3 夕立はアスファルトをはじいて

3 夕立はアスファルトをはじいて(1)

 心臓が大きく打って目が覚める。

 断罪はとっさに胸に手をやって穴があいていないか確かめる。ひどく汗をかいていたが、何も変わりはない。隣では沙々奈が静かに寝息を立てていた。

 頭のなかに罪過の声がこだまする。

「死を恐れているのはそちらのようね」

 それはつまり、罪過には恐れがないということか。

 彼女はあのとき、いったいどんな目をしていたのだろう。

 そう思いながら、断罪はふたたび浅い眠りにつく。


 部屋には洗濯機がない。何日も溜めておけるほどの替えの服もない。暑さのやわらぐ夕方、ふたりでコインランドリーへ通うのがこの一週間で日課となった。

 沙々奈は回り続ける洗濯物を飽きることなく眺めている。上下ともサイズの合わない男物のスウェットを着ているが足元は華奢なサンダルで、奇妙な後ろ姿だ。安っぽい蛍光灯が茶色い髪をさらに明るくした。断罪はがたつくパイプ椅子に座って、置き去られた求人誌をのろのろとめくっていた。

 財布の中身を思い返してため息をつく。

 今月の生活費はすべてレナに渡してしまったし、半年貯めた金は沙々奈の大学の授業料として先月都々が送金していた。結果、残金三五〇〇円。

 明日はまだどうにかなる。だが明後日は、その先は……。

 短期募集、経験問わず、履歴書不要、即日支給。断罪にとって都合のよい言葉はいくつもあるが、働かねばならない状況をまだ受け入れられないでいた。

 ラジオから流れてくる曲に合わせて沙々奈の髪がさらりと揺れる。断罪は心のうちで呼びかける。その上機嫌の流れに乗って明日にでも目覚めてくれないだろうか、と。

 次のページを繰る気がすっかり失せてしまった。断罪は冊子をごみ箱へ投げ込んで、ぬるくなったカルピスを飲む。

「まっず」

 半分ほど中身の残っているペットボトルを沙々奈の腕に押しつける。

「やる」

「えー、ぬるいのおいしくない」

「洗濯あと何分」

「話そらすし。えっと、二十八分だって」

「わかった。いまからちょっと離れるけど、終わるまでには戻ってくるから。ここにいろよ」

 断罪は沙々奈の肩をぽんと叩いてランドリーを出た。

「どこ行くの」

「ついてくるな。パンツ盗られてもいいのか」

「うっ」

 沙々奈はすぐさま戻り、自動ドアから声を上げた。

「はやく戻ってきてね!」

 恥ずかしいくらいの大声もすぐさま街に掻き消される。断罪は手を振って応え、歩き出した。

 空の半分が淡い藍色に染まる。雲は夜に近いほうから青みがかった灰色に、ふちは金色に輝いた。ビルの隙間には白い月が、切った爪のようにほっそりと浮かんでいた。

 ざらついた暑さが肌に触れる。すこし吸い込んだだけで内側から灼かれてしまいそうになった。

 働くだけが金を得る方法ではない。持たないのなら奪えばいい。これまで重ねてきた命の経験があれば、どんなことをしてでも生き抜くことは難しくない。死を繰り返してきただけなのに。その皮肉さに、断罪は口を歪めた。

 このまま沙々奈を置き去りにしてどこかへ行ってしまおうか。そんな考えがよぎった。交差点で立ち止まり、コインランドリーがあるほうを振り返る。

 もし断罪が戻らなかったら沙々奈はどうするだろう。都々の部屋へ帰ったところで彼女は鍵を持っていない。ひらかないドアの前で待つのも限界がある。やがて街へ行き、誰かに助けを求めるだろうか。子どものように声を上げて、ただひとりの兄を探し求めるだろうか。

『兄妹、だからだよ』

 一週間前の言葉が思い出される。

 断罪には血縁というものの実感がない。それでも都々の遺したものをたどっていると不思議と情愛のようなものが湧いてくる。都々と肉体を共有しているのだ。無関心ではいられなかった。

 兄だから。血縁だから。しかし責任感という言葉は命を渡り歩く断罪には不釣合いなものだ。あるのは、好奇心、気まぐれ、暇つぶし……。

 思考を断ち切るように頭上で信号機が鳴り響く。断罪はふたたび歩き出した。

 車の行き来が多い車道沿いを離れて、信号のない道を選ぶ。スナックの看板が並び、雑然と自転車が停められた隘路は街灯にも覇気がなく、薄闇はいっそう深い。

 十歩先を飲食店の制服を着た若い女が歩いていた。手には黒いポーチを提げている。化粧ポーチにしては丸みがなく、大きさのわりに重みが感じられる。売上金か、釣銭か。

 断罪は店先に放置されていたビールケースから空のビール瓶を抜き取り、女の背後に忍び寄った。けれど一歩及ばず女は小さなカフェへ入ってしまう。

 舌打ちを洩らしてビール瓶を投げ捨てる。驚いた野良猫がぎゃっという声を上げて走り去った。飛び散った破片が足元へ転がってくる。

「どうかしましたか」

 カフェからさっきの女が顔を覗かせた。

「いえ」

 すぐに去ろうとした断罪だったが、カフェの扉に貼られた一枚の紙を目にして立ち止まった。

 ――短期アルバイト募集中。時給千五百円、資格不問、エプロン支給、コーヒー飲み放題、自転車に乗れるかた希望、諸事情考慮・日払いも対応します。――

「あの、もしかして……都々さん?」

 あらためて女を見やって断罪はあっと呟いた。そこにいたのは沙々奈の大学の友人、雛山るりだった。

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