第9話


 魔族との国境ぞいにある最も大きい街『防衛都市ルターク』の領主アイオロスは、意外と若い三十代半ばの優男だった。


「いや、すまないね。この間は、不幸な行き違いがあったようで」


 大貴族のわりに気さくなもの言いだった。あれを不幸な行き違いですまして欲しくはなかったが。


 勇人は腰が埋もれてしまうほど柔らかいソファーに腰掛けながら、頬を引き攣らせた。


「……いえ、おかげで貴重な経験をさせてもらいました」


 もちろん皮肉──ユーフェミアがいないからこそ言えたこと──だったのだが、そのことにピクリとも反応せずに、アイオロスは柔和な笑みを浮かべた。


「そう言ってもらえると助かるよ」


 見事な肩透かしをくらった。そのかわりに強烈な視線を返してきたのが、領主の隣に腰かけている娘──クリスだった。憤慨した顔を隠そうともせずに勇人のことを睨みつけてくる。


 いくら貴族──それも父親に皮肉を言ったからといって、助けた相手をそういう眼で見ることはないのではと思う。

 勇人はメガネをなおすふりをしながら、九煉に囁いた。


「なんか彼女の視線が厳しいんだけど、なんでだと思う?」


「それは親友が彼女の肌を見たからだろう。貴族の婦女子というのは夫となるものにしか見せないものだからな」


「不可抗力だよ」


「それでも許せないものは許せないのだろう」


「命がけで助けたのになぁ」


「大丈夫だ。ヒーローとヒロインがくっつくのは物語の鉄則だ。彼女は憎からず親友のことを想ってくれるようになるはずだ」


「そ、そうかな?」


 神城勇人、十五歳。いままで女性に縁があったことがありません。恥ずかしながら女性経験ゼロなのです。


「そうだとも」


 そして九煉絆、十五歳。破滅的な性格ながらも、抜群のルックスと高身長さらに頭脳明晰さによって数多くの女性とお付き合いしてきた猛者がそう言うのだ。間違いないだろう。


「そ、そうか……」


 勇人は照れた。

 そこに──


「なにを気持ち悪い顔をしてるのだ。この変態め」


 ピシリ──とヒビがはいるように勇人の顔が強張った。


「人のこと気色悪い視線でなめまわしたかと思うと、鼻の下なぞ伸ばしおって、無礼者が──身の程を知るがいい」


 膝まで届くほどの長い銀髪と、どこまでも澄んだ蒼い瞳をもつ少女は、あまりにも高貴で女神のように美しかった。

 そしてなにより──不遜で破滅的なまで傲慢な性格をしていた。


「それになんだ。ネコにむかってニタニタと気味の悪い顔で話しかけおって……おまえの頭はおかしいのではないか? いや、疑問に思うまでもないな。──おまえの頭はおかしいぞ」


 ……無理。


 彼女と恋仲になるなんて、絶対に無理。


 先日の戦いでは気にする余裕がなかったが、なんだあの男のような話しかたは。

 綺麗な見ためとのギャップがありすぎて眩暈がする。こんなに綺麗なくせに、詐欺みたいだ。しかも性格まで悪そうだ。たとえ無人島に二人っきりにされても、関係が改善されることはないだろう。むしろ殺し合いになる可能性のほうがなんぼか高いかもしれない。いや、一方的に殺されるかもしれない。


 勇人は結婚詐欺にあった被害者のような心境だった。少しでも彼女のことを可愛いと思ってしまった自分の愚かさを恨めしく思いながら反論した。


「……ニタニタなんてしてないよ。ただ、ヒーローとヒロインの関係性について論議をしていただけさ。こいつの言ったことは希望的観測にすぎなかったけどね!」


 そう皮肉ると、クリスは思いっきり顔を顰めたみせた。


「それを言ったのか? ネコが? 希望的観測を?」


「ああ、そうだよ」


「……おまえは、本気で頭がどうかしているのだな。ネコは喋らないものだ」


「はあ? おまえなに言ってんの? さっきからずっと喋ってるじゃんかよ、コイツ」


 勇人はあごで隣りでお座りをしている黒ネコをさした。


 現在かわいい黒ネコである九煉はつぶらな瞳をこちらにむけてきた。


「親友。言い忘れていたことがあるのだが……」


「その話は後だ──なあ、この通りちゃんと喋っただろう」


 九煉との話を打ち切って勇人がそう言うと、彼女は敵意のある雰囲気を霧散させ、憐憫の混じったため息をついた。


「おまえは、頭がおかしいというより……、本格的に可哀相な人間だったのだな」


「なんでだよ!」


 勇人は吼えて、眼の前のテーブルに手のひらを叩きつけた。


「ちゃんと聞こえてただろうがっ、コイツが喋ったの!」


「聞こえるわけないだろう。ただ、にゃあにゃあと鳴いてただけではないか!」


「どこがだよ! おい九煉このわからず屋にむかってなんか言ってやれよ!」


「あのな親友──」


「ほら! 今度こそ聞こえただろうっ?」


 なぜかこちらに向かって話しかけてきた九煉の言葉を断ち切って、勇人は勝ち誇ったように言った。


「…………」


 それに対して、クリスは無言。蒼い眼を細くしてこちらをただ見据えているだけだ。


 勇人はそれを敗者の態度と解釈し、気をよくした。


 そこに、九煉が言いにくそうにして、こちらを向いた。


「親友、さっきも言ったが……少し話があるのだが。できれば今すぐ聞いてもらいたい」


 その声の調子に感じるものがあり、九煉ときちんと向きあった。


「なんだよ悪友?」


 彼は行儀よくお座りをし、こちらを見あげてヒゲを振るわせた。


「期待にそえなくて悪いのだが、親友……」


 その言葉に嫌な予感がした。


 ありえないと思いつつ、その不安は急速に勇人の胸のなかに広がっていった。


「な、なあ、まさかだよな。まさかボクにしかおまえの声が聞こえないってことはない、よな……?」


 九煉は答えず、そっぽを向いて、にゃあ、と空々しく鳴いた。


「おい!」


 勇人は九煉の首輪代わりにしている白い布を、襟首をつかむようにして持ちあげ、激しくシェイクした。


「じょ、冗談だよな! ボクにしか聞こえないなんてそんなことないだろ! なあっ。ないって言えよこの野朗!」


「そんなことない──」


「そ、そうだよな……」


「──わけがない」


「ふざけんなボケ!」


 勇人は九煉の身体を床に叩きつけた。


 だが彼はネコの反射神経と柔軟な身体をつかって宙返りし、見事に着陸した。そして胸を張るようにしてこう言い放つ。


「あのな親友。これは念話の一種なのだ。だいたい猫の声帯で人の言葉が喋れるはずあるまい」


「うわ──! じゃあいままでボクってばネコに話しかけるイタい人に見えてたっとことかよ!」


「残念ながら、現在進行形で見えていると思うぞ」


 するとなにか、さっき彼女がなにも言わなかったのは、あきれ果てて言葉もない、ということだったのか?


 恐る恐るクリスのほうを確認すると、彼女の冷たい視線とぶつかって思わず怯んだ。


「い、いや、これは……ち、違うんだ!」


「いや、大丈夫だ。おまえがどのような人間か理解した」


「ご、誤解だってっ!」


「いや、いいのだ。おまえはただ魔王に向かって聖剣を振るってくれればそれで。ああ、少しくらい頭がおかしくても気にしない……ように努力する」


「だから違うんだよ! コイツは本当に人と意思疎通ができるんだ。なあ悪友、こいつにも、その念話というのをやってくれよ。このままじゃあボクの人としての尊厳が、人としての尊厳がっ!」


「それなのだが親友。人の意識はそれぞれ意識の波長というのが違ってな、彼女に合わせようと思うとそれなりのチューニングが必要になるので、時間がかかるのだが」


「どれくらい?」


「彼女は気難しい性質なので、五年から十年ぐらいだろうか」


「長えよっ!」


「そんなラジオのチャンネルを合わせるようには簡単にはいかぬものだぞ親友」


「ああ、こんな会話をしているうちにも彼女がボクを見る眼がさらに冷たくなっていく!」


「しかたがない。諦めよう」


「人としての尊厳を諦められるかぁ!」


「もういい。おまえは疲れているのだろう。少し休んだらどうだ?」


「だから違うんだって!」


 勇人は発狂しそうな勢いで叫んだ。


「おい、てめえ領主と話したんじゃねえのかよ! あれはなんなんだよっ!」


「あの領主は話のわかるお人でな。なんとか波長を合わせることができたぞ」


「ふざけんなぁっ!」


「ふむ。あいかわらず喧しいな我が親友は。そもそも私が領主に事情を説明しなければ、いつまでも牢屋の中だったのだぞ」


「だったらもっと早く出せよ!」


「波長を合わせるのに手間取ってな」


 そんな勇人と九煉は傍目には、畜生に話しかける変人と、にゃあにゃあ鳴いている黒ネコにすぎず、クリスは父であるアイオロスに許しを得て、とっくに彼等の前から姿を消していた。


 それに勇人が気づくのは、もう少し後のことだった。

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