第2話
眠りから覚めるように、意識が浮上した。
いつの間にか眼を閉じていたらしく、勇人はゆっくりと眼を開ける。
少しだけ歪んだ視界には、ごつごつとした赤褐色の岩場が映っていた。
肌寒さに背筋を震わせた。先ほどまであった春の陽気など、どこにもなかった。むしろ冬のような冷気で満たされているような気さえする。さらには、薄暗く、ツンとする刺激臭が鼻につく。これは硫黄の臭いだろうか。それらのことに頭が混乱し始める。
「……どこなんだ、ここ?」
勇人の口から思わず呟きがもれた。眼鏡の度があってないんじゃないかとまで考えてしまった。
「決まっているではないか。ようこそ異世界へ。さらば現世界の退屈な日々よ」
「あのなァ、そんな戯言なんかいいから、おまえは本当に病院に行けって──え?」
その声にため息をつきながらふり向くと、そこには誰もいなかった。
「どこを見ているんだ親友? 俺は下だぞ」
「は? 下って……」
首をめぐらすと、そこには──黒に毛並みのネコが、ちょこんとお座りをしてこちらを見あげていた。首輪の代わりなのか、バンダナのような白い布が巻かれていた。
そのことに我知らず頬が引き攣り、額に嫌な汗が浮かんだ。
「えーっと──」
勇人は自分の中の常識と戦いながら、つまりそんなわけないよなと思いつつ、ネコに向かって口をひらいた。
「ありえないとは思うんだが…………もしかしておまえ、ボクの悪友だったり、する?」
それに対して黒ネコは、にゃあ、と鳴いた。
「そ、そうだよな。そんなことあるわけないよな。ああ、ボクは畜生相手になにをやってんだか」
思わず胸をなでおろし、自嘲するようにわらった。
だが──
「──ふっ、なにを訊くかと思えば、俺は『おまえの終生の友』に決まっているじゃないか」
黒ネコは尊大にもそう言い放った。ただのお座りが胸を張っているようにさえ見える。
「…………」
勇人は数瞬だけ、額に手をやり、頭痛をこらえるように黙考した。だが、思考は渦を巻くだけで、明確な答えなど出してはくれなかった。
そのことにため息をつき、なかば混乱しながらも、黒ネコに話しかけた。
「……信じられねえ。おまえなにやってんの? ここはどこだよ? これって高度な催眠術かなにかか?」
黒ネコ──暫定的に九煉とする──と、どこぞの古代遺跡だという雰囲気の岩場を見やる。
「はっはっはっは。先ほどから異世界だといっているじゃないか親友。さあ勇者として魔王を倒しに行こうじゃないか!」
「待ってコラぁ!」
とっとと歩きだそうとする黒ネコをローファーの靴底で踏み潰した。ぶぎゃっ、という苦鳴が足裏から聞こえるが無視。少し落ち着くために勇人はネクタイを緩めてからワイシャツの第一ボタンをあけ、水なしで飲める胃薬──日々ストレス漬けのため常備──を用法用量正しくまもり飲みこむ。さらに深呼吸をしてから九煉に問い詰める。
「おまえと意思疎通ができるなんざ、端から思ってないが、この説明だけはしろ! なにがどうなって、ここがどこで、なんでおまえはネコになってんだよっ!」
「ふっ、最初から言っているではないか、おまえは異世界を救うために選ばれた勇者で、魔王を倒すために現世界からこの多存在世界のひとつ──アルティラに来たのだ。そして私がネコになった理由はただひとつ、勇者には可愛い『お助けマスコット』が必要と相場が決まっているからだ! そんなこともわからないとは、我が親友は本当に愉快だな」
「おまえだけには断じてっ──愉快だなんて言われたくねえんだよ!」
反射的に叫び返してから勇人は、九煉の言葉を理解した。
ちなみに九煉は、勇人が叫んだときに思わず踏みつけている足に力がはいってしまい、にぎゃうっ、という悲鳴あげていたが知ったことではない。
「ということはアレか? ボクはどこぞのネット小説の主人公のように異世界に召喚されて、世界を救うことを強要されるているってことか、なあっ?」
「要約すると、そういうことだ。さすが我が親友、理解がはやくて助かるぞ」
勇人はあまりのことに眼の前が、ぐらぐらと揺れた。激しく頭が痛かった。ふらついて、足から力が抜けてしまった。その隙に、九煉が嬉々として足裏から逃れていったが、いや、この際そんなことは関係ない。考えているうちに頭に血がのぼってきった。
「あのなあっ。よく考えろよ、おまえ! 平和ボケした国──日本にいた無力な少年Aが、魔王がデフォルトで存在している世界に召喚されて、活躍なんてできるわけねえだろ! どうやってもそこらの雑魚モンスターに殺されるのがオチだよ! みんな勘違いしているけどな、人間なんて素手で戦ったら、犬にも勝てないほど弱っちい生き物なんだぞ!」
「ふっ、大丈夫だ。おまえならできる!」
「できるかあああああああああああああああああああああああ────っっ!」
もう叫びすぎて咽が痛いし、頭も痛い。なによりコイツ存在が一番イタい。
これまでも色々と事件を起こしてくれたが、世界どころか異世界をまたにかけるのはさすがに初めてだ。そのまえに縁を切っておくべきだったと激しく思う。いまさら後悔したところで遅いが。
「さて、納得したところで行こうか」
「してねえよ!」
九煉の言葉に、思わずツッコムが、彼はこちらの言葉なんて聞こえていないかのように歩き始めていた。こんなところに置き去りにされても困るので、勇人は嫌々ながらついていった。
歩いた距離はわずかだった。この岩場は山頂のような高所で、火口のように大穴が、ぽっかりとあいていた。かなりの高さがある、落ちたら一巻の終わりだろう。
「見てみろ」
九煉が顎をしゃくって見せた。ネコの分際で、人間様を顎で使おうとはイイ度胸をしている。そう思いつつ勇人は火口部を覗き込んだ。
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