第36話


 太陽が中天に昇る頃。

 勇人は、四十万をこえる軍の先頭にいた。


 周囲は、岩と砂ばかりの荒野で、対面には魔族軍──異形の軍勢が背後の封印場を守るように展開されたいた。


 あちら側も、四十万ほどいるだろうか。


 互いに睨みあいが続いていた。

 さっさと攻めてしまえばいいものを、あまりの大軍のため隊列が長く伸びてしまい、すべての軍が集結するまで、時間がかかっているのだ。

 では、魔族軍から攻め入られることはないのか、というと、それはなかった。


 なぜかというと、魔族側の目的は魔神の解放までの時間稼ぎだからである。

 だから、あちら側から攻めて、無駄に開戦を早めることもないというわけだ。

 そうして、しばしの膠着状態が続いている。


 勇人は眼を細めて、魔族軍の背後を見た。

 よく見えないが、どんでもなく巨大な魔方陣が描かれていて、その中心に肌が粟立つほどの魔力が集中しているのを感じる。


 それだけで咽が干上がるような戦慄を覚えるほどだ。

 周囲は、砂と岩ばかりの荒野で、人族と魔族以外、生き物の気配はない。

 まるで沈没する船から鼠が逃げだすように、争いの気配を感じとった他の生き物は逃げだしてしまったのかもしれない。


 ここで、人と魔の全面対決が始まるのだ。

 緊張感がぴん──と張り詰めていて、嫌な汗が背筋をぬらしている。勇人は手がつい腰へとのびてしまう。完全体となった聖剣は触れるだけで信じられないほどの力を宿していることがわかる。それはあまりに強力すぎるため竹刀袋のようなものに入れて、腰に括りつけている。安易に触れてしまうと、それだけで力が溢れてしまうのだ。


 足もとでは、相変わらず不敵な笑みをうかべている九煉がいる。きっとこいつの心臓には毛が生えているに違いない。

 同じように、緊張とは無縁そうなユーフェミアが無表情で控えている。


 そして、勇人はちらりと隣を見やった。


 そこには『巫女』であるクリスがいた。


 ここまでの道中、まだ一言も彼女とは話していない。

 考えてみれば、彼女と言葉をかわしたのは『巫女』のことについて、散々駄々をこねたときが最後だったのだ。

 バツが悪くて、まともにクリスの顔を見ることもできない。

 ちらちらと様子を窺がうように、見るのが精一杯だった。

 そんななか、ふと彼女と眼があってしまった。


「……なんだ?」


「あ、い、いや、その……なっ」


 勇人は慌てた。頭の中が一瞬で真っ白になってしまった。

 言いたいことも、話したいことも、たくさんあったはずなのに。すべて吹き飛んでしまった。


 そんな勇人のがおかしかったのか、クリスは首をかしげて鈴をころがすような声でわらった。


「なにを慌てふためいているのだ、おまえは?」


 光の結晶のような長い銀の髪が風にそよぎ、まるで輝いているようだった。

 それに数瞬だけ見惚れる。


「ユウト?」


 彼女の声に、はっと我に返る。

 気がつくと、足もとで、九煉が嫌な笑みを浮かべ、ユーフェミアが北の氷塊よりもなお冷たい視線でこちらを見据えていた。


「あー、……」


 勇人は空を見上げることでそれらから眼をそらし、吐息をつくと再びクリスと向かいあった。

 そのときには、ばつが悪いとか、緊張とかいうものは、身体から抜けていた。


「昨日、アイオロスさんとはよく話せたのか?」


 その言葉を聞くとクリスはかるく眼を見張ったあと、やわらかく微笑した。


「ああ、久しぶりの家族団欒だった。二人でお母さまの話をたくさんしたよ」


 それは、喜色のなかにわずかな憂いが含まれた笑みだった。


「だが、わたしは、親不孝者だな……。母のことで、父は胸を痛めているのに、娘まで先立ってしまうのだからな」


 その瞳は悲しげに細められていたが、その奥には峻烈なほどの覚悟が宿っていた。


「それでもわたしは……、『巫女』であることをやめることはできない」


 その声には、使命に殉ずる、高潔なまでの誇りにあふれていた。


「わたしは、世界を、そこに住む民を、愛するお父さまを、護りたいんだ」


 見据えるは、魔方陣の中心、魔神の封印場があった。


 勇人も同じように眼をやり、クリスに問いかけた。

 聞かずにはいられなかったのだ。


「なあ、クリス。おまえは『巫女』でなかったら、なにになりたい?」


 それに答えた彼女の声は、どこか渇いて聞こえた。


「……意味のない問いだな」


「わるい。不快にさせたか?」


「いや。だが、考えたこともなかったな、そんなこと。わたしは生まれたときからヴァランティー家であり、『巫女』だったからな」


 勇人はそれを哀れなことだと思った。

 人は本来、自由であるべきなのに。彼女は世界のすべてから縛られ、柵のなかで生きているようだった。

 ああ、そうだ。そんな彼女を救いたいと思ったから、勇人はいま、ここにいるのだ。


 すべてを捨ててでも、押し通すと、そう決めたのだ。

 たとえそれが、彼女の誇りを穢し、奪い取る行為であろうとも。

 それを心のうちに隠し、勇人は優しい笑みを浮かべた。


「じゃあ、今度生まれ変わったら考えてみろよ」


「そうだな。憶えていたらそうしてみよう」


 かるく冗談をかわしあう。


 不思議だった。

 二人して第一印象はろくなもんじゃなかったし、それからはずっと嫌いあっていたはずなのに、お互いのことを理解しあえば、ここまで歩み寄ることもできるのだ。

 もっと早くこうしていればよかった、など詮ないことを考えた。


 そして、合図がなった。


 すべての人族軍がそろったのだ。

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