で断罪と罪過の宿主が兄妹だと知ったときの看守を覚えている。彼は繰り返しを望んでいるが、だからといってはじまりを繰り返すことまで受け入れるとは限らない。

「なんの用だ」

 看守を玄関へ招き入れる。あまりにずぶ濡れなのでタオルを取りにいこうとすると、袖を引かれた。

「鍵を返してもらおうと思って」

「これか」

 ポケットに入っていた鍵を差し出す。だが看守は受け取ろうとしない。彼は首をかしげた。

「ねえ断罪、さっきなんて言った」

「さっき?」

「君はドアを開けながら、誰の名を呼んでいた?」

 問いかけに、断罪は思わず息をのんだ。看守はいたずらを成功させた子どものように、にやりとした。

「どこに行ったの、こんな嵐のなか」

 看守は足元を見下ろした。そこには断罪の靴しかない。

「沙々奈なら、まだコインランドリーから戻ってない。傘がなくて雨宿りしてるのかもな。迎えにいかないと」

「へえ。じゃあ、あそこにある袋は? ぼくの目には、いつも君らがランドリーで使っているものに見えるんだけどね」

 部屋の奥を見つめる看守の眼差しに気づいて、断罪は後ろを振り返った。だがランドリーの荷物は玄関からは見えない。

「うそつき」

 ぞっとするほど低い囁きが耳を掠めた。強く胸元を引っ張られる。看守が掴みかかってきた。

「目覚めたんだね。罪過はどこ」

「知ってどうする。また殺すのか」

「そんなこと君には関係ないだろう」

「ずいぶん必死だな、おまえらしくもない」

「らしく、ない……?」

 途端に看守は静かになり、断罪から手を離した。断罪はよれたシャツを整えることもせず、まっすぐ看守を見つめた。

「罪過から聞いた。はじまりを」

「そう」

 さらりと答える看守は、不自然なほど穏やかな笑みを浮かべていた。断罪がはじまりを知ったことが嬉しいようにも映る。

「おれと罪過は、都々と沙々奈のように兄妹だったと」

「ああ、そうだよ。どこまで聞いた?」

「兄妹であったこと以外は、はっきりとは言わなかった。だけどおそらく……恋人同士だったんだな」

「ああ。……もう、どのくらい昔のことになるかな。世の中が科学でなく、神様や迷信によって支配されていた時代のことだ」

 看守は壁にもたれかかって、遠くを見つめるような目をした。

「君たちはみなしごの兄妹だった。それは仲睦まじい、ふたりきりの家族。孤児院で慎ましく幸せに君らは暮らしていた。人に愛され、人を愛する心を持って」

「おまえは?」

 看守は微笑むばかりで問いに答えようとはしない。

「だけど罪過が十五のころだ。せっかく領主さまが罪過を気に入ってくれたのに、君たちは何を思ったか兄妹でありながら契った。何度も何度も、誰にもそれとわからないように寄り添った。そして、罪過は、君の……、兄の子を身ごもった」

 おもむろに看守の笑みが歪んでいく。

「それが、……ぼくだ」

 アパートの廊下を空き缶が転がり、耳障りな音を立てる。断罪は目を閉ざした。そうしなければ心がこぼれて、叫び出してしまいそうだった。

 ねえ、と力ない様子で看守が切り出す。

「目覚めた罪過はどうだった。ぼくのこと、何か言ってなかった?」

「いや……、何も」

「そっか、残念」

 言葉とはうらはらに看守は誇らしげに恍惚とする。

「看守……? 何かあったのか、あの廃墟でおれが死んだあとに」

 わずかな隙間をすり抜けようとして、風がひゅうひゅうと啼く。雨に蒸れた土埃のにおいが部屋の隅で渦巻いている。雷鳴はときおり大気を震わせるが、光はここまで届かない。

 看守はあらゆる表情が抜け落ちたような顔をして、口をひらいた。

「彼女を犯した」

 断罪は驚かなかった。ただ、気づいたときには看守の頬を思いきり殴り飛ばしていた。よろけた看守はドアに背中をぶつけ、そのままずるずると座り込んだ。少年らしい繊細な肩が揺れている。笑っているのか、泣いているのかわからない。

 看守を殴った拳がじんじんと痺れていた。

「どうして。なぜ……、なぜおまえが」

「いたい、痛いなあ」

 殴られた頬をさすって、看守は小さく呟いた。

「ねえ、こんなに痛いんだから、これはもうぼくでいいよね……。教えてよ、断罪。これはどうしてぼくじゃないの。痛くて苦しくて、もう、腐り落ちてしまいそうなのに、どうしてぼくじゃいけないの。いまの、この隼弥だけじゃない。砂漠の街で罪過をぐちゃぐちゃにした体も、その前にもずっとずっと、ぼくには体があった。だけど、どれも本当はぼくの体じゃない。ぼくは知ってるんだ。ぼくの本当の体は、罪過の胎に残されたまま……、どろどろになって、なにものでもなくなって、いのちでもなくなって、ぼくは汚物みたいに死んだんだ。だからぼくは、本当はどこにも存在しない子なんだよ……」

 涙のない嘆きだった。代わりに雨が降る。

「恋しかった。ぼくの、ぼくだけの体が。ああすれば罪過のなかに還れる気がして……、どうしてもやめられなかった。ぼくだってこわかった、こわかったんだよ、また死ぬみたいで嫌だった。だから還りきってしまう前に、罪過の首を……絞めて、殺した」

 看守の眼差しの先にいるのは彼の手で息絶えた罪過であり、彼自身でもあるようだった。

「ぼくは、ぼくになりたかった」

 はじまりのいのちについて知りながら、看守には草原の空気をいっぱいに吸い込んだ体がなかった。遊び疲れて眠った思い出も、手を繋いで家路を急いだ日々も、誰かにひどく傷つけられて眠れなかった夜も、どれも肉体という檻の向こう側にある世界であり、看守だけの世界は一度もはじまることがなく、明確な終わりすら望むことができなかった。看守は転生し続けることで、生や死で区切られることのないいのちを生きていた。そういう在り方だけが看守を看守たらしめていた。

 ――看守。

 それはつまり何も手出しできない、ただ見つめ続けるしかできない、檻の外にいる人の名だ。

「君たちはばかだよ。何度も同じ過ちを犯すなんて、どこまでも救いようがない愚か者だ。なのに、なのにぼくは……どうしてか、心のどこかでたしかに嬉しいんだ……」

 悔しげに看守は唇を噛む。

「ぼくのいのちは間違いじゃなかったんだって」

 声は震えて、いまにも千切れそうだった。顔を両手で覆って看守は体を縮める。かつて、たしかに自分であった体がそうしていたように小さく丸くなる。

「転生はぼくの呪いさ。ぼくを生きられなかったぼくの、恨みがかたちになった」

 ネオンの色にも似た金髪が暗がりにぼんやりと浮かんでいる。

「看守」

 断罪は静かに息を吸った。

「それは本当に恨みか、呪いか」

 ――願いだったのではないか。

 そこまで口にすることはできなかった。もしすれば、看守は本意でない否定をするだろう。強く切実な願いであるがゆえに。

 断罪は痛みの残る拳を手で包み込んだ。ぬくもりが痛みに沁みる。

「罪過を連れて帰ってくる」

「え……」

 小さく呟いて看守が顔を上げる。断罪はつっかけていたスニーカーをきちんと履きなおした。

「おまえのためじゃない」

 座り込む看守を強引に引っ張って部屋のほうへと投げ飛ばす。ドアを開けると弱い光が差し込んで、呆然とする看守の顔を照らした。

「ここで待ってろ、看守」

「は? ぼくがおとなしく待ってるなんて思うの」

「どうだろう、難しいだろうな。でも看守、おまえには罪過を探し出せないだろう。だからいまは待ってろと言うしかできない」

 頬が引き攣って、笑顔を浮かべることはできそうにない。

「おれにしかできないことだ」

 ゆっくり閉じていくドアを背後に感じながら、断罪は嵐のなかへ駆け出した。

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