3 夕立はアスファルトをはじいて(2)
ミヤタコーヒーと書かれた扉には準備中の札がかけられた。
店へ一歩踏み込むとコーヒーの静かな香りに包まれる。体中に満ちていた黒い思考は泡のようにはじけて消えた。
カウンター六席とテーブルがひとつきりの小さな店だった。テーブル席の隣にはコーヒー豆の入った麻袋がそのまま置かれて、銘柄と値段のポップが無造作に突き立てられていた。断罪は奥のテーブルへ通されて、水を一気に飲んだ。全身の汗が急速に冷えていく。
「マスター、バイト希望さん来ましたよ」
るりはカーテンの奥へ声をかけてテーブルへ戻ってきた。
「コーヒーどうですか」
「じゃあアイスで」
「はい。あ、よかったらこれ使ってくださいね」
雑誌ラックにかかっていた商店街のうちわを置いて、るりは販売コーナーから豆をすくってカウンターに立った。
ボブカットの髪は煎ったコーヒー豆のような色をしていた。痩せ型で、シャツの肩幅は合っているのに胸元がだぶついている。めくりあげた袖から覗く腕はやや筋肉質だが、遠目にも女とわかる円やかな骨格をしていた。
はじめてるりに会ったのは数ヶ月前、沙々奈の二十歳の誕生日だった。日付が変わると同時に都々が働く居酒屋を訪れたふたりは十数年来の友人のように馴染んでいて、顔立ちや服の好みは異なるのに姉妹に間違えられることもあるのだと話した。
豆を挽き終えると、静けさが際立った。
「びっくりしました。こんな偶然ってあるんですね」
「偶然……、まあ、そうなるかな」
断罪は唇を歪める。笑みとも苦笑ともつかないこわばりに、るりは気づかない。
君を殴って金を奪おうとしていたとは言えず、仕事を探していると話したことを後悔していた。このままではここで働くことになってしまう。わざわざ生前の柚木兄妹を知る彼女と働くことはない。すぐにも店を出ていきたかったが、涼しさと香りの心地よさは離れがたかった。
「雛山さんは――」
「あ、るりでいいですよ。みんなそう呼ぶんで」
「……ここのバイト長いの」
「そうですね、高校生のころからだから、もう四年くらいになるかな。うちの父とマスターが同級生で、気づけばここに」
手元へ視線を落としたまま、るりは微笑む。
「うれしいな、来てもらえて。この立地だからバイト募集の貼り紙が意味なくて困ってたんです。常連さんのつてでお願いできる人も都合が合わなくて。でも募集は短期だから求人誌に載せるほどでもないですし。ほんと助かりました」
「いや、まだ採用されてないけど」
「大丈夫ですよ、都々さんなら。だって『楽』の接客は厳しいって有名ですもん。そこでホールのサブだったんですよね。大歓迎に決まってるじゃないですか。……ねえマスター、マスターってば!」
カウンターの奥にかけられたカーテンが突如ばさりと音を立ててひらいた。ひとりの男が顔を覗かせている。灰色の口髭が浅黒い肌によく似合っている。断罪と目が合うと、頬にしわを寄せて快活な笑顔を見せた。
「ぼくね、『楽』のだし巻きたまごが大好きで、行くと必ずふたつは頼むんだよ」
「あ、え、はあ……」
「作れる?」
「いや、おれはホールだったんで……」
「そうか。まあいいや。しばらくのあいだ、よろしくね」
「え?」
「仕事についてはるりちゃんから聞いてくれるかな」
「ちょっとマスター、丸投げですか!」
へらへらと笑いながら彼は何度もうなずく。るりは顔をしかめて、追いやるように手を振った。
「ああもうわかりましたよ。こっちはいいですから、マスターは悠子さんのそばにいてください」
「ありがとう!」
マスターと呼ばれた男は、るりに敬礼をしてカーテンの奥へ消えていった。
断罪が呆気にとられていると、るりが笑いながらごめんなさいと言った。
「いまのがマスターの宮田さんです。話すと長くなるんですけどね、今年のはじめに親子ほど歳の離れた悠子さんとデキ婚……あ、いまはさずかり婚って言うんでしたっけ、そういうことになって結婚なさって、もうすぐ予定日なんですよ。急遽バイト募集出したのもそれが理由で」
「でも予定日って早くからわかるんだろう。だったら前もって……」
「それなんですよ」
氷の涼やかな音色を響かせて、るりは断罪の前にアイスコーヒーを置いた。彼女は水をついで向かい側に座る。
「その日がいざ近づいてくると落ち着かなくなったんでしょうね、急にお店休むって言い出して。そうは言ってもね、配達とか受けちゃってるんで、はじめから予定してたお盆休みのほかは営業するしかないんです」
「それで人を」
「はい。都々さんには豆の配達とか接客をしてもらうことになります。来週からのお盆休みを挟んで二週間、お願いします」
たとえばカウンターのレジを叩き壊せば、働くよりも簡単に金が手に入る。そう考えながら断罪はアイスコーヒーを飲む。冷たいグラスが手のひらに触れて沁みた。居酒屋を辞めるときに名札のプラスチックケースでついた傷だ。かさぶたになりはじめていた。切ったときよりいまのほうがずっと痛むのはなぜだろう。
「こちらこそ、お願いします」
口をひらくとすんなり言葉が出てきた。言ってしまってから、胸のうちで首をかしげる。働く実感なんて、ひとつもないのに。
時間が気になって時計を探す。るりの手首の腕時計は七時をすこし回ったところだった。じき洗濯が終わる。
「じゃあ、そろそろ」
コーヒーを半分ほど飲んで席を立とうとすると、るりがあらたまった声で都々さんと呼んだ。
「沙々奈は元気にしてますか」
「ああ……、うん」
「そうですか。二、三日前にメールしたんですけど、返事がなくて。いつもは待ち構えてたのかなって思うくらい反応早いから……、何かあったんじゃないかと心配で」
数日前ならもう沙々奈は死んだあとだ。いまも沙々奈の体は動いているが、それはるりが知る沙々奈ではない。
ここでしばらく働くなら、沙々奈のことを黙っておくのは難しい。それに、るりしか知らない沙々奈だっているはずだ。なにが記憶を取り戻す手がかりになるかしれない。断罪は、実はと切り出した。
「沙々奈が記憶喪失になって」
「どういうことですか」
「死のうとしたんだ。さいわい大事には至らず、いまはすっかり元気にしてる。でも、何も覚えてないんだ。死のうとしたわけも、自分のことも全部」
「そんな……」
るりは口元を両手で覆って言葉を失った。その一瞬で瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「おれのこともわからなかった。だからきっと君のことも……。携帯のロックが解除できないからメールも見られなくて。ごめん」
「もしかして都々さんはそれが理由でバイトを……?」
「この状況じゃ居酒屋の仕事はきついかと思って」
「ですよね。いま沙々奈はどうしてるんですか」
「親に心配かけたくないし、一時的におれのアパートに。いまはコインランドリーで待たせてる」
「そうですか」
顔を上げたるりが、わずかに断罪を睨みつけた。
「都々さんに心当たりはないんですか」
「心当たりって」
「沙々奈の、自殺に関してです」
どこか得意げな目をして、自分には心当たりがあると言わんばかりだ。断罪はすこしでも情報を得るために愚鈍に徹する。
「おれにはわからない。最近は互いに忙しくて、顔を合わせることもそうそうなかったから……。沙々奈のことに関しては君のほうが知ってるんじゃないかな。誕生日に店に来てくれたときの沙々奈を見ていれば、どれだけ仲がいいか、どれだけ信頼してるかすぐにわかる」
卑屈にならないよう断罪が微笑むと、るりは鋭い眼差しを隠すように前髪の乱れを整えた。
「わたしいつも沙々奈から都々さんのことを聞かされてました。あの子にとって都々さんはお兄さんですけど、お父さんでもあって、お母さんでもあって、きっと……。だって都々さんのことを話すときの沙々奈はどんなときよりも嬉しそうで、幸せそうで、輝いていて……」
るりは失笑を洩らして続けた。
「でもどんなときより寂しそうで苦しそうでした。わたしはひとりっこだからよくわかんなかったんですけど、いま都々さんと話してわかったような気がします。沙々奈の痛みが。わかってもらえない、ありえないって線を引かれる。それって嫌われるより残酷なことですよね」
るりは沙々奈が抱いていた恋情のことを言っている。断罪は確信しながら、何も知らない振りを続けた。
「あいつ、何か悩んでたのか。何か知ってるなら教えてほしい」
断罪が身を乗り出すようにすると、るりはテーブルにのせていた手を所在なさげに組んで目をそらした。
「沙々奈待ってるんですよね、いま」
「ああ」
「このあと時間あります? よかったら三人でご飯食べませんか」
「かまわないけど」
「沙々奈のいないところで沙々奈の話をするのは、あんまり、気が進まないんで……。それに、話すなら沙々奈の顔を見てからにしたいんです」
面倒だな、という気持ちを隠し、断罪は生真面目にうなずいた。
「そういうことなら」
「お店の片付けがあるんで、一時間後に駅前でいいですか」
「わかった。じゃあまたあとで」
残っていたコーヒーを飲み干して、断罪は千円札をテーブルに置いた。
「あ、従業員特権で飲み放題ですよ」
「でもまだ働いてないから」
「じゃあ、これはわたしのおごりです」
「そう言ってメシをおごらせるつもりなんだろ」
「そのへんは大人な都々さんに任せます」
冗談めかしてるりは笑ったが、その目は明らかに笑っていなかった。
「すごいプレッシャー」
あわせて笑いながら、断罪はごちそうさまと告げて店を出た。つき返された千円札をジーンズに突っ込む。割れたガラスの破片を踏んで、靴裏でじゃりりと不快な音がする。断罪は排気ガスのようにゆらりと漂う苛立ちを暑さのせいにして、沙々奈の待つコインランドリーへ戻った。
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