第29話


 クリスがはっとして眼をさました。


 そして勇人が起きていることに気づくと慌てたように声をかけてきた。


「──だ、大丈夫なのか? 気持ち悪いとか、頭が痛いとかはないか?」


「いまのところは……大丈夫みたいだけど」


「そ、そうか……」


 彼女は安心したように息をついた。

 こんなしおらしいクリスははじめて見る──いやメガネがなくてよく見えないんだけど雰囲気が──ので勇人としてはなんだかおかしな気分だ。


 ぽつりと彼女が呟く。


「すまなかった」


 勇人は一瞬なにを言われたかわからなかった。

 こいつが謝ったと理解したとき、明日は雨が降るなと確信した。

 勇人が黙っているから不安に思ったのか、それとも沈黙に耐えかねたのか。


「わたしは、異世界に連れてこられて、勇者になるということがどういうことなのか、まったく理解していなかった」


 視界がぼやけているため、彼女がどんな表情をしているのかわからない。それでもその声色は沈痛だった。


「……なあ、クリス。おまえなにを言ってるんだ?」


 もしかして熱でもあるのかもしれない。それとも酔っ払っているのか?

 どちらにしても、いつもの彼女からは想像もつかないしおらしさだ。


 クリスは顔をあげた。距離が近い。ここまで近いとメガネがなくてもその端整な顔がはっきりと見える。深い蒼色の瞳はこちらを吸い込んでしまいそうなほど澄んでいる。


「人が……あんなふうに泣き崩れるのを見たのは、二度目だった」


 その言葉を聞いた瞬間、勇人は顔を覆って突っ伏した。すごい勢いで顔が熱をもっていく。


 そういえばクリスはあの場にいて、自分の狂乱ぶりを目撃しているのだ。ぶちギレたあげくに九煉にすがって泣いているところを。そう思うと、いますぐ自分を絞め殺したくなる。


「一度目は、わたしの母が死んだときだった」


 ぽつりと零れ落ちるような言葉を、勇人は頭越しに聞いていた。


「幼かったわたしは死がどういうものか、わかっていなかった。ただ大好きなお母さまにもう二度と会えないということが悲しくて。それを語るお父さまがただただ悲しくて。お母さまにすがりついて泣くお父さまの姿が小さくみえて、このまま……お父さままで消えてしまうのではないかと、ひたすら怖かった」


 勇人はちらりと視線をあげた。クリスと眼があう。


「おまえは、そんな父の姿とそっくりだった。悲しく厳しい現実に押し潰されてしまいそうで……」


「もういい! もうわかった。ボクが悪かったからやめてくれっ!」


 勇人はもう耐えられそうもなかった。それなのにクリスはやめてくれない。


「いきなり独りで異世界に放り出されて、勇者をやらされるんだ。その重責はかなりのものだっただろう。それなのにわたしはおまえに勇者であることを強いた。それがおまえにとって、どんなに辛いこと知ろうともせずに」


「いや、マジでやめて……っ! それ以上聞いたらボクは死ぬかも……」


「わたしだって、いきなり異世界連れて行かれて、そこで勇者をやれなどと言われたらいきどおるだろう。ふざけるな、わたしは『巫女』の役割を果たさなければならないのだ。すぐにもとの世界に戻せ──と」


「…………っ!」


 すでに勇人は言葉もなく、再び突っ伏して、あまりの恥ずかしさに悶絶していた。


「それなのに……無理やりやらされている勇者なのに、おまえはよくやっていた。たとえそれが、もとの世界に帰るためだとしても。それなのに勇者の誇りをもてないという理由でおまえに憤るのは、わたしの我が儘だ」


 クリスの両手が、勇人の頬にそえられ、上をむかせられる。だから距離が近いって。


「わたしを、──許してくれるか?」


 蒼い瞳に心を貫かれた気がした。


「……べつに、気にしてない」


 その視線に耐えられなくなって顔をそむけるが、すぐに戻される。


「──許して、くれないのか……?」


 端整な顔が哀しみに歪む。く……っ、これは卑怯だろうと、勇人は内心悶えた。普段とのギャップがありすぎて、可愛いと思ってしまった。


「ゆ、許すよ。だから、手をどけてくれ……っ」


 これ以上を眼をあわせていると、どうにかなってしまいそうだ。さっきから胸が高鳴りっぱなしになっている。


「そうか」


 その笑顔は反則だ。

 勇人はすぐに顔をそらし、三度、突っ伏した。本当に顔がすごい熱をもっている。


「どうした? さっきから顔が赤いが、施療師をつれてくるか?」


「いや、たいしたことないんだ」


「そうか? 本当に体調がわるいとかないか? おまえは本当に危険な状態だったんだぞ。一時は心臓も止まっていたのだからな」


「……は?」


 顔をあげてクリスをみて、九煉に視線を移した。彼は頷いているように見えた。どうやらたいへんな危篤状態だったらしい。


「魔力が完全に枯渇していたのに、命を燃やして魔力の代わりにするなんて、無茶がすぎる。クレンのおかげですぐにここに帰ってくることができたが、クレン自身も魔力欠乏で倒れてしまうし、何人もの施療師たちが魔力をおまえ達に補給したのだからな」


 そう言って、勇人の髪に触れてくる。


「常に十人体制で施療師が魔力を注いだのに、髪の色が戻るまで三日もかかった」


 いままで気づかなかったが、すごくいい匂いがする。ハーブなどの香草の匂いだろうか。


「おまえはもとの世界に帰るのだろう? もうこんな無茶はするな」


「わ、わかってるよ。それより状況はどうなったんだ?」


 あまりの気恥ずかしさに、勇人は彼女の手を払って話題を変えた。


「すでに聖剣の砕けた欠片も折れた剣身も、ガルム氏に届けられている。いまも突貫作業中だろう。あと数日中には完成する予定だ」


「へえ、早いな」


「早くない。おまえは一週間も寝っぱなしだったんだぞ」


「うわァ、そんなに寝てたのかボク」


 髪の色を戻すのに三日もかかったと言っていたから、それなりに時間がすぎているだろうとは思っていたけど。よく一週間も飲まず食わずで生きていられたな、こっちには点滴とかの技術もないだろうし。そう思った瞬間、腹の虫がなった。

 思わず腹をおさえる。女の子に聞かれるのは、微妙に恥ずかしい。


「そんなに空腹なのか? そうだな一週間も飲まず食わずだったのだからな、すぐに用意させよう」


 クリスが席を立とうとする。それに勇人は声をかけた。


「クリス! あ、あのさ、看病してくれて、その……ありがとう」


 彼女は笑ったようだった。


「わたしは立ち会えないだろうが、おまえは絶対もとの世界に帰してやる。だからもう少しがんばれ」


 クリスが部屋から出て行く。勇人は知らずと緊張していた身体の力をぬいた。


 彼女が言った『立ち会えない』という言葉に含まれる意味など考えもせずに。


 ただその意味を知っていた九煉は悲しげにしっぽを振るだけだった。

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