第13話


 それは、勇人がなれない筋肉を酷使してテントの影でへばってるときのできごとだった。


 優雅にも──憎らしくもと勇人は言いたい──散策から帰ってきた銀髪の令嬢クリスが木陰で涼む九煉を発見したのだ。

 彼女はそれをみて周囲を見渡した。

 なぜか人眼を気にしているようであった。幸いというか悪いというか、テントの影にいる勇人に彼女は気がつかなかった。そしてユーフェミアは狩りの真っ最中で森の中であった。


 クリスはそれらを確認して、ゆっくりと九煉に近づいた。

 そして──


「にゃあ~、クレンちゃん、にゃあ~」


 普段から信じられないほど甘えた声をだした。しかも、にゃあって言った。にゃあって!


 勇人は思わず耳を疑った。ついでに正気も。


 だが彼女はそれに気づかず、九煉のそばにしゃがみこみ、ちっちっち、指を動かしている。

 なにかを期待するように蒼い瞳がキラキラと輝いている。


 それを見た九煉はしばし苦悩するように尻尾を揺らしていたが、やがて諦めたようなその誘いにのった。

 前足でその指と戯れる姿はまさにネコだった。


「ん~~、可愛い可愛い可愛いぃにゃあ~っ! どうしておまえはこんなにも可愛いのにゃあ? あぁ、こんなにも可愛いおまえがあんな変人のものなどとは信じられないにゃあ! どうにかして、わたしのものにしたいぐらいだにゃあ。ああもう本当に食べちゃいたいくらいに可愛いにゃあん。大好きだにゃあ! おまえより可愛いものなんて世界にないのだからもう離さないにゃあああああああん!」


 クリスがとろけそうな声をあげながら、九煉を胸に抱く。

 普段の彼女を考えると、眼を疑うような光景だった。


 もしかしてメガネの度があっておらず、異次元の光景でも除き見ているのかもしれないと、現実逃避している脳みその横隅で、そういえばアイオロスがネコ好きといっていたことを思い出す。だからといって眼の前のこれを受けいれらるものでもないし、普段の彼女を知っている人にはとても見せられるものではない。


 ニタニタと笑いながらネコに話しかける人間とは、こんな風に見えるのか、ということはなにか? 自分もあのときは彼女にはこのように見えていたということか? なんだか二重の意味でショックだ。


 クリスは繊細な手つきで九煉を撫でまわし、毛並みにほお擦りまでする。


「おまえはほんとに可愛いにゃ~、ん~~柔らかい柔らかい柔らかいほんとうに柔らかあいにゃぁ~~っ」


 九煉を抱いたまま彼女はごろんと横になった。


 その瞬間だった。


 眼があったのだ。

 テントの影でへばっている勇人と、ネコにめろめろになって顔を造作をくずしているクリスとの眼がバッチリと。


 勇人は無言だった。動いた瞬間に心臓麻痺でも起こして死ぬんじゃないかと、理不尽な恐怖におそわれていた。


 だが、この状況のままでいるのもマズイとわかっていた。どうにかして事態を解決せねばならない、そうわかっているのに、どうしても打開策が見つからない。


 やがて、沈黙にもあきたのか、九煉が、にぃあ、とひと鳴きしてクリスの腕から抜け出た。そしてこちらにむかって歩いてくる。そのことにやっと不条理な緊張から解放され、身体が動いてくれた。視線が九煉を追って足下にくる。


 彼の第一声はとても疲れていた。


「親友。驚いたかもしれないが、彼女はユーフェミア嬢がいないテントの中ではいつもこんな感じなのだ……」


 勇人は恐れから首を横に振った。

 断じて信じるわけにはいかない。それを認めてしまったら、自分は気が狂ってしまうかもしれない。


「言いたいことはわかるが、なにも言うな親友。俺だって辛いのだ。相手をしないとこの世の終わりを見るかのように眼に涙をためるのだ。『どうして相手をしてくれないのだ、わたしのことが嫌いなのか……』と消え入りそうな声でつぶやくのだ……それを想像してみてくれ、決して耐えられるものではないぞ……」


 新たに驚愕の事実をつきつけられた勇人の肩が激しく震える。


 あり得ない。

 あの、あまりにも高貴で女神のように美しいが、なによりも不遜で破滅的なまで傲慢な性格をしている彼女が、眼に涙をためて、その、なんだ……、『どうして相手をしてくれないのだ、わたしのことが嫌いなのか……』と消え入りそうな声でつぶやく──だなんて。いやダメだ。考えるだけで脳が拒否反応を起こす。


 だが、九煉のその声には哀愁が漂っていた。とても信じがたいことだが事実なのだ。どんなに辛い現実でも受けいれなければ成らないことがあるのだ。勇人は自分にそう言い聞かせた。


 ──そう、彼女は無類のネコ好きだと!


 勇人は恐々とクリスのほうに眼をむける。

 彼女は顔をこれ以上ないほど紅潮させていた。

 勇人の視線に硬直状態が解けたのか、いきなりこちらに走りよって襟首を掴まれてがくがくと揺さぶられた。


「わ、わわわわ忘れろ! い、い、い、今ここで見たことも聞いたこともぜんぶだ!」


 かるく涙眼であった。


「い、いや忘れろって言ったって……」


 がくがくと揺さぶれた脳で返すことができたのはこんな言葉だけだった。


 今になって思えば、これはあきらかに間違った選択であった。

 いくら脳が拒否反応を起こし、スト状態であったとしても、即座に忘れます、と返すべきだったのだ。


「…………ッ! そうか──わかったぞ。この事実をもとにわたしを嬲るつもりなのか! そうなのだな、いやそうに決まっている!」 


「へ……?」


「それを考えれば、記憶を消すなんて生温いな──」


 そう言って彼女は指輪抜きさり、鍵言語を唱えた。

 優美な月を思わせる刀身が、物騒に光を反射する。


「あ、あの……クリス、さん?」


「こういうのは──もとから消し去らないと、なあ……ッ」


 彼女は壊れた──それでいてなお綺麗な笑みをうかべていた。


 勇人は悪寒に襲われた。

 思わず自分の身体をきつく抱きしめる。それでも震えも背筋へ這い蠢く怖気を止めることが出来なくて、勇人は後退る。


 クリスが剣を振りかぶって、天上の賛美歌もかくやという美しさで謳った。


「我が属性は〈聖〉、我が性質は〈封印〉、我が〈クリスティアーネ・ヴァランティー〉の名において──この痴れ者の存在を〈封滅〉せよ!」


「……嘘だろう……」


 嘘でも、冗談ではなかった。


 彼女は、ただの人間など百回消滅させてなお、有り余る力が込められた剣を、一寸の躊躇もなく振り下ろしたのだ。


 純白の奔流が圧倒的な破壊力をともなって勇人に炸裂した。

 地上に太陽が落ちたかのような熱量と眩しさに身を焼かれ、ゴミクズのように吹き飛ばされた。


 ひとえに自分が生き残れたのは僥倖に僥倖を重ねた、それこそ奇跡といえるできごとだったのだろう。

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