5 だから僕らは夢を見ない(2)
朝になると風は湿り、雲は濁流のように空を流れた。
盆休みが明けていつもの時間に店へ出ると、珍しくマスターの宮田が開店前の掃除をしていた。
「そう意外な顔するなよ」
日に焼けた頬を掻いて、宮田は奥を指した。
「ほれ、いま授乳中で男子禁制なんだわ」
「男子禁制って、宮田さん……」
「ひどいだろ? 夫をのけ者にして女同士できゃっきゃしてさ」
「もう男子って言っていい歳じゃないですよね」
「そこ? そこなの? おいおい頼むよ、ゆず。おまえだけがおれの味方なんだから」
こちらの会話が聞こえているのか、店の奥から華やいだ笑い声が上がった。
しがみつかれた腕をやんわり引き抜き、断罪は目礼する。
「おめでとうございます」
「おう」
宮田は鼻筋にしわを寄せて少年のように笑った。
「生まれてくるまではほんとに赤ん坊なんて出てくるもんかと不安で、いつまでも女子高生気分の悠ちゃんが母親なんて想像できなかったんだが、まあ、生まれてきたらやるしかねえからな」
白髪混じりの短い髪を掻きながら喋る宮田を見ていると、それだけで不思議と心がほどけていく。
「ゆず、おまえには世話になった」
「いいえ、それを言うならるりにでしょう。おれはなにもしてません」
「なんか色々と事情があるんだろうけど、困ったときには相談してくれよ。年齢的にはおまえさんのほうがずっとおれの息子みたいなもんだ」
とっさにありがとうございますとは言えず、断罪は曖昧に顔を歪ませた。どうにか笑顔に見えることを祈る。
「都々さん、おはようございます」
カーテンの向こうからるりが顔を覗かせ、快活な声を響かせた。その横にはあどけなさの残る少女が赤ん坊を抱いて立っている。
「柚木さんですか」
「あ、はい」
悠子に会うのははじめてだった。綿毛のようにふわふわとして一見すると頼りなさげな少女だが、眼差しの奥には一等星のように美しく揺るぎない芯が垣間見える。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「とんでもないです」
「あの、よかったら抱っこしてあげてください」
「え」
断罪は思わず一歩下がった。
「いや、それはちょっと緊張する」
さらにもう一歩離れようとすると、るりに袖を引っ張られる。
「都々さん、沙々奈で慣れてるでしょ。大丈夫ですよ」
「それ二十年前の話だけど?」
背中を押されて悠子の真正面に立たされる。ね、と首をかしげて微笑まれると否とは言えなかった。
そっと赤ん坊を受け取る。記憶にあるよりも小さく、見た目以上に重く、そしてあたたかい。不意に胸がつまった。
手も、足も、目も鼻も耳も、何もかもがずっと小さいにもかかわらず、それはどんな存在よりもいのちで満ち溢れていた。剥き出しの、他に憚ることを知らない生命そのものだった。
腕が震える。断罪は大きないのちに畏怖を覚えた。
「すごい、ですね」
「えへへ。まだ名前は決まってないんですけど」
「なに言ってんだ、夏に生まれたから夏生って言っただろ」
二階に上がっていた宮田が下りてきて口を曲げた。悠子は振り返らずにつんと顎を反らす。
「あっくんの案は単純すぎる。ねえ、柚木さんのお名前、素敵ですよね」
「でも古都で生まれたからっていう安直な理由で……」
「そうなんですか」
「大仰な由来があるよりは、ずっと気楽でいいですけどね」
「そうだそうだ、それでいいんだよ。そのほうがわかりやすい子に育つってもんだ」
勢いよくまくしたてたものの宮田はふと宙を仰ぎ、そうでもないかと呟いた。
「まあ、いいんですけどね」
ぼそりと、断罪にしか聞こえない声で悠子が言う。
「どんな名前でも、ああでもないこうでもないって親が考えてあげられたら」
腕のなかを見下ろすと、赤ん坊が懸命に手を伸ばしていた。顔を近づけると、前髪を引っ張られる。赤ん坊の大福のような頬はいまにもとろけそうだ。
深いコーヒー豆の香りに、ミルクの甘ったるさが混じる。笑ってくれるのが素直に嬉しかった。
配達から戻ると店はいつになく盛り上がっていた。その中心には赤ん坊がいる。
「都々さん、おかえりなさい。すごいことになってるでしょ」
「ただいま。配達先でもかなり話題になってた」
るりに伝票を渡して汗を拭う。日差しはそれほど強くないが、吹く風が生ぬるく蒸し暑い。
「ちょっと着替えてきます」
背中に張りついたシャツをつまんで、断罪はカーテンの奥へ引っ込んだ。
「あの、都々さん」
カーテン越しにるりが声をかけてくる。すでにアンダーシャツまで脱いでいた断罪は手をとめた。
「上、着てないけど」
「あ、いえ、ここでいいんですけど。その、あれから沙々奈の携帯ってどうなりました?」
「いや、全然」
観覧車に乗った日のことを思い出す。記憶を取り戻そうとする沙々奈を阻んだのは、むしろ断罪だった。
「わたし、前に沙々奈が話してたことをふと思い出したんですけど……」
るりは珍しく歯切れが悪い。
「どんな話?」
「誕生日とかって、当然もう試してますよね」
「まあ最初に」
「ですよ、ね」
「なに」
ボタンを閉めながらカーテンから顔を出す。背中を向けて立つるりは、ちらりと肩越しに振り返ってわずかに眉を曇らせた。
「記念日の話をしていたことがあって、そのとき沙々奈は、なにより大事な日はわたしたちが生まれた日って言ったんです。誕生日? って訊いたら、にこにこしながらうなずいて……」
「わたしたち?」
「はい、たしかにそう言いました。わたしも変だなと思ったので、よく覚えて――」
「おーい、お嬢ちゃん」
店のほうからるりを呼ぶ声があった。るりはそれに応えて戻っていく。断罪もまたエプロンを巻きなおしてカーテンをくぐった。
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