2 いつかの花(8)

 肩の痛みで目が覚める。フローリングは自らの汗でじっとりとしていた。部屋はぼんやり薄暗くなり、視界が霞んだ。沙々奈が帰ってきた様子はなかった。

 時計代わりのテレビをつけると二時間ほどが経っていた。どのチャンネルも今日のニュースと明日の天気を放送している。明日も暑くなるらしい。

 座卓の下に放り込んだままのビニール袋が、浮きのように暗がりに漂っていた。壊れた携帯電話が透けている。

 昨晩沙々奈は写真の残る携帯電話を握りしめて離さなかった。あの一枚だけが沙々奈の過去と現在を繋ぐ唯一のものなのだ。

 一切の記憶を持たず、自分が誰であるかもわからない。それは断罪も同じだ。はたしていつから自分が在るのか、どんな名で呼ばれ、何を見て何を感じて生きていたのかわからない。

 断罪にはわかる。沙々奈があのテレビ中継を見ていたなら、確かめようとしたはずだ。いま生きている、この目で。

 ぬるくなった水を飲み干し、断罪は部屋を出た。風が吹き抜けて、汗をかいた肌に心地よい。

 昼と夜のあわいで、空は万華鏡のように刻々と色を変えた。どこからか、ちらほらと蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 街には早くも夜の明かりが灯りはじめていた。人の手によって作られた明かりは嘘や弱さを片隅に隠してくれる。自分が誰であろうと、生きていようと、死んでいようと、この色とりどりの明かりのもとでは等しかった。断罪は先ほど口にした水が体の隅々に行き渡っているのを感じた。

 宿主と馴染む恐ろしさは消えない。だがなおも抗い続けるには、命はあまりにも快かった。

 ショッピングモールにはまだテレビ中継の一団がおり、野次馬が周りを取り囲んでいた。断罪はなかへ入らず、段々畑のように広がる庭園の階段を上がった。写真を撮ってもらった最上階のガーデン広場を目指す。

 ビル風が強く、シャツは翼のようにばたばたとはためいた。ほの赤い明かりに包まれて、景色が膨張する。ひとつ階段を上がるごとに、違う世界へと踏み込むようだった。

 ガーデン広場は宣伝効果もあって賑わっていた。特にひまわりの周辺は写真を撮る人が絶えない。断罪はそこで沙々奈を捜した。

「迷子さんですか」

 スタッフ章をつけた男が首をかしげた。断罪はとっさに否定する。

「いや、連れとはぐれてしまって」

「子どもさんではなく?」

「あ、はい」

「えーっと、特徴などは……」

 男は言外に、子どもじゃないなら携帯電話で連絡を取れと言いたげだった。断罪はすみません大丈夫ですと頭を下げて、その場を離れた。

 花壇を貫くゆるやかな階段を上がり、広場を見下ろす。黄昏どきで定かではないが、沙々奈の姿は見つけられなかった。

 もうここにはいないのかもしれない。入れ違いに部屋に戻っているかもしれない。そもそもはじめからここにいるかどうかもわからない。どこか遠い場所へ行ってしまったのかもしれない。

 日陰だった場所に、ビルのきわから光の矢が放たれる。太陽が建物の隙間から顔を覗かせていた。それはまるで神の指先のようだった。額に手をかざし、目を細め、導かれるように光を追う。断罪はその先に東屋を見つけた。

 確証はない。それでも断罪には確信があった。

 近づくにつれ逆光で塗り潰されていた景色が紐解かれていく。断罪はそこに沙々奈の後ろ姿を見つけた。彼女は木製のベンチに膝を抱えて座り、暮れなずむ街を見つめていた。

「沙々奈」

 呼びかけると沙々奈は驚いて振り返った。

「都々さん……」

 表情は夕景にのまれてわからない。断罪はベンチを指差した。

「隣、いいか」

「あ、はい」

 沙々奈は足を下ろして横へ寄った。腕が触れないよう距離をあけて座る。肌に張りついていた汗が一気に乾いていく。断罪は大きく息をついた。

「諦めるところだった」

「あの、なんでここが」

「なんで、って」

 テレビがついていたから。そのテレビに沙々奈が映ったから。昨日ここの写真を見せたから。どれも正しいが、何かが足りない。

 体の奥で、都々の命が脈打っていた。それは断罪のいのちでもあった。共鳴にはほど遠い。残響のような、それぞれの波紋が消える間際にぶつかってはじけるような、そんな響きだった。

 目の前に立てられた柵の向こうを、真っ赤に染まった風船が空に吸い込まれるように飛んでいく。

 断罪は思い浮かんだ答えがおかしくて笑った。

「兄妹、だからだよ」

「きょうだい……」

「ああ」

 断罪は顔を伏せてまた笑った。心地よかった。

「おかしく、ないですよ」

 涙目の沙々奈は鼻声で呟く。

「なんか思い出せたか」

 沙々奈はきつく目を閉じて首を振った。

「テレビでここを見たときにすぐわかりました。昨日見せてもらった写真の場所だって。そしたら、もう、居ても立ってもいられなくて来たんです、けど……、けど、やっぱりわたしのなかにはなにもなくて。それを思い知らされるばっかりで」

 きれいに手入れされた小さな爪に、涙がぽとりと落ちた。

「でも、都々さんが笑ってくれたなら、もうそれでいい気もしてきました」

 顔を上げ、沙々奈は泣きながら笑った。

「都々さん昨日からずっと怒ってましたもんね」

「怒ってないよ」

「いいえ、ずっとこわい顔してました」

 沙々奈は涙を拭って、まなじりを指先で吊り上げた。

「そんな顔してないし」

「また笑ってくださいね」

「頼まれてできることじゃない」

「じゃあまたなにも言わずに家出します」

「するなばか」

「都々さん」

「なに」

「お兄ちゃんって呼んでもいいですか」

 沙々奈は期待に満ちた目をする。断罪は眉間にしわを寄せた。

「はあ……、まあ好きにすれば」

「お兄ちゃーん!」

 すぐそばにいるにもかかわらず沙々奈は声を張り上げた。近くにいたカップルが迷惑そうにこちらを睨む。断罪は沙々奈の頭をはたいて、先に東屋を離れた。首の後ろがくすぐったい。何度も手のひらでこすりながら階段を下りていると、横に並んだ沙々奈が顔を覗かせてにんまりと笑った。

「顔赤いですよ」

「うるさい」

「たくさん泣いて笑ったら、おなかすきました。はやく帰りましょう」

「そういや、おまえ家で何作ろうとしてたんだ」

「え、カレーですけど」

「本気で?」

「どういうことですか」

「だって、カレーにお湯はいらないだろ」

「えっ?」

「え……」

 花壇の淡い花はいつかも見た花のように、風に吹かれて揺れていた。

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