3 夕立はアスファルトをはじいて(5)

 入道雲がみるみる膨らんでいく。強い日差しが粒子になって街に散らばる。眩しすぎて目を開けていられない。

 ミヤタコーヒーから駅へ駆けつけ、駅ビルにワンピース姿の沙々奈を見つける。沙々奈も気づいて小さく手を振った。

「行こうか」

「うん」

 南へ向かう急行電車に乗り、ドアの脇に立つ。沙々奈は子どものように窓に張りついて、流れていく景色を見送っていた。散歩中の犬に引きずられる飼い主や、自転車に三人乗りする小学生、線路脇の花壇へホースで豪快に水遣りをする老人などを見つけては、楽しげに断罪に報告をした。しかしときおり路線図を見やっては、そのたび唇を噛むようにじっと黙り込んだ。

 各駅停車に乗り換えて最寄り駅に降り立つ。駅舎は整備されてスロープができ、個人商店だった場所にはコンビニエンスストアが建っていた。都々が里帰りをしなかった数年で駅前の景色は変わっていたが、角の郵便局を曲がると狭い道に民家がせり出し、玄関先には所狭しと立派な植木鉢が並ぶさまは、記憶のままだった。

 アパートへ向かいながら、ふと十年前の都々をたどっている気がした。

 都々は父が死んだあと高校を中退して町を出た。母を助けようと十六歳から寮完備の飲食チェーンで働きはじめた。せめて高校を卒業しろと母は何度も都々を諌めたが、父の看病と生活で疲れきった頬にはかすかな安堵があった。

 町を出る日、まだ十歳だった沙々奈は泣いて寂しがり、電車へ乗ろうとする都々にしがみついて離れなかった。仕方なく出立を一日遅らせることにして、この道をふたり手を繋いで帰った。

 断罪は足取りの遅い沙々奈を振り返る。気づいた沙々奈はごめんと笑いながら駆け寄ってきた。並んで歩くと沙々奈の持つ鞄が断罪のデニムに時おりこすれた。断罪は半歩離れて歩いた。

 砂利を敷いた駐車場の向こうに二階建てのアパートがある。上階の左端が柚木家だった。

 駐輪スペースに母親の原付バイクがないことを確認する。母は隣町まで出て、金属加工の工場で事務をしていた。勤務はフルタイムで、帰ってくるのは日が暮れてからになる。

 錆びついた階段を上がり、部屋の前に立つ。外廊下に置かれた洗濯機の蓋を押しあげ、屑取りネットに包まれた鍵でドアを開けた。

 カーテンを閉め切った部屋は薄暗い。玄関横には使い込まれたキッチン、磨りガラスの引き戸の向こうはひとつきりの寝室があった。押入れの向かい側には母が嫁入り道具で持ってきたという鏡台と箪笥が置かれ、狭い部屋には不釣合いな威厳を放っていた。

 棚の上には質素な花瓶が飾られていた。だが花はない。瓶の内側には潮が引いたあとの砂浜のように水の痕が残っていた。淡い黄緑に染まっているのは、花がかつて生きてそこに在った証しだ。

 瓶を窓辺にかざす。夏にあおられて、青いにおいが透明の煙になった。だが煙は一度きりで消えて、あとには埃のにおいが残った。

 沙々奈はまだ靴を履いたまま玄関に佇んでいた。

「なにしてんだ」

「うん……」

 流し台の上にある小さな窓から光が射し込む。

「上がってこいよ」

「足元がよく見えなくて」

 沙々奈はうつむき乾いた声で笑う。

「なんだそれ」

 言い訳とわかりながら、あえてそのままにして笑い飛ばすと、なぜか断罪自身も吹き飛ばされてしまいそうだった。こんなところへ来るんじゃなかったと後悔に襲われる。

 花瓶を元あった場所へ戻し、カーテンを開けようとしたときだった。伸ばした手を光が裂いていった。振り返るとドアが大きく開いていた。

「やあ、ふたりお揃いだったんだね」

 看守だった。

 玄関にいた沙々奈は驚いて一歩下がり、その拍子につまずいた。よろけたところを看守が抱きとめる。

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして。沙々奈ちゃん、ぼくのこと覚えてる?」

「え……あ、はい。隼弥さんですよね。あのときはご迷惑を……」

 腕に抱かれたまま、沙々奈は困惑して答える。

 太陽が翳って目が慣れる。看守は唇を吊り上げて笑っていた。

「それは本当のぼくの名前じゃないし、君も、ほんとは沙々奈じゃない」

「……どういう、ことですか」

「ぼくの本当の名前は看守。そして君は――」

「やめろ」

 断罪はふたりへ近づこうとしたが、看守に睨まれ立ち尽くす。

「ぼくを、とめるの?」

「やめてくれ隼弥。そんなことをしても意味がない」

「意味? どんな意味さ」

「沙々奈が自分で思い出してはじめて沙々奈の記憶になる。おれたちが教えてもそれはただの情報にすぎない。違うか」

「言われればたしかに。……とはいえ、記憶を取り戻すための手伝いだなんて。そんな健気なことを君がするとは意外だよ」

「おまえが言ったんだ、このまま事を成しても意味がないと」

「そうだっけ」

「どうすれば目覚めるのかはわからない。だがすこしでも思い出せたら、もしかしたら……、そう考えるのは道理だろう」

「なるほど」

 看守は鼻で笑って続けた。

「うつくしい兄妹愛だね」

 遠くから空を震わせ雷が響く。小さな窓から差し込んでいた光が弱まり、幕が下りるように室内が暗くなる。蝉の鳴き声や、隣家のテレビの音や、近所の子らが水浴びする声や、町内を軽トラックでまわるわらび餅屋の録音テープなど、あらゆる雑音が入り混じりながら不思議とこの暗がりは静かで、じっとしていても汗が滲むほど蒸し暑いのに、体の芯は氷を抱いたように凍えていた。

「ねえ、本気?」

「もちろん」

「君じゃない。ぼくは彼女に訊いてる。どうなの」

「本気です……」

 震えた声で沙々奈が言った。

「ほんとに?」

「あ……その、できるなら思い出したくないです。思い出すのはやっぱりこわいから。でもいつまでもこのままいられるわけでもないし、いつか思い出さなきゃいけない。それなら逃げてちゃいけない、って。それにお兄ちゃんがいてくれたら、きっと、きっと大丈夫って信じられるんです。これ以上、わたしのことで周りの人を傷つけたくないから」

「沙々奈……」

「へえ、思い出す気があるんだね」

「はい」

 力強くうなずく沙々奈を見つめて、看守は糸のように目を細めた。

「君がそう言うならぼくも手伝いがいがある」

 土足のまま部屋へあがり、沙々奈の腕を乱暴に引っ張る。

「だったらよく見なよ。ここに柚木沙々奈の生きてきた手垢が嫌というほど残ってるだろう。ほら、顔を上げて。……おかしいね、思い出したいと言いながら目を背けるのはどうして」

「やめてください……」

 沙々奈は抵抗し、手を振り払おうとする。

「ねえ、結局は口先だけなんだろう」

 看守の声はいつになく静かで低く、遠雷のようだった。

「君たちはいつだって自分たちが傷つかないようにするばかりで、周りのことなんてまったく考えない。君たちに振り回されるものの哀しみとか、悔しさとか、やるせなさとか、そういったことがそもそも存在することすら知らない」

「隼弥さん?」

「無知は罪だよ。君たちはそこに在るだけでむしろ罪だ、……罪悪だ!」

 看守は沙々奈の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。

「ねえ、これで何か思い出す? 思い出して心が痛くなる?」

「はなして」

「じゃあ正直に言おっか。思い出したくない、何も知らないままでいい、忘れたままでいたいって」

「違います、わたしは……」

「まだそんなこと言うの。どこまでもむかつくね。知りたいなら、それ相応の痛みが必要になるってわからない? だってそうだろう。ただぼんやりと思い出せるような、そんな他愛ないものを君は手放したのか。違うだろう。いや、違わないとおかしいんだ。それでこそ君は罪――」

「看守!」

 黙って見ていた断罪はたまらず声を上げた。看守は視線だけを断罪へ投げる。

「なに」

「そこまでしなくてもいいだろう。それじゃ思い出せるものも思い出せなくなる」

 にわかに看守の顔が険しくなった。

「断罪、君は正気か」

 看守は突き飛ばすようにして沙々奈から手を離し、断罪へ向き直った。

「目覚めのときに見せた威勢のよさが嘘のようだね。まるで柚木都々じゃないか。火をおそれる獣のように宿主をおそれていた君はどこへいった。君は誰、何様のつもりなの」

 人の死に寄生しながら短い命を繰り返す、終わりのないいのち。断罪と名付けられた、来し方も行方もわからない存在。それが断罪だ。

「おれは……」

 しかし口をひらくと、違和感が魚の小骨のように喉に刺さってうまく言葉にならなかった。

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