4 熟れた心臓

4 熟れた心臓(1)

 駄菓子屋で万華鏡を買った。

 赤い千代紙の貼られた丸い筒を、沙々奈はいつもそろりと覗く。息をつめて、星屑の破片で繰り返される小さな世界を見守った。きらきらと移り変わる模様はどこかしら似通っていながら常に異なる輝きを放つ。

 同じきらめきはひとつとしてなかった。


 店の外までラジオの音が聞こえてくる。午後一時の時報とともに断罪は店のドアに準備中の札をかけた。ミヤタコーヒーはいまから盆休みに入る。

 配達から帰ってくると客はなく、るりはカウンターに座って伝票を片付けていた。断罪はバケツに水を汲み、外へ出て、ほとんど汚れていない窓ガラスを拭く。しばらくすると、気づいたるりが慌てて出てきた。

「ごめんなさい、やらせてしまって」

「いいよ、どうせ配達で汗だくだから」

「ありがとうございます」

 るりはきびきびと礼をして戻っていった。

 洗剤のついた雑巾で窓ガラスを拭くと、鈍い色をした虹がかかる。虹は本物よりずっと早くに消えて、窓にはひとりの男が取り残される。断罪が顔を上げると、真正面から視線がぶつかった。

 宿主の姿かたちを見つめるのはいまもまだ慣れない。夢とうつつの境が曖昧になるような心許なさがある。ただそれを闇雲に恐れることはもうなかった。

『君は誰、何様のつもりなの』

 看守の問いが思い出される。

 ここに映る男は誰なのか。柚木都々か、それとも断罪か。もしくは、そのどちらでもなく、どちらでもあるのか。

 足元のバケツで雑巾をゆすぐ。持って出たときに冷たかった水はぬるくなっていた。それでも水に触れていると気持ちがいい。跳ねあがった雫が小さいほど、夕立のおりに触れた沙々奈の指のように冷たく感じられた。

 汗で濡れたシャツが背中に張りついている。都々の命と断罪のいのちもまた、あの日の雨で濡れたままぴったりと重なりあっていた。

 断罪は執拗に窓ガラスを拭き続ける。雨や手垢の汚れはきれいに拭えても、答えの出ない問いを拭い去ることはできない。

「あれ、今日はもう終わりか」

 かけられた声に振り返ると、マスターと同級生だという常連の男がいた。

「はい、今日はお昼までなんです、すみません」

「そうだそうだ、お盆休みだ。昨日ミヤちゃん言ってたっけか。いや、こっちこそすっかり忘れててすまんな」

「とんでもない」

 断罪は汗を拭って頭を下げた。

「いまミヤちゃんは?」

「マスターは病院のほうに。今朝、悠子さんが産気づいたそうで」

「おお、ついにか。この暑いさなかに大変だ、悠子ちゃんは」

「まあ、そうですね」

「兄ちゃん、まだ若いな。独身か」

「はい」

「そうか。カミさんがいるってのはありがたいことだぞ。なんたって仕事せざるをえなくなる」

 豪快な声でひとしきり笑うと、男は軽く息をついた。

「おれも会いにいかにゃならんなあ」

 深く尋ねるのは憚られて断罪が黙っていると、男は商店街のうちわで扇ぎながら目を細めた。

「うちのカミさん、四十のときにガンで逝っちゃってね。今日とは真反対の、雪の降る寒い日だったよ」

「そうだったんですか」

「もう……、十年になるかなあ。数字にしてもいまいちピンとこないが、ひとつひとつを思い出すと、長ぇわな。さすがにもうくよくよすることはないんだ。いや、ないって言っちゃ怒られちまうか。ただ不思議な感じがしてくるんだ。子どもが就職したり結婚したり。そういう景色のなかに、なんであいつの姿がないんだろうなあってぼんやりしちまう」

 短い命を繰り返すばかりの断罪には、男の感じている寂寥感を想像することが難しい。安易に相槌を打つこともできなかった。ただ、先立った妻を男がいまでも大事に思っていることだけは、断罪にも伝わった。

「兄ちゃん、家族はどうしてんだ」

「母と妹が」

「そっか。みんな、大事にしろよ」

「……はい」

 みんな。それはすでに他界した父親も含むように聞こえる。

「休み明けにまた来るとするか。邪魔したね」

「いいえ。またお待ちしています」

 男の背中に向かって頭を下げた勢いで、汗が落ちた。その行方を黒々としたアスファルトの上に捜しながら、都々の記憶を覗き込む。

 柚木兄妹の父親はアスファルトに照りつける真夏の太陽のように鮮烈で、奔放で、底抜けに明るい人だった。都々はどちらかというと母親に似ておとなしいたちだったため、大きなトラックを乗りこなす父はテレビから出てきたヒーローのようだった。

 ビルの狭い隙間から猫のけだるい鳴き声が聞こえてきて、断罪は我に返った。気づかないうちに息をとめていたようで、プールから上がったときのように心臓がどくどくと脈打っていた。

 掃除を終えて店に戻ると、るりがアイスコーヒーを用意していた。

「おつかれさまです」

「ありがとう。そっちこそ伝票関係おつかれさま」

「大丈夫ですよ、少なかったですし」

 すこし慣れてきた香りを楽しむ余裕もなく、断罪はコーヒーを一気に飲み干した。

「おかわり、いります?」

「いや、水にするよ」

 自分で水を注いで二度ほどグラスを空にしたところでようやく落ち着いた。

「あの、都々さん」

 カウンターに座ったるりはペンを置いてあらたまった。

「なに」

「その……、こないだはすみませんでした」

 ファミレスでのことを言っているのだろう。都々は座席をひとつあけて座った。

「いや。おれも言いすぎた」

「でもわかってください。わたし、沙々奈のことが本当にショックで、それで……。都々さんのこと責めてしまったけど、でもそれは」

「もういいよ。仕方ないことだから。同じ立場だったら、おれもどうしたかわからない。だからいいよ」

「ひとつだけ、確認させてもらってもいいですか」

 るりは体ごと断罪のほうを向いた。

「都々さんは沙々奈の気持ちを知ってたんですよね。こないだのは、そう受け取っていいんですよね」

「そう、だな」

 コーヒーの苦味がいまさら口に広がる。

「わたし、あれからずっと考えてたんです。沙々奈が抱いてた感情は、どこにも行き着く場所のないものだったんだ、って。あの子はそれがわかってたから、泣いて、もがいて、諦めて……、でも諦めきれなくて。都々さんは沙々奈をこれ以上苦しめないようにって、そういう思いで知らない振りをしていたんですよね」

 膝の上に置いたるりの手は、かたく握られていた。

「だって、兄妹ですもんね……」

 行き着く場所がないのではない。はじめから兄妹という血の檻で隔絶されているのだ。鉄柵の隙間から腕を伸ばしても空を掻くだけで、向こう側の檻には届かない。

 だがもし、もう片方も手を差し出せば――。

「ああ、そうだね」

 うなずきながら、断罪はようやく都々の想いに追いついた。

 伸ばされた手をたった一度でも掴んでしまえば、血の檻からも見放され、道ならぬ道をさまよい続けることになる。行き着く場所だけではなく帰る場所まで失うのだ。もう兄妹ですらいられなくなる。沙々奈はそれでいいと思っていたかもしれない。むしろそうなりたいと望んでいただろう。

 都々は伸ばされる沙々奈の手を握ることも振り払うこともせず、じっと見つめ続けていた。差し出せない腕なら、いっそなくてもいいとまで思った。届くことのない手をなぜいつまでも伸ばし続けるのかと沙々奈を憎んだこともあった。それでも都々は沙々奈を見つめ続けた。

 都々もまた、血の檻など打ち破ってしまいたかったのではないだろうか。断罪の胸のうちに、まろやかで得体のしれない甘酸が広がる。断罪はそれをひどく快く感じていた。

 休暇の貼り紙を書いていたるりは、その出来映えに小さくうなずいた。

「沙々奈は最近どうしてますか」

「すこし風邪気味かな。でも元気だよ」

「そうですか」

「あと、記憶を取り戻したがってる」

「もしかして、きっかけはわたしたちの?」

 るりの敏さは美点だが、すぐ口に出すのは欠点だ。断罪は無言で苦笑を浮かべた。

「あの……ごめんなさい、ほんとに」

「それはもういいって。それより、沙々奈が使いそうなパスコードに心当たりないかな」

 断罪は沙々奈の携帯電話の話をるりにした。るりは曖昧にうなずきながら、ぼんやりとカフェオレを飲む。

「記憶って、取り戻さなくちゃいけないのかな」

 ぽつりと、るりが呟いた。

「都々さんもそう思いませんか。だって沙々奈は命がけで想いを貫いて、記憶を失うことでせっかく……自由になれたのに」

「まあ、うん」

 るりが言いたいことはよくわかる。

 沙々奈の記憶が戻れば罪過は目覚めるのか。そうするといまの沙々奈は失われてしまうのか。罪過を殺し、次の命を目指していたはずが、いまや断罪は心の隅でそうなることをおそれていた。

「おれも思わなくもない。でも、沙々奈がそれを望んでる。それだけだ」

「そうですよね。わかりました、何か思い出したら絶対報告しますね」

「ありがとう」

 いまはただ、あの小さく冷たい手を見失いたくなかった。

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