5 だから僕らは夢を見ない(3)

 午後を過ぎ、仕事が終わるころには本格的に雨が降り出していた。

 大型台風の直撃とあって街は奇妙な喧騒に包まれていた。道行く人はみな急ぎ足で、車やバイクはいやに車間が狭い。重たげな空に押し潰されてエンジン音やクラクションが鈍く反響した。

 店で借りたビニール傘をさして断罪は帰路についた。ふとコインランドリーを覗こうかと思ったが、足はそちらへ向かなかった。南風に押されるがまま歩く。

 帰ると沙々奈の姿はなかった。洗濯物の袋もない。遅くなるほど雨風が強くなることを知り、断罪の帰りを待たずにランドリーへ向かったのだろう。部屋は夜明け前のように薄暗い。窓からわずかに見える空がときおりほのかに光る。音のない遠雷だった。

 部屋の片隅に沙々奈の鞄がある。断罪はそのなかをまさぐり、ポーチや財布の下に埋もれていた携帯電話を取り出した。

 黒い画面に都々の顔が映り込む。背中にはじわじわと汗が広がった。ためらいを飲み込んで親指を滑らせる。明るくなった画面がパスコードを要求してきた。

 ――わたしたちが生まれた日。

 わたしではなく「わたしたち」と沙々奈は言ったという。ならば心当たりはひとつしかなく、むしろこれまで失念していたのが不思議だった。


 花火を見に行った年の冬、父が病に倒れた。加入していた生命保険が適用されず、生活は急激に苦しくなった。母は子どもらに我慢はさせまい、惨めな思いはさせまいと取り繕っていたが、都々はそれ以来どんなものも欲しいとは言わなくなった。だがまだ幼かった沙々奈は欲しいものを欲しいと無邪気にねだった。

 困ったのは誕生日だった。兄妹の誕生日は五日違いで、パートへ行きはじめたばかりの母にはそれぞれの祝いを用意するのが難しかった。都々は沙々奈の誕生日にまとめることを快諾したが、なぜか沙々奈がごねた。

「さーちゃんのお祝いは、さーちゃんのお誕生日にちゃんとやるんだから。ね、いいでしょ」

 母がそう言っても泣くばかりで聞き分けない。沙々奈は、おにぃがおにぃがと繰り返すばかりだった。やがて母はパートの時間だからと家を出て行った。それでも沙々奈は泣き止まなかった。

 見かねた都々は言った。

「新しいお誕生日を作ろう」

「なあに、それ」

「沙々奈と兄ちゃんが兄妹になった日、そのお誕生日を祝うんだ」

 都々は沙々奈の両手を取って向き合った。

「沙々奈は兄ちゃんと手繋ぐの好き?」

「すきー!」

「でもひとりきりじゃ繋げないよな」

 都々がぱっと手を離すと、沙々奈は慌てて握り返してうなずいた。

「だったらそのことをお祝いしよう」

「おいわい……」

「この手が、生まれた日だよ」

 幼い手は湿っていて、都々の手のひらに冷たく吸いつく。手の甲も、指も、どこにも骨など感じさせないやわらかさで、すこし骨ばってきた都々の手指のかたちに寄り添う。ずっと小さいにもかかわらず包み込んでくるようだった。これは沙々奈だけに備えられた鍵穴だった。都々は鍵穴のなかでそっと鍵をまわして、指と指を絡ませた。

「おたんじょうび?」

 舌足らずな問いかけに都々は顔を綻ばせる。

「そう、おれたちのお誕生日」

「おたんじょうび!」

 沙々奈は飛び跳ねて喜んだ。都々はカレンダーのそれぞれの誕生日をペンで囲んで、真ん中にあたる日には花丸のしるしをつけた。

「ちょうど、はんぶんこな」

「うん! さーちゃんとおにぃのおたんじょうび!」

 パートから帰ってきた母には、お誕生日はんぶんこ会をするとだけ告げた。経緯を知られれば怒られる気がしたのだった。沙々奈も同じだったのか、妙に澄ましてにこにこと黙っていた。母からは、あれだけごねていた沙々奈をよく説得できたわねと褒められたが、都々は素直に喜べなかった。繋いだ手に隠した秘密が汗になってじっとりと滲み出ていた。

 秘密という言葉はハチミツのように甘く、音叉のように美しい響きを持っていて、親に言えない後ろ暗さも含めてすこし大人に近づけた気がした。

 そう。あのとき都々は早く大人になりたいと願った。早く、はやく大人になって……。


 断罪はパスコードを打ち込む。指先は確信に満ちていた。ロックははたして解除された。待受画面はこの部屋から見えるビルと青く発光するような朝焼けの写真だった。

 いま、空がやわらかく光り、ややしてから控えめな雷鳴が広がる。

 なぜこんなことをしているのかという疑問がちらついた。澱みなく運ばれていた指先が、電池が切れたように止まる。断罪は画面へ視線を落とした。「初期化しますか」というパスコードの要求に、すでに三ケタ目までが入力されていた。最後のひとつにかかる親指の影は、過去を永遠に塞ぐための凶器だった。すべてのデータをリセットすれば、自分たちは兄妹という血の檻から解放され自由になれる気がした。

 蜜の香りと、繋いだ手の感触が瑞々しくよみがえる。目を閉じると観覧車のなかで見た笑顔が浮かんだ。

 雨がいっそう強くなり、街から騒音が掻き消されていく。

 兄妹のくせに。兄妹だけど。兄妹なんて。……いくつもの思いが交錯する。やがてどれも雨に流され、残されたのはただひとつ。

「兄妹……、だから」

 断罪はうめき声を洩らした。立っていられなくなり壁にもたれたまま床に崩れた。

 過去をどれだけ消し去ったとしても自分たちが兄妹であることからは逃れようがない。兄妹だからこそ愛を覚え、兄妹だからこそ禁じた。兄妹でない自分たちなど源泉を持たないせせらぎと同じで何もはじまりようがない。

 手元から携帯電話が滑り落ちる。ふたたび暗くなった画面でときおり空が瞬いた。

 何もかも捨てて逝きたい気持ちと、手にしたぬくもりを手放したくない気持ちとが、断罪のなかでせめぎあう。

 玄関の鍵が空回りする音がして、ドアがひらく。

「ただいまー、お兄ちゃん帰ってるのー?」

 ベランダから玄関へ一気に風が抜けていく。

 断罪は顔を上げることも返事をすることもできなかった。壁際でうなだれていると、すぐ隣に沙々奈の座り込む気配があった。

「どうしたの」

 顔を覗き込もうとしてくるので、膝を抱えた腕のなかに顔をうずめる。かたくなな断罪の様子にしばらく押し黙っていた沙々奈だったが、やがて何かに気づいて息をのんだ。

「お兄ちゃん、これ……」

 掠れた声に顔を上げると、沙々奈は携帯電話を持って言葉を失っていた。画面の光が沙々奈の動揺をあぶりだす。断罪はとっさに手を伸ばした。沙々奈は立ち上がってそれをかわす。

「どういうこと。だってロックがかかってたのに、初期化って……、どうして?」

 断罪は答えられなかった。言い訳をすることもできなかった。沙々奈を見つめながら、積もるいとしさに震えていた。

 沙々奈は胸の痛みをこらえるように携帯電話を握りしめてうつむいた。

「ひどい、ひどいよ」

「沙々奈」

「なんで動かすの、ずっと、ずっとずっと動かないままでよかったのに……」

 部屋には沙々奈の嗚咽がしとしとと響いた。冷たく耳に染み入ってくる。沙々奈は祈るように床に膝をついた。

「このまま、これが動かないままなら、わたしはただのわたしのまま、ただの沙々奈でいられると思ってた。だめってわかってる、兄妹なんだから。でも、いまのままの、わたしなら……」

 画面に涙が落ちて、文字が歪む。

「わたし、このなかに何が書いてあるか、わかるよ。記憶がなくても、見なくてもわかる。だってこれはわたしだから、だから、……だけど」

 子どものころと同じ顔をして沙々奈は泣いた。続く言葉は聞かなくともわかった。

「言わなくていい」

「兄妹なんだよ、わたしとお兄ちゃんは」

「いいんだ」

 断罪は沙々奈の頬へ手を添えて涙を拭った。熱く、やさしい涙だった。

「もう、いいんだよ」

 もし沙々奈が妹でなく、学校や職場で出会っただけの女なら、こんなにもいとしく思えただろうか。母の胎にいるときから見守ってきた存在だからこそ誰より大切で心を奪われるのだ。

「兄妹だから」

 涙に濡れた指先で沙々奈の唇に触れる。遠雷は巨人の足音のようにゆっくりと近づいていた。一歩、また一歩、空が震えてひび割れていく。風が唸りを上げ、砕けた空を撒き散らす。ばらばらになった空は雨粒になって地に堕ちた。

 額を合わせると、雨と汗で湿ったふたりの髪が吸いつくように交ざりあった。互いが折り重なっていく。

「お兄ちゃん」

 吐息だけの言葉でも届く距離にいた。鼻先を押しつけあい、唇が壁を越えようとする。

 血の、壁を。

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