3 夕立はアスファルトをはじいて(6)
耳の後ろでざわざわと音が聞こえる。森に響くせせらぎのように絶えず続いている。
それは血潮だった。都々の肉体の、静かな主張であった。
断罪であるとか、都々であるとか、いくら考えて、どう答えたとしても、真実には至らない。そもそも断罪自身にもわからないことを答えられるはずがない。断罪は何も言わないまま黙り込んだ。
伏し目がちになって看守が笑う。
「否定しないんだね」
看守は疲れきったような、どこか呆れたような乾いた声で笑う。断罪は沈黙を貫いたまま、その場に立ち尽くした。看守の足元では沙々奈が黒い影になってうずくまっている。その影は輪郭がぼやけていて、人かどうかすらわからなかった。
いつしか世界は静まり返っていた。蝉の声も、テレビの音も、子どもらの声も、屋台のテープも、辺りに満ちていたあらゆる音が暗がりの沼のなかに沈んでしまった。息苦しさとともに、時間がとまってしまったような錯覚に陥る。
霧雨のような光が舞い込んで、断罪は顔を上げた。
「いまにも降りそう」
ドアを開けて看守が呟いた。重たい灰色の雲が広がり、遠くの空が切れかけの蛍光灯のように瞬いた。
「ぼくは行くよ」
そう言い残して看守は部屋を出て行った。
足音が遠ざかり聞こえなくなると、止まっていた時間が思い出したように動きはじめる。断罪は床に座り込んでいた沙々奈に歩み寄り、そばに膝をついた。
「怪我は」
「だい、じょうぶ……」
いまにも途切れそうな声に、断罪はむしろ気持ちを鼓舞される。
「荷物、まとめようか」
呼びかけても沙々奈は一向に動こうとしない。断罪は押入れのクリアボックスから適当に服を選びだし、手近にあった買い物袋へ押し込んだ。沙々奈の泣く気配が部屋の隅まで静かに響く。
「帰ろう」
ドアを開けて促すと沙々奈はようやく立ち上がった。施錠し、鍵を元の場所に隠してアパートをあとにした。
灰色の空は自らの重みに耐えかねていまにも落ちてきそうだった。強い日差しはなくなったものの首や腕には逃れようのない湿気がまとわりつく。濡れたままの手で触れられているような不快感だった。
沙々奈のしゃくり上げる声が後ろから聞こえる。
「どっか痛むのか」
鼻声でううんと返事が聞こえた。
「じゃあ泣くなよ」
「ごめん、なさい……。止まらなくて」
立ち止まって振り返ると、拭っても拭ってもあふれてくる涙を、それでも両手で払いながら、ろくに前も見ずに歩く沙々奈の姿があった。断罪が荷物を前へ差し出すと、よけることなく頭から突っ込んでようやく止まる。沙々奈は不満げに顔を上げた。
「泣いてばっかだな、おまえは」
死から目覚めたあとも、部屋からいなくなったときも、そしておそらく昨夜も。
「おまえがもしいま死んだら、おれはおまえの泣き顔ばっかり思い出すんだろうな」
「それは悲しいから笑っておくね」
沙々奈は歯磨きしたことを親に見てもらう子どものように歯を剥き出しにした。雨樋を伝う雫のように、沙々奈の目から涙がこぼれる。
「無理すんな」
反射的に頭を小突こうとして腕がこわばった。彼女に触れることを体がひどくおそれていた。
地面にぽつりと黒い染みができる。ひとつ、みっつ、やっつ、すぐに数えきれなくなり、アスファルトは隙間なく雨に濡れた。
「降ってきたか」
坂道の半ばに駄菓子屋を見つける。
「あそこまで走ろう」
色褪せたひさしを目指して走り出す。
粒のひとつひとつが肌で感じられるほど大きく、まともに目を開けられなかった。次第に強くなっていく雨音で、背後の沙々奈の気配が掻き消される。
ひさしの下へ体を滑り込ませたときには、雨とも汗ともつかないもので髪はぐっしょりとしていた。すこし遅れて沙々奈が隣に並んで、膝に手をついて肩を上下させた。
天井から吊り下げられた裸電球は煤けて、壁に貼られたくじ引きの宣伝は都々の記憶にあるものよりずっと黄ばんでいた。
はあっと息をついて、沙々奈が短く笑った。
「びしょびしょだ」
ハンカチで顔を拭いていると奥の住居から老婦人が現れて、あら、と声をこぼした。
「ほんとにびしょびしょだわ」
しわだらけの顔をくちゃくちゃにして、店主の老婦人は一度引っ込み、すぐに大判のタオルを持って店先まで戻ってきた。
「最近のお嬢さんは薄着ね。風邪を引くといけないから使いなさい」
「すみません、お借りします」
タオルをありがたく受け取って、断罪は沙々奈に渡した。沙々奈は店主へ頭を下げて、店の商品が濡れないよう静かに髪を拭きはじめた。ワンピースの裾が濡れて、脚に張りついている。断罪は沙々奈から視線をそらした。
突然の雨に人影はほとんどなく、町は雨でけぶって、彩りはすべて灰色に染まっていた。アスファルトではじける雨は小さな粒のなかに黒々とした地面を映して、遠くから見ているとアスファルトが砕けているようにも見えた。
ビニール製のひさしからは大きな雨粒が絶えずしたたった。雨が打ちつけるたび、スリッパで走るようなパタパタという音が響く。それは耳鳴りのように感覚を占めて、思考をみるみる奪っていった。
インクが切れた印刷機のように景色が雨で掠れていく。じっと見つめていると降り注いでいるのか吹き上がっているのかわからなくなり、やがて雨がすべて凍りついてしまったように感じられた。
そのとき雨は断罪の目に、交わることのない天と地を繋ぐ無数の糸になった。
風に翻弄されては魚の群れのようにひとかたまりになって中空を泳ぎ、稲光に照らされては白い矢のようになって地面に降り注いだ。そのうちに風はやわらいで雷の轟きも遠ざかり、灰色に沈んでいた町は夜明けのようにうっすらと浮かび上がった。
線のようになった雨は、射し込む光を受けて光そのもののように輝いた。アスファルトの窪みには雨が溜まり、鼓動のような波紋を浮かべながら雲が流れて澄んでいく空を映した。
交わることなどないと思っていた天地は、手を差し伸べ、いとも容易く互いを重ねた。そこにはわだかまりも、溝も、何もなかった。地平線で触れあって見えるのは当然のことだったのだ。
体の内側にある吹き溜まりに砂塵がうずたかく積もり、命に濡れてずっしりと重い。この体は、このいのちは、こんなにも水捌けが悪かっただろうか。
「タオル、いる?」
「ああ」
体温で乾きはじめていたが、断罪は片手に荷物を持ったまま水滴を拭った。
「荷物、邪魔じゃない?」
「ああ」
隣に立つ沙々奈はそっかと呟いてひさしの端から空を覗いた。
「止んできたね」
「そうだな」
荷物を持つ手の甲を何かが掠めていった。断罪はそれに気づきながら髪を拭く手をとめなかった。
「わたしラムネほしい」
「いいよ」
今度ははっきりと沙々奈の指が断罪に触れた。小指の外側から手のひらのほうへと、雨に冷えた細い指がつまむように絡みつく。手を繋ぐには至らず、ただ触れるより深い。断罪はそれをそのままにした。握り返すことも振り払うこともしない。ただじっと、あざやかに凍みていく命といのちを見つめていた。
「止みましたね」
店主が出てきて眩しそうに軒先を見やった。やさしく触れていた冷たい指が離れていく。
断罪は使っていたタオルを軽くたたんで礼を言った。
「それと、ラムネを二本ください」
「はい、ありがとね」
氷水に浸かっていた瓶の栓を、店主は慣れた手つきで開ける。カランと鳴らしながら半分ほど飲み干して、雲間から覗いた太陽に雨の色をしたビー玉を透かした。
痛みがある。夕立に抉られてできた窪みに、置き忘れられた想いがあった。
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