3 夕立はアスファルトをはじいて(4)

 ときおり、都々の影が命の砂地で砂煙のように舞いあがる。そのたび断罪は問いかけた。

 なぜ沙々奈の想いを無視したのか、と。

 しかし影が答えることはなく、投げかけは虚しく胸のうちにこだまするだけだった。沙々奈を受け入れることも拒むこともしなかった都々の真意は、断罪にはわからなかった。

 もし、都々にしか言葉にできない思いがあったとして、それを沙々奈に伝えていたなら、沙々奈は死を選ばずに済んだのか。彼女の死が自殺だったという確たる証拠はないが、事故死だったにせよ、彼女を死のほうへ追いやったのは都々であるように感じていた。


 柚木都々としての目覚めから十日以上が過ぎていた。

 缶チューハイを片手に、ベランダから星のない夜空を仰いだ。手すりに背中を預けて身を乗り出すと、空に抱かれているような心地になる。目を閉じればそこは一瞬で宇宙になった。白いシャツが風を孕むと、このまま飛べるような気がした。

 コーヒーショップでの仕事はいい気分転換になった。るりとは業務に関することしか会話をしないが、むしろそれでよかった気もする。マスターの宮田は事情を訊くこともなく日払いに対応してくれた。日々の収入は微々たるものだが、食うには困らなかった。

 何度も繰り返してきた転生で、まともに働いたことなどなかった。金は必要なときにもっとも手軽な方法で奪い取るもので、どんな金であろうと差はなかった。だが働いて得た金で買う缶チューハイはどんな高級酒よりもうまい。

 瞼を押し上げ、蒸した夜を見つめる。これまでの転生で流れていったいくつもの夜空が霞み、この目に映る明るい闇だけが断罪にとっての空になりつつあった。

 どこにも寄りかからない命のはずが、たったひとつの空に繋ぎとめられている。強い風にも吹き飛ばされない安心感があった。しかし同時にこの空を失うことへの恐怖も募る。

 部屋へ戻り、ひとつきりの布団で沙々奈と背中合わせで横になる。扇風機のモーター音が低く響き、ぬるい風が腕を掠めていく。瞼の裏にはネオンの影が浮かび上がり、ゆらゆらと陽炎のように揺らいだ。近づいては遠ざかり、膨らんではしぼんでを繰り返し、暗い視界を浮遊する。それらを追っていると眩暈のように眠気が襲いかかってきた。いのちがすっと冷えていく、死ぬときとよく似た感触だ。

 全身から力が抜けて眠りへ落ちようとしたそのとき、背後から服を引っ張られた。

「お兄ちゃん」

 沙々奈の声は掠れて、すこし震えていた。

「こわかった……」

 互いが触れそうで触れない。その距離を壊さないように断罪は振り返らずに問う。

「なにが」

「夢。何度も何度も、殺された」

 断ち切ったはずの夢が追いかけてきたのか、沙々奈がさらにシャツを握りしめた。

「殺されたって、誰に」

「わかんない。人かどうかもわからない、いきもの」

 背中にかすかな体温が触れる。

「そうか」

「あれは、きっとわたし自身なんだと思う」

 妙にきっぱりとした口調で沙々奈は言う。

「どうして忘れたんだろう。大事なこと、きっとたくさんあったのに、どうして」

 罪過の経験を追体験したのかもしれない。ならば夢のなかで沙々奈を殺し続けたのはすべて断罪だ。

 肩越しに沙々奈の頭を見下ろす。沙々奈は断罪の背中にしがみついて息を潜めていた。まるで嵐に怯える子どものようだ。襲ってくるのは空を覆う嵐ではなく、自らのうちを掻き乱していく嵐だ。

「わたし、思い出すのがこわい。だって忘れたかったと思うから。じゃないと全部捨てたりしない」

 その推測はきっと正しい。沙々奈の恐怖も当然で自然なものだ。

 これは、かりそめの命だ。嫌なことをわざわざ思い出そうとすることもない。沙々奈にそう説明できたらどんなに楽だろう。そしてどれだけ傷つけることになるだろう。

 沙々奈は絞りだすように呟いた。

「でも、このままではいられない。それもわかってる」

「沙々奈」

 断罪は体をよじって沙々奈のほうを向いた。暗がりで沙々奈の表情はよく見えない。

「お兄ちゃんとるりさんがあんな風になったのは、わたしのせいだから……。忘れたいから忘れて、それを思い出すことからも逃げて。だったらわたしはわたしでなくてもよくなる」

 どこからかパトカーのサイレンが聞こえる。

「わたしっていう箱をどんなに空っぽにしたって、そこに蓋をしてこわがってるなら何も変わらない。こわい気持ちはずっとついてくる。だったらあるべき状態に戻って、逃げずにきちんと解決するほうがいい、よね」

 沙々奈の忘れたかったことが本当に都々への恋情だとしたら、どうすることが解決になるのか断罪にはわからない。そもそも解決できることなのだろうか。意志や社会的倫理観で片付けられるような感情なら、きっと沙々奈は死んではいない。

 一段と大きくサイレンが響き、赤色灯がカーテンを染める。憂いに縁どられた沙々奈の顔が垣間見えた。

「沙々奈が思うように、好きにするといい。おれにできることがあったら手伝うから」

「うん……わかった」

 小さな声で呟いて沙々奈は離れていった。背を向けて胎児のように丸くなる。断罪はその頭を撫でようとして思いとどまった。届くからといって伸ばす手など抜き身の刃も同じだ。

 断罪もまた沙々奈に背を向け、目を閉じた。


 頬に冷たいものが触れる。うっすら目を開けると、よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルを持って沙々奈が笑っていた。

「おはよ、すごい汗」

「暑い。何時」

「もう九時半過ぎ。珍しいね、お兄ちゃんが寝坊なんて」

 エアコンをつけて窓を閉めながら、沙々奈は笑顔を崩さない。断罪は体を起こし、Tシャツの裾で汗を拭った。

「はい」

 ペットボトルを渡される。一気に飲み干して投げ返す。

「水浴びてくる」

「うん」

 そう言った沙々奈の目元がかすかに腫れていたことを、断罪は見逃さなかった。あれから寝ていないのかもしれない。

 冷たいシャワーを頭から浴びて、こびりついていた熱をこそぎ落とす。風呂場には沙々奈の小物が増えた。髪をまとめるクリップや洗顔フォーム、シャンプーと揃いのコンディショナーも並ぶようになった。もうどこからも、血のにおいはしない。

 ユニットバスを出てエアコンの風に直接あたる。ベランダでは沙々奈が布団を干していた。仕上がった洗濯物の袋から下着とTシャツを引っ張り出して、食べさしのメロンパンをかじる。

「あっ、それわたしの」

「知ってる」

 食べながらキッチンへ行き、冷蔵庫の牛乳をパックのまま飲んだ。最後の魚肉ソーセージを歯で開けて扇風機の前へ戻る。もぐもぐとくわえながらデニムをはいて髪を乾かした。

 時計代わりの小さなテレビでは、眩しい日差しのなか高校球児が白球を追っていた。歯を磨いてひげを剃って新しいシャツを着る。十時まであと十分を切った。

「じゃあ、行ってくる」

 急いで出かけようとすると、沙々奈に腕を掴まれた。

「あのね、お兄ちゃん」

 何度も続きを言おうとしては、すぐに伏し目がちになって噤んでしまう。

「沙々奈、遅れる」

「うん……、今日は何時くらいに終わる?」

「たぶん三時くらい」

「じゃあ仕事終わってからでいいから、……家まで、連れてって」

 家というのは実家のことだ。断罪が何も言わずにじっと見つめ返すと、沙々奈は慌てた様子で言葉を重ねた。

「あの、ほら、き、着替えがね、ちゃんとした服がワンピースしかないから不便で……それで」

 嘘ではないだろうが、それだけでないこともすぐにわかった。断罪はあえて追及しなかった。

「いいよ。なら、三時過ぎに駅前で。前にるりと待ち合わせた場所は覚えてるか」

「うん」

「定期、まだ使えるから持ってこいよ。あとこれ、鍵な」

「わかった」

 昨夜の、思い出したくないと言った沙々奈の声がはっきりと耳によみがえる。断罪はじゃあと言ってミヤタコーヒーに向かった。

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