2 いつかの花(7)

 無人の部屋は小さなテレビがついたままになっていた。ショッピングモールでのイベントをアイドルと芸人のリポーターがにぎやかに紹介している。ぼんやり眺めていると部屋の静けさばかりが気になった。画面に表示されたデジタル時計は午後三時を過ぎていた。

 座卓にはスーパーマーケットの白い袋がきれいに折りたたんで置かれていた。断罪が部屋を出たときにはなかったものだ。その下にはレシートがある。じゃがいも、たまねぎ、にんじん、とりにく、カレールー。キッチンを覗くと隅には野菜が、冷蔵庫には鶏肉が入っていた。ルーは裏向けになって流し台の脇に立てかけられて、ガスコンロの上には湯を張った鍋が置かれていた。

 荷物がここにあるということは、一度戻って、ふたたび出かけたことになる。湯の熱さから、それほど前のことではない。

 消し忘れたテレビの音が届く。

「それではもう一度中継を呼んでみましょうか。おふたりはいま、どちらにいますかー」

「はーい、先ほど上から見ていた場所へ降りてまいりました。今日はこちらで開催中のイベントにお邪魔しております! 暑い暑い真夏でも、こんなに色々なお花が咲くんですねー。わたし、知りませんでした!」

「でもやっぱりいちばん人気は、夏の花の代表ひまわり。というわけで、ふたたびガーデン広場へ戻ることにしましょうか」

「そうですね! 見ていると本当に元気になれます!」

 断罪はテレビを消すため部屋へ戻り、リモコンを持った手をふと止めた。

『お母さんが夏生まれだったら、大好きなひまわりあげるのにな』

 紹介されているショッピングモールへ沙々奈と出かけた日のことが思い出された。母の誕生日プレゼントを買いに行ったもののなかなか決まらず、投げやりに沙々奈が言ったのだった。

「じゃあ、花にするか? ひまわりくらい温室のがあるだろ」

「えー。ひまわりは夏に咲いてるのを見るからいいんだよ。こんな肌寒い日にもらったって嬉しくないし」

「どっちなんだよ」

「だからお母さんの誕生日が夏だったら解決するの」

「そんなこと言ってもしょうがないだろ。もう、さっきのスカーフでいいんじゃないか」

「ねえ、おにぃ。わたしアイス食べたい」

 カフェを指差し沙々奈が目を輝かせる。

「話をそらすな」

「かわいい妹が食べたいといっている」

「ダイエットするって言ってなかったか」

「そんなの明日からするし」

「夏でもないのにアイスなあ」

「アイスは年中無休です! おごってよー、おにぃさまー」

 カフェでアイスを買ったあと、広場で着ぐるみと出会い、係員に写真を撮ってもらった。それが昨夜、沙々奈に見せた写真だ。

「ご覧ください皆さん! ガーデン広場を埋め尽くす、たくさんのひまわりを!」

 断罪はテレビを消せないまま立ち尽くした。

 小さな画面いっぱいに、溢れんばかりのひまわりが映し出された。刺すような日差しのなか、凛と背を伸ばして空を仰いでいる。いつだったか、都々がまだ子どものころにも同じような景色を見た気がした。それは都々の記憶ではなく、失われたはずの断罪の記憶かもしれない。その区別が曖昧になるほど胸に込み上げた懐かしさは真に迫って息苦しいものだった。

「平日にもかかわらず、たくさんの方がいらっしゃってます。カップルやご家族連れの方が目立ちま――」

 テレビを切ろうとすると、画面の端に沙々奈らしき姿が見えた。あっと思った瞬間に電源ボタンを押してしまう。慌ててすぐに付け直す。

「……の催しは来週いっぱいまで開催されています。どうぞ皆さん、夏の元気に会いにきてくださいね。以上、ガーデン広場から中継でした!」

 隅から隅まで目を走らせるが、マイクを持ったふたりのほかは花しか映っていない。気のせいだったのか。冷静になって考えれば、この部屋がどこにあるのかすらわからない沙々奈に、広場まで行けるはずもない。断罪は自分の必死さを鼻で笑って、ふたたびテレビを消した。

 空は青いペンキを撒いたように曇りなく、奥行きや高さまでも失っていた。東向きのベランダは日陰になっていたが、息詰まるような暑さには容赦がない。

 首へ伝う汗をシャツで拭う。それでも不快感は消えない。手のひらに貼った絆創膏は血と汗で剥がれそうになり、指先や腕には女のにおいとラメが張りついていた。

 扇風機の風にあたりながら、ぐったりと壁にもたれかかる。

 体が妙に重かった。暑さのせいだけではない。身に覚えのない感情が、汗と倦怠感となってまとわりついていた。

 ずるずると壁からずり落ちてフローリングに横たわる。自分の呼吸が近かった。鼓動は床に響いて波紋のように広がっていく。

 瞼を下ろすと、目の熱さに気づいた。生理的な涙で濡れていく。ふたたび目を開けると、部屋のなかが歪んで見えた。

 この半日、都々の振りをして、都々の生きる世界に触れたことで、何かがずれはじめていた。これではまるで、まっとうに生きているようだ。

 考える時間があるというのは酷なことだった。いつもなら罪過を見つけだし殺すことを考えるばかりで、宿主や自分のいのちの在りようへ思いを馳せることなどなかった。何も考えずにいたいのに、言葉になりきらない思考が蛇のように音もなく忍び寄ってくる。断罪はたまらなくなって、逃げるように眠りに落ちた。死のように深い眠りだった。

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