1 回転木馬の不協和音(3)
風俗店の客引きが断罪のなりを見て視線をそらし、後ろを歩いていたサラリーマンに声をかける。そこには誰もいなかったような振る舞いに、断罪は騒ぎなんてとにやついた看守の顔を思い出していた。
一歩踏み出すごとにスニーカーのなかで人差し指の爪が親指に食い込んだ。断罪は冷ややかに痛みを見つめる。爪を切ったり消毒したりしなければ、傷口はいつまでもじくじくと痛むだろう。しかし断罪には興味がない。体がどうなろうと、動くなら問題ない。動かないなら、次の転生を待つだけだ。
隣を歩く看守は携帯電話に指を滑らせ、写真やメールを楽しげに眺めていた。
「おもしろいか」
「そうだね。懐かしいとも思うよ」
「宿主の記憶だ。おまえのそれは錯覚にすぎない」
「クールだなあ」
看守はわざとらしい笑い声を立てて、顔を上げないまま続けた。
「君は体が覚えていると感じたことはないか。ぼくらは宿主の経験や知識を引き継ぐ。それは思考を介することばかりじゃないよね。銃を向けられたらとっさに身構えたり、運転したことのない車を乗りこなしたり、こんなにややこしい精密機器をいとも簡単に扱えたりする。ぼくが思うに、経験ってやつは体にも染みついてる。この指が知ってるんだ」
飲み会の写真を画面に表示して、看守は断罪へ向けた。
「これなんか、くそまずい酒を思い出して吐きそうになる」
「ご愁傷さま」
「もちろん、宿主の名前や記憶が混乱して、なにがなんだかわからなくなるときはあるよ。ただ、それがぼく自身を侵すことはない。たとえるならたくさんの物語を読む感覚に近いかな。いくつもの物語が記憶のなかで混ざりあったとしても、ぼくの現実までが巻き込まれることはないだろう。どれもこれもぼくにとってはフィクションなんだよ」
「気楽だな」
「せっかく生きてるんだ。楽しいほうがいいに決まってる」
「生きてる? こんな繰り返しが? そう思えるのは、おまえがはじまりの記憶を持つからじゃないのか。どれだけ他人の記憶に触れて別の人生をなぞったとしても、最後にはおまえ自身に戻ってこられる。だがおれには拠る記憶がない。振り返っても何もない」
あるとしたら、噎せ返るような血のにおいと、罪過を殺し続ける健気さだけだ。
繁華街を過ぎ、辺りは夜が濃くなる。
「記憶がないから何もないなんて、それは違う」
看守は小さな声で呟いた。
「なんだって?」
「君は、断罪である君と宿主、今生なら柚木都々との差異がなくなることを恐れているんだね」
とぼける素振りすらなく話がすり替えられる。断罪は追及するのも億劫で黙り込んだ。
「恥じることはないよ。それは生き物としてまっとうな感覚なんじゃないかな。自分と他人の境界がなくなることは、世界の喪失でもあるからね」
「くだらない」
吐き捨てるように呟いて、断罪は看守からペットボトルを掠めとった。塞がったはずの傷口から洩れているのか、飲んでも飲んでも渇きは満たされなかった。
画面の上を滑っていた指先がふととまる。
「断罪、君ははじまりの罪を知りたいか」
「……どうかな」
言葉が舌の上でざらついていた。
知りたくないと言えば嘘になる。だが無邪気に知りたいと言えるときはとうに過ぎた。許されがたい大罪を犯していたとしても断罪は納得できそうにない。この罰はあまりにも重すぎる。
転生は罰だと看守はいう。罪について知らないまま罰を受けることがはたして償いになるのか断罪には疑問だった。今の在り方は贖罪よりも、報復を受けている感覚に近い。
「おれは断罪という名のとおり、これからも罪を断つだけだ」
それが正しいのか間違っているのか、答えてくれるものはない。手探りのまま、何も知らされないまま繰り返すことしかできない。
「いまさら罪過を殺さずにやり過ごす命を、おれは知らない」
「まるで自分が被害者みたいに」
看守は死人のような肌をして眉をひそめた。
「ずっと思ってたんだけど……、断罪、君はただ殺したいだけじゃないの」
「だったらどうなんだ。おれが何をどう考えていようと、他に手がかりがないなら奴を殺し続けるしかない」
「手がかりって」
鼻で笑って看守は続ける。
「ぼくたちの名前のこと? ただのこじつけかもしれない。それなのに君は飽きることなく罪過を殺して、殺して、……もう、いっそ情欲だよね」
「情欲、だと」
断罪は看守の肩を乱暴に掴んで立ち止まった。その一瞬、看守は悔やむような苦しげな目をした。
「看守……?」
確かめようとするも看守はすぐに暗がりへ逃れるように顔をそらしてしまう。いつになく不安定な看守の眼差しに、断罪は考えを巡らせる。
「おまえ、話したいのか」
詰め寄っても、看守は何もなかったように涼しい顔をする。断罪は手に力を込めた。
「そうなんだろう。はじまりについて、罪について、もういい加減飽いたんだろう。物語? フィクション? ……なるほど、何もかも知りながら繰り返すのはさぞ苦痛だろうな。おまえは終わりを望まないと言いながら、一方では〈浄化〉という刺激に飢えている」
「さあ……、どうかな。それも含めて知りたいとは思わないか」
看守はあらためて問う。そこに先ほどの揺らぎはない。
断罪は逡巡した。知りたいと答えたところで看守が本当のことを話すとは限らない。それでも終わりへの欲求は断罪自身が思っているよりずっと強いものだった。目の前にちらつかされて、気にならないはずがない。この不毛な繰り返しを終わらせることができるなら……。
看守は断罪の思考を読んだように軽くうなずいて微笑む。それがあまりにも穏やかで断罪は淡い期待を飲み下した。
「信用できないな」
断罪は突き飛ばすようにして看守から手を離した。黙って歩き出すと、看守の笑い声がした。けれどもう話しかけてはこなかった。
六階建てアパートの一室で柚木都々はひとり暮らしをしていた。エレベーターに乗り込むと、なまぬるい空調が首の後ろを撫でた。湿りながら冷えて、肌が張りつめていく。ガラスに映る柚木都々と目が合う。断罪はすぐに視線をそらした。
『君は、断罪である君と宿主、今生なら柚木都々との差異がなくなることを恐れているんだね』
看守の言葉は憎らしいほど核心をついた。自分が何者かわからないせいか、鏡というフィルターを通してしまうと柚木都々本人のような気になってしまう。
看守は相変わらず涼しい顔で携帯電話を眺めていた。あらゆるものへ興味を示しながら、なにものにも囚われない孤独が彼にはあった。転生を重ねるうちに生まれた孤独か、それともはじめからそういう男だったのか断罪にはわからない。
横断歩道で見た看守の歪みを思い出す。狂人のよう声を上げて笑い出しそうであり、子どものように泣きだしてしまいそうでもあった。たくさんの宿主を渡り歩き、そのたび姿を変えても、いつもどこかに面影が残る。同じいのちが宿るからだろう。しかし先ほどの看守はまるで別人だった。
エレベーターが三階へ到着し、扉がひらく。そこで思考は途切れた。
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