2 いつかの花(3)

 日の出から間もないが外はすでに暑さで膿んでいた。

 ここにはライフル銃を持った男も、手榴弾を投げる少年も、射抜くような目をした少女もいない。爆撃を恐れて空を睨みつけることも、喉の渇きに耐え切れず泥水を飲むこともない。

 だが、なにも違わない。

 行き交う人々の視線はどこか虚ろで、体温や血潮は感じづらい。よく色づいて美しいが、蝋でできた作りもののような場所だった。世界はどこもかしこもひずんでいる。

 コンビニエンスストアで弁当とおにぎりを持ってレジへ向かう。だが途中で引き返して弁当をひとつ付け足し、店を出た。

 部屋へ戻ると、沙々奈が玄関まで出迎えにきた。

「おかえりなさい、都々さん」

 記憶がないとはいえ、自殺を図ったとは思えない溌剌とした笑顔だった。断罪は彼女を一瞥し、黙って靴を脱ぐ。そのままやり過ごして脇を行こうとすると、後ろからシャツを引っ張られた。

「ごめんなさい。実の妹から都々さんなんて呼ばれたら、やっぱり嫌ですよね。じゃあ、あの、がんばります。がんばってお兄さんって呼ぶようにします」

「いや、別に。好きにすれば」

 顔を引き攣らせながら断罪は沙々奈の手をやんわりと払った。

 雑然と散らかっていた部屋はこぎれいに片付けられ、狭苦しいベランダには布団が干されていた。

「勝手なことしてすみません。でもご迷惑をかけたお詫びがしたくて」

「やりづらいから、なにもしなくていい」

「はい……、努力します」

「これメシ」

 卓上に買い物袋を置いて、フローリングにあぐらをかいた。座ると一気に汗が出てくる。沙々奈はありがとうございますと言って座ったものの、袋から弁当を取り出すこともせず、膝の上に組んだ手をもじもじと動かしていた。

 断罪は空腹に耐えかねて弁当を並べた。

「生姜焼き弁当と唐揚げスペシャル、どっちがいい」

「えっ」

「どっち」

「肉ばっかり、ですね」

「いらないなら別にいいけど」

「あ、いります、生姜焼きがいいです」

「朝から唐揚げはちょっと、とか思った?」

「なんでわかるんですか」

「前にも言われたから」

「そうですか。あ、わたし、お水取ってきますね」

 立ち上がった沙々奈の背中を目で追う。

『おにぃ、唐揚げは朝ごはんじゃないよ』

 都々がまだ実家にいたころ、小学生だった沙々奈はどこか得意げにそう言った。そのとき都々が感じていた焦燥や、沙々奈の無邪気さが思い出される。

 キッチンから戻ってきた沙々奈はミネラルウォーターのペットボトルを持ってふらふらと辺りを見回した。

「都々さん、グラスは……」

「ない。そのまま飲んで」

「あ、はい」

 沙々奈はふたたび腰を下ろして箸を手にしたが、一向に食べる気配はなかった。思いつめたように唇をかたく閉ざして、やがて掠れた声で都々の名を呼んだ。

「その……、わたしはこれからどうすればいいんでしょうか」

「ああ、そのこと」

 扇風機にあおられたビニール袋が、鳥の羽ばたくような音を立てる。沙々奈はそちらを見るともなく見やって、口をひらいた。

「ここは都々さんのお部屋なんですよね。それってわたしの家ではないってことですよね」

「そうだな。おまえは実家暮らしだから」

「だったら家に帰ったほうが……。両親も心配してるだろうし。あの、いますよね、親」

「母親だけな」

「お父さんは」

「だいぶ前に病気で」

 脂ぎった唐揚げをほおばり、断罪は窓の外へ視線を投げた。

 父が危篤になった朝、病院の母から電話があった。沙々奈を午前中だけ小学校へ行かせたら、都々は高校を休んで病院へ来るようにと、聞いたことのない静かな声で告げられた。

 父のことを言葉にするのがおそろしかった都々は、沙々奈を起こさないよう小さな声でただわかったとだけ返事をした。

「さーちゃん寝てる?」

「ああ」

「そう、よかった」

 カーテンの隙間から一条の光が射して、受話器越しの母の声が震えた。

「さーちゃんには、まだ言わないで」

 そう言って、母は泣いた。

 都々は冷凍の唐揚げをレンジで温めて朝食に出した。母の言いつけどおり、沙々奈に父のことは言わなかった。だが沙々奈は察していた。

「おにぃ、唐揚げは朝ごはんじゃないよ」

 沙々奈は子どもながらに兄を元気づけたかったのだろう。自分は平気だ、いつもどおり駄々をこねるぞ、と。

 他人である断罪にはそのことが容易に推察できた。断罪は視線を弁当へ戻す。

 目の前にいる沙々奈は細い指を組みあわせて、箸袋をぎゅっと握りしめた。

「そうですか……。お母さん、家にひとりなんですね。じゃあ、なおさら帰らなきゃ」

 沙々奈がどこへ行こうと彼女の勝手だが、いつ罪過の意識が戻るかわからない状況で彼女から離れるべきではない。

「こんな状態で帰ったら、よけい心配かけると思うけど」

 断罪は箸を持ったまま、立て膝に頬杖をついた。

「昨日自分がどういう状況だったか、わかってる?」

「はい。隼弥さんから聞きました。自殺しようとしたって」

 記憶がないせいで実感もないのだろう。他人事のような話し振りだった。断罪にはその感覚が自分のことのようにわかる。

「一般論として、母親が娘の自殺をああそうですかって聞き流せると思うか」

「思わない、です」

 沙々奈はようやく思い至ったのか、小さな声で呟いた。

「わたしほんとに、死のうとしたんですね」

「ああ」

「都々さんに言うことじゃないですけど、これでよかったんでしょうか」

「どういうこと」

「だって死にはしなかったけど、なんにも覚えてないし、きっと迷惑かけるばかりだし……」

「助けないほうがよかったか」

「まさか。そういうわけじゃないんですけど、ただ、申し訳なくて。だってまるで死んでるみたいです。自分で自分のことを語れないんですから。ただ体が息をしてるだけで、それを生きてるって言えるかどうかが、わからなくて」

「記憶がなければ、生きていても死んだようなものか」

 断罪は嘲笑を浮かべた。そう言える彼女が羨ましくもあった。

「ごめんなさい」

「いや、別に。しばらくおれのところに泊まるって言えば、特に問題ないから。普段からそう言って外泊してたみたいだし」

 自分のことを人から聞かされても受け止めきれないのだろう。沙々奈はどこかぼんやりとしてうつむいた。

「いろいろ不安だろうけど、とりあえず思いだしてみたら? 記憶。まずはそこからだろ」

「はい」

「母親にはおれから連絡しとく」

「連絡……、あっ」

 突然声を上げた沙々奈は座卓の隅を見やった。断罪もつられて視線を向ける。そこには、プラスチックが割れて基板が丸見えになった携帯電話があった。

「え、なんで」

 手に取ると、古いクッキーのようにぼろぼろとプラスチック片がこぼれた。

「都々さんが出かけてるあいだに電話があって、出たんですけど……」

「電話に? おれの携帯ってわかりながら?」

「はい……。勢いよく開けたら、その、ミシッて」

「割れたんだ」

「はい、割れました。電話も切れちゃいました」

 たしかに昨夜も動きは怪しかったが……。

 苦しまぎれに笑みを浮かべる沙々奈に向かって、断罪は大きなため息をついた。

「で、誰からだったの、電話は」

「ちらっと見えた画面には、お店って」

 都々のアルバイト先からだ。着信は六時前後か。そんな時間にかけてくるのは、昨夜都々と入れ替わりでホールに入ったチーフくらいだ。

「あ」

 断罪は鞄から作りかけのシフト表を取り出した。電話の用件はこのことだろう。スタッフの休日希望はここにしか書き込まれていない。携帯電話が壊れたのなら連絡の取りようもない。それはそれで好都合だった。ぐしゃりと紙を握りつぶす。

「な、なにやってるんですか!」

 横から沙々奈の手が伸びて、しわくちゃになったシフト表を奪っていく。

「大事なものなんじゃないんですか」

「もう関係ないから」

「お仕事のですよね」

「ああ。でももういいんだ」

 居酒屋に限ったことではなく、働く気など微塵もなかった。手元にある金がなくなれば、そのとき考えればいい。

 沙々奈は紙のしわを床で伸ばしながら、繰り返し謝った。

「わたしのせいですよね。わたしが死のうとしたり、勝手に電話に出てケータイ壊したりしたから」

「いや……」

 間違いではないが、それだけではない。しかしうまく説明もできず、断罪は言葉を濁した。

「だったらわたしが持っていきます」

「は?」

「このシフト表、わたしがお店まで届けてきます。だからお店の場所、教えてください」

 沙々奈は勢いよく立ち上がり、紙とペンを差し出してきた。断罪は慌てて押し返す。

「待て、待ってくれ。わかった、おれが持っていく。それでいいか」

 たまらずそう告げると、沙々奈はこわばらせていた顔を弛めてうなずいた。紙とペンを元の場所に戻し、弁当の前に座る。あまりに嬉しそうな顔をするので、小言も言えない。

「とりあえずメシ食っていいか」

 壊れた携帯電話はビニール袋へ入れて丸めた。

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