2 いつかの花(2)

 油断していた、不運だった、どんな言葉を並べても納得できなかった。殺されるのはおれの役割じゃないはずだ、という思いで思考が滞る。自分の死に顔を見下ろす罪過を思い浮かべると、悔しさと恥ずかしさが込み上げた。

 あのあと罪過はどうなったのだろう。今生の異変は直前の死にあるのではないだろうか。そんなふうに考える。

 断罪は血のにおいに急かされ、狭いユニットバスへ入る。熱いシャワーを浴びていると、古い塗装が剥がれるようににおいは消えていった。思考や感情の澱みも洗い流されて、肉体は器へと研がれていく。しかし、どんなに石鹸をこすりつけても、いのちに染みついた死のにおいは落ちない。薄汚れた浴槽の縁に腰かけ、雨に打たれるように頭からシャワーを浴びる。排水口へ流れていく水を見つめていると、いのちが吸い込まれていくようだった。

 繰り返しに倦みながら、繰り返すことによる無風状態のいのちに安住していた。転生という殻のなかで断罪は目を閉じ、耳を塞ぎ、息をとめて、叫びを飲み込み続けてきた。思考することも、感情を吐き出すことも、生きることに付随する何を求めることもなく、ちらつく羽虫に刹那の殺意をぶつけるようにして罪過の命を奪ってきた。

 いつからそうなのか、なぜそうなったのか、遠い昔のことは覚えていない。だが罪過のことを考えると、いてもたってもいられなくなる。情欲と言われても仕方がなかった。それだけが断罪のいのちの軸であり、断罪が断罪自身であることの証明でもあった。

 このいのちには、罪過に撃たれてできた穴があいている。その穴を埋めるには、罪過でないと意味がない。素直にそう思えた。ならば罪過を叩き起こして殺すまでだ。

 風呂を出て部屋へ戻ると、カーテンの外に光を感じた。空は白みはじめていた。洗いたてのジーンズをはいて、扇風機の前に座る。

 沙々奈は眠っていた。断罪の素性を疑うことなく、安心しきっている寝顔だった。なにかざわざわとした気持ちが肉体から断罪へと染み出してくる。

 断罪は覆いかぶさるようにして顔を覗き込み、沙々奈の唇に指で触れた。ざわついた気持ちはやがて都々の記憶として断罪へ語りかけてくる。

『ねえ、おにぃ、もしわたしが妹じゃなかったら』

 ひと月ほど前のことだった。真夜中に居酒屋の仕事から帰ると部屋の前に沙々奈が座り込んでいた。昼には大学へ出てこなくてはならないから寝かせてくれと言う。追い返すわけにもいかず仕方なく上げると、勝手にエアコンをつけ、勝手にスウェットに着替えて、あっという間に布団を占領された。都々はあまった毛布を敷いて横になり、すぐに眠った。

 都々の首筋を何かが掠めた。払いのけようとするがままならない。目を開けるとすぐそばに沙々奈がいた。起き上がって、都々を覗き込んでいる。触れていたのは彼女の長い髪だった。

「なにしてんだ、はやく寝ろよ」

「おにぃは彼女とかいる?」

「答える必要なし」

「いるんだ。わたしよりかわいい?」

「意味がわからん。寝ないなら帰れ」

「ねえ、おにぃ、もしわたしが妹じゃなかったら」

 沙々奈は急に黙り込んで都々のTシャツを強く握った。いつもと違う様子に眉を寄せる。

「なんだよ」

 続きを催促しても沙々奈は唇を引き結んでいた。やがてそれまでの自分をなかったことにするように、へらっと笑う。

「なんでもなーい。おやすみ」

 ころんと転がって背を向けると、沙々奈はもう振り返らなかった。丸くなった背中を見やって、都々はふと自分の唇に触れた。ほんのり甘い香りがした。

 昼近くになって起きると、沙々奈はもういなかった。卓上には空になったプリンと、次はチョコプリンでよろしくとメモが残されていた。

 あのとき沙々奈がしたように、断罪は沙々奈を覗き込む。

 断罪の濡れた髪から雫が落ちて、沙々奈の頬を伝っていった。それでも気づかずに眠っている。

 思えばあの日、沙々奈が帰ったあと玄関の鍵は閉まっていた。午前中、都々が寝ているあいだに合鍵を作ったのだろう。そしてその鍵で昨夜も勝手に部屋へ上がったのだ。いったい、なんのために。

 断罪は沙々奈へ顔を近づけた。前髪が額に垂れ、鼻先が触れそうになる。唇からあのときと同じ香りがした。

 なぜ沙々奈は死んだのか。自殺だとしたら、実兄への恋心に身を焦がして死んだのか。だからこの部屋で死んでいたのか。たったひとつのキスを秘めて、兄にすべてを委ねるように……。

 くだらない。

 断罪は胸のうちでわらう。そんなことで死んでしまえる沙々奈の脆さに呆れ果てた。

「沙々奈」

 呼び声は死の間際まで彼女が求めていたであろう、兄のものだ。だが一度死んだ彼女は何も知らず穏やかに寝息を立てている。

 指で顎をなぞって、包み込むようにして喉を掴む。やわい肌の向こう側に流動する血潮を感じた。細い首だ。ほんのすこし力を込めたなら、すぐにでも折れてしまう。

 どうすれば罪過を目覚めさせることができるのか、断罪には見当もつかない。看守は〈浄化〉の兆しかもしれないと言ったが、何もできないまま、殺さないままずるずると日々を過ごすことに、断罪は耐えられそうになかった。

 縊ろうとする指先に力を込める。翅のように薄い瞼が震えた。不意の暴力に抗うように、ただ生きようとするように、手のひらに鼓動が伝わってくる。助けてと、無言の叫びが聞こえてくる。健やかな寝顔に死に顔が忍び寄る。

 断罪の胸のうちはしんと静まり返って、凪のように穏やかだった。これは罪過ではないといのちが判断したのだろう。体から力が抜けていく。根拠も条理もなく、命を選り分けるために殺すのは、無為に命を繰り返すのと同じく詮無い。

 断罪は沙々奈から手を離し、きちんと布団へ寝かせてやった。頬を伝った雫はいつのまにか乾いていた。

 カーテンが風に揺らぎ、どこからかパンの焼ける香りが漂ってきた。

 一度死んだ肉体でも、眠気や空腹は生きているときと同じようにある。断罪は手近にあったシャツをはおって、部屋を出た。

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