1 回転木馬の不協和音(4)

 廊下を進み部屋のドアを開けると、なかからひんやりした空気が流れてきた。都々の記憶では出かける前にエアコンを切ったはずだった。

 玄関には見慣れない靴が脱ぎ捨てられていた。女物の華奢なサンダルだ。作り付けの靴箱の上にはぬいぐるみの飾りがついた鍵がある。なかに、誰かいる。

「なぁんだ、彼女か。合鍵とかいやらしい」

 ため息まじりに看守が呟き、先に靴を脱いで上がる。断罪は手のなかの鍵を見下ろした。

「合鍵なんていつのまに……」

「彼女ってとこは否定しないんだね」

 部屋の明かりはついていなかったが、ベランダに面したカーテンがひらいていたので目は利いた。玄関から短い廊下が伸び、脇の窪みにはキッチンとユニットバスがある。奥に六帖の部屋が半分ほど見えるが、人の気配はない。

「背が高い男はいいよね。隼弥なんてそれで五回くらいふられてるよ」

「高いってほど高くない。あとついでに彼女でもない」

「えー、大人の関係ってやつ? やだな、夢がない。獣だよ」

「黙ってろ」

 声を抑えて強く言うと、看守はくすくすと笑った。睨みつければ話をそらすかのように鼻をすんすん鳴らす。

「さっきから何か臭うんだけど」

 たしかに慣れないにおいがする。真新しい革製品のような、生々しいユリの花のような、甘く生臭くまとわりつくにおいだ。

 断罪はサバイバルナイフを取り出し、部屋を覗き込んだ。

 氷のように冷たいフローリングには、空になったチューハイの缶がいくつも転がっていた。そばには赤いペディキュア。玄関にあったサンダルが似合いそうな、小さく華奢な足だった。

 静かな部屋に冷蔵庫の稼動音が響く。

 そこにはひとりの少女が倒れていた。茶色く染めた長い髪が邪魔をして顔は見えない。だが断罪にはわかった。

『おにぃ、おにぃ』

 都々の記憶の断片が呼びかけてくる。

「沙々奈……」

 死んだはずの都々に感化され、断罪は吐瀉するように妹を呼んだ。

「沙々奈って、もしかして罪過?」

「あ……、ああそうだ」

「なにが服を着替えたいだよ。ちゃんと罪過のところへ向かってたんじゃないか。あんまりうまいサプライズじゃないよ」

「そう、か」

 偶然とは言えず、断罪は曖昧に返す。平静を装うのが難しかった。

(ついてるぞ!)

 心のうちで喝采を上げる。居場所のわからなかった罪過が、探す手間なく見つかったのだ。この場に看守がいなかったら、巡ってきた幸運に口笛を吹いていたかもしれない。

 柚木沙々奈は胎児のように体を丸めて倒れていた。断罪らに気づく様子もなく微動だにしない。窓からこぼれる夜の明かりが靄のように床に広がり、短いワンピースから伸びた沙々奈の脚を照らした。部屋が暗いせいか白い肌がいっそう映えた。

「おい、罪過」

 呼びかけても反応がない。起こそうとして腕を掴むと、肌は冷たく、関節はマネキンのようにこわばっていた。断罪は慌てて手を離した。

「どうかした?」

「いや」

 死んでいるとしか思えない。断罪の頭に〈浄化〉の二文字が浮かぶ。

「……まだ意識がはっきりしないみたいだ」

「ふうん」

 看守は沙々奈の鞄のなかを漁るばかりで、こちらを振り向こうともしなかった。

 断罪はほっと息をつき、少女の頬にかかった髪をかきわけて青白い顔を覗いた。眠っているような穏やかな顔をしていたが、さほど濃くもない化粧が浮き上がって見える。触れると指先が濡れた。

 まだ死んでいるのか、もう死んでいるのか。その区別は難しい。少なくとも、死んでいるものを殺すことは不可能だ。断罪はサバイバルナイフを握りしめたまま立ち尽くした。

「ねえ、窓開けたほうがいいかも」

「寒いならエアコンを切ればいい」

「そうじゃなくて、これ」

 小さな座卓にアロマポットがある。

「なんだそれ」

「いわゆる危険ドラッグってやつ」

「は?」

「とりあえず窓開けて換気しよ」

 言われるまま窓を開け、ユニットバスの換気扇をつける。エアコンを切ると、密度の高い、あたたかく湿った風が通り抜けていった。

「アロマみたいなものだよってのが隼弥の常套句だったんだけど、そう言うとまるで安全みたいに思うやつがいるんだよね」

「隼弥……? 宿主は売人か」

「そう。だいたい売人がほんとのこと言うわけないじゃんね。売りたいんだからさ」

 看守はにやりと笑って扇風機のスイッチを押した。まだ辺りに燻っていた甘い腐敗臭が散り散りになって消えていく。

「ねえ、これは都々の?」

 看守はごみ箱をひっくり返して空になった薬のシートをつまみあげた。

「いや、覚えがない」

「じゃあ、この子の」

「どうした」

「うん……、てっきり中毒死かと思ったんだけど……」

 薬物の知識を持たない断罪には、そのシートが何を意味するのかはわからない。ただ看守の口ぶりから、沙々奈の死が単なる事故ではない可能性を感じとっていた。結果として事故だったとしても、そこへ至るには死の迷いがあったのだと。

 シートを見つめたまま看守はふと呟く。

「ああでも、うん、わかんないけど、もしかしたら偶然も必然もひっくるめて自殺なのかもね。めちゃくちゃだけど、でも、めちゃくちゃだから……。なんか、死ぬ衝動ってそういうものらしいし。ぼくにはまったくわからないけど、……呼んじゃうんだってね」

 妙に寂しげに扇風機の前に座り込み、銀色のシートを破線に沿ってちぎる。その背中は幼く、子どものようだった。

 看守の言わんとしていることは断罪にもわかる。道を歩いていて、そちら側へ行ってはいけないと思うほど意図せず近づいてしまうことがある。死も同じで、死の影を意識するとたちまちそれはやってくる。気の迷いだったと振り払っても、いつまでも棘のように命に潜み続ける。

 ざわついていた心がゆるやかに落ち着きを取り戻していく。この死体は柚木沙々奈だけではなく罪過のものでもあると思えた。濃密な香りのなかで目覚めた罪過は、はっきりと意識を取り戻すことなく毒を吸い込み死んだのだ。そうでなければ、いつまでも彼女が目覚めないことの説明がつかない。

 断罪は壁にもたれて腰を下ろし、脚を投げ出した。足裏が沙々奈の膝に触れる。冷たくて気持ちがいい。

 闇のなかで蛍の光のように淡く灯っていた〈浄化〉という期待が溶けるように消えていく。期待とは、希望とは、なんと美しい凶器か。断罪は自嘲を浮かべ、沙々奈の膝を押すように蹴った。

「人の部屋で自殺なんて、迷惑な話だな」

「でも家族なんでしょ。お兄ちゃんにいちばんに見つけて欲しかったんじゃない? あ、逆にすっごい恨まれてたとか」

「そんなはず……」

 ないとは言えなかった。どちらもありえることだ。

『ねえ、おにぃ、もしわたしが妹じゃなかったら』

 川面を流れる木の葉のように浮きつ沈みつしながら、都々の記憶が意識の表層へ上がってくる。断罪は頭を振ってそれを追いやった。

 サバイバルナイフを置いた指先に何かが触れる。沙々奈の携帯電話だった。手に取って指でつつくと、画面にはパスコードの入力欄が表示された。もしかすると遺書のようなものが残されているかもしれない。ためしに生年や誕生日を入力してみるがどれも違った。扇風機の風のように生ぬるい興味は、すぐに輪郭を失って蒸し暑さと同化していく。

 足裏に押しつけた沙々奈の膝は断罪の体温を吸収して、もう冷たくはなかった。冷たい場所を求めてつま先でまさぐると、沙々奈の内側から滲み出てくる熱があった。慌てて顔を覗き込む。

 薄い皮膚の下から生命の色彩が湧き上がる。息継ぎをするように表情が躍動しはじめる。断罪は胸に耳を押し当てた。少女の体はすっかりやわらかく、心臓は鼓動していた。

 生きている。

 いったい誰が。

 ぐんぐんと命を吸い上げ目覚めていく少女を、断罪は息を殺して見つめた。

「どうしたの、断罪」

 看守がこちらを振り返ったが、相手をするだけの余裕はなかった。断罪は少女の腕を強く掴んで名を呼んだ。

「罪過か」

 閉じられた瞼が応えるように震える。断罪は激しく揺さぶりたいのをぐっとこらえた。やがて花が綻ぶように瞼がひらく。伏せられていた眼差しが外の世界へ投げかけられる。羽化したての蝶のように翅が広げられていく。

「沙々奈か」

 呼びかけに、彼女はただぼんやりとした。

「おまえは誰だ」

 生まれたての瞳は焦点が合わないまま断罪を見つめ返す。朝日が稜線を濡らしていくように少女の目が力を帯びていく。

 直後、彼女は悲鳴を上げて断罪を突き飛ばした。

 断罪は起き上がり彼女を睨みつける。

「きさま……」

 少女は手近に落ちていたサバイバルナイフを手にする。

「誰ですか、こ、こないでください!」

 ナイフを構えるか細い手はひどく震えていた。

「それはこっちの台詞だ」

 切っ先を向けられ、断罪は首の後ろがかっと熱くなるのを感じた。

 目の前の少女が誰かと考えるのは馬鹿らしい。どうせ、死んではまた目覚めるばかりの、あてどないいのちだ。

 死を恐れない断罪には武器など無意味だった。少女の懇願を聞くことなく、ゆらりと立ちあがる。

「待って断罪」

 ジーンズの裾を看守に引っ張られ、断罪は立ち止まった。

「なんだ」

「様子がおかしいよ」

「そうだな。だからどうした」

「罪過にしてはしおらしすぎる」

「ふざけてるのか」

「真面目だよ。彼女、まだ柚木沙々奈なんじゃないの」

「だったらどうなんだ。どちらにしろ、それはつまり罪過ってことだ」

「そうなんだけど、でも、やっぱりおかしい。柚木沙々奈は都々の……君の妹なんだろう。それならどうして怯えてるの」

 看守の言葉に、断罪ははっとした。

「たしかに」

 これではまるで、赤の他人だ。

 断罪は怖がらせないようにゆっくりと腰を下ろし、彼女と視線を合わせた。

「おまえは誰だ」

「ぼくたちこう見えて怖くないよ、大丈夫」

 ナイフを持っていた手が重さに耐えかねたように下ろされる。少女は小さく首を振った。

「わかりません。わたしは……誰ですか」

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