第5話支配者モブツとザイール誕生、その凋落・下

モブツ・セセ・セコが、第一次コンゴ動乱の覇者となり、コンゴには形の上とは言え、静謐せいひつが戻った。

独裁者モブツにめるところ等は無いが、しかし独裁者が生まれた事は、一つの幸福であった。コンゴ北方のスーダンや、西のナイジェリアなどは、独裁者すら誕生しなかった為に、見ていて不愉快になる程に悲惨な歴史が、絶え間なく繰り返され続けたのだ。

まあ、所詮は、モブツのやる事なのだが。


モブツの治世にいて、植民地の歪みが是正される事は無く、ただ西側好みの見せかけのナショナリズムと、東側陣営に「侵されつつ」あるアフリカ大陸における自由主義陣営の参加が為されただけである。

モブツの玉座を必死に支えていたのがアメリカのCIAで、黒人のモブツの為に、白人たちが(多分黒人の諜報員も居ただろうが)駆けずり回って情報網を作り上げていく様は、見ていて哀れである。

コンゴ国民に求められた事とは、独裁者になって(1967年)から作った、革命人民運動(MPR)の党員であり続ける事で、呆れた事に、先祖も胎児も党員であるとされた。

つまり、コンゴに生まれる者は、国籍と党籍を必ず持つと言う事である。

言い換えると、コンゴ住人はただモブツを賛美するだけの役回りであり、国会議員は年に一か月足らずの会議でモブツの出した議題を承認するだけの仕事で、モブツの使命は国連総会の場でアメリカ寄りの言動をするだけであった。

安っぽい、破落戸ごろつき政治である。

出来損ないのファシズムとも言える。

(1965年に作っていたのは、人民革命運動、こちらも通称はMPRでややこしいが、大した違い等は無い)


モブツはアクの強い独裁者であったので、異名が数多く存在した。

少し解説しよう。

『何にでも飛び乗る雄鶏おんどり

これはもう、説明する必要も無いだろう。

例えば、ある時モブツはコンゴ人種主義を掲げた事が有った。しかしモブツはバコンゴ人では無いし、第一バコンゴ人は政敵のカサヴブ元大統領の支持基盤である。では何でこんな事を言い出したかと言うと、コンゴ河の河口域に陣取る、アンゴラの飛び地・カビンダ州が欲しかったのである。しかしバコンゴ人はナショナリズムが薄く、氏族同士の仲が険悪で、カサヴブがコンゴの天下を獲れなかった原因にもなった。結局、アッサリとモブツはこの発言を忘れた。

また、1984年のロサンゼルスオリンピックに参加したのは、西側諸国の一員として参加すると云う流れに乗っただけである。(参加を拒んだアンゴラへの当て付けの意味も有った)

波に乗って出場すると言っただけなので、オリンピックの舞台で、「マラソン競技、ザイール代表、Masini Situ--Kunbanga」とアナウンスされるだけで、勝手に満足した。

陸上競技以外では、ボクシング競技の出場者がやたらと多いが、モハメド・アリの効果かも知れない。

『至高の案内人』

『終末の動乱に輝くトーチ』

この辺は、悲惨な第一次コンゴ動乱を終結させた英雄としての、異名である。

コンゴ国営テレビの番組では、天上の雲間から表れるモブツが視聴者の前に出てきてからニュースが放送されていた。

輝くトーチ、これはザイールの国旗にも採用されている。

『一人の指導者、一つの民族、一つの党』

一つの民族、と云うのは、恐らく翻訳の齟齬そごであろう。コンゴの多民族ぶりは有名である。

この辺、日本語は訳しづらい領域なのでしょうが無いが、あるいは“コンゴ民族”の創造を図っていたかもしれない。

『豹の毛皮を被って歩く、生きた銀行口座』

国境なき医師団の設立者となるフランス人医師が言っていたらしいが、適格過ぎて笑えない。

『共産主義の防波堤』『ピストルの形をしたアフリカ大陸の引鉄』

これは、自分の独裁制と国家のセールス文句として作ったものであろう。解りやすい。

『ザイールの対外債務はそのままモブツの個人資産』

実際は違う。ザイールの対外債務が増えたのは、モブツの失政に依るところが大きい。

モブツの個人資産は、ザイールの対外債務の内の半分程度である。

50億ドルはため込んだと言われる。

『アフリカ独裁者の典型』

TIME誌で言われた言葉だが、まあその通りである。

ただこう言ってはなんだが、独裁者が出ただけマシとも言える。

コンゴ北方のモーリタニア、チャドの内戦は独裁者すら出なかかったので、もうグダグダである。当然、その混乱は死者を出している。

『モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンダ・ワ・ザ・バンガ』

これはモブツの母語ンバンディ語で、

通った後には火を残し、何者にも止める事の出来ぬままに征服と征服を重ねる全能の戦士、

と謂う意味である。

中二病が過ぎる。

尚、訳し方によっては、「全部のひよこの面倒を見るニワトリ」とも言えるらしい。

まあ、モブツは見れて無いのだが。

 

雑言も多い。

『自分のリーダーを批判する事は、自分の昇進の鎖を断ち切る事だ』

革命人民運動(MPR)の標語の一つであるが、ここまで明け透けだと、もうなんとも言えない。

『国民が今あるのは全て私のお陰であり、私は国民に何の恩義も無い。』

これ程傲慢な言葉といったら無いだろう。

『人に尽くすのだ、自分に尽くすのでは無く』

こんな言葉も、モブツの口が出れば、その時点でもう腐っているのは、言うまでも無い。

『ザイール元大統領が居らせる、とは言ってはならない。死んだ後も、ザイール大統領モブツ、ここに眠ると言わなければならない』

しかし、モブツの墓には、只イニシャルで「MSS」モブツ・セセ・セコとだけ書いてある。

モロッコに吹きすさぶ風だけが、それを見つめている。


名前だけは妙に知られていたモブツは、何かとネタにされやすく、週刊少年チャンピオン

で掲載されていたタカラとのタイアップ企画、『変身サイボーグ情報局』に於いては主人公がアフリカに出向いた時の現地の協力者として勇敢なるモブツ青年なる登場人物が出た程である。


さて、先だって1966年にユニオン・ミニエールが国有化されたと書いた。

この企業はその後ジェカミン(GÈCAMINES)と改名して生きて行くのだが、この政策はコンゴの土地政策と密接に結びついている。

コンゴがベルギー王領となった1885年、全ての「無主地」は全て国家に帰属するとされた。

しかし無主地かどうかを判断するのは、ベルギー王であり、そしてベルギー王の目的は適した土地を企業に与えて、油やしや天然ゴムの栽培を促進させる事であった。

アフリカ人に占有権は認められたので、住む事自体は出来たが、所有する事が出来ない以上、何時まで住んでいられるかは、ベルギー当局の胸先三寸である。

おまけに、労役として企業で働く事を義務付けられていて、断ると片腕を切り落とされてるので悲惨あった。


1908年に、コンゴは王の私領から移行して、正式にベルギー政府の植民地となる。

アフリカ人の扱いは、幾分か改善されたが、現地で発揮される行政能力が弱いので、特権企業はかなり好き放題していたらしい。

しかもアフリカ人を安価な労働力と見ていた事は、ベルギー当局も特権企業も同じで、綿花等の市場向けの商品作物の栽培が強制された。

流石に腕を切り落とす事は無くなったが、植民地軍が振るう河馬皮の鞭(ファンボ)は健在であった。

また、アフリカ人の農業が粗放そほう的であるとして、その改善に乗り出している。

ペイサナ(paysannat)政策で農家の育成を

土壌保全政策で、土地の保護を

それぞれ図ったが、独立時に両方とも消滅した。

第一、アフリカ人には現地農法で十分なのである。そこにベルギーの都合で油やし・天然ゴム・綿花の栽培が強要されたので、こんな手を打ったのだ。

但し、人口稠密ちゅうみつな東部のキヴ州と、その東方ルワンダ・ブルンジ両国では、土壌保全技術が独立後も現地アフリカ人に残った。


1933年に、ベルギー当局はアフリカ原住民の統治の強化を図り、イギリス式の間接統治手法の導入を行った。

チーフダム(cheifferie)

セクター(secteur)

慣習外セクター(centre extra-countumier)

の三つの枠組みを作り、この中にアフリカ人を放り込む事にした。

上から順に、大規模で纏まりの強い集団が当てはまり、慣習外セクターには、雑多なはぐれ者が纏めて入れられていた。

この枠組みには、それぞれチーフが任命されており、そのチーフたちが、植民地政府とアフリカ原住民の仲立ちをする。

枠組みと管轄チーフには、それなりの自治権が認められたが、ベルギー当局の都合で、改編を度々食らった。

そこに来たのが、1960年の、コンゴ独立である。


独立した時、首相ルムンバと大統領カサヴブは、外国企業に与えられた特権の処理、慣習法の下でのアフリカ人の権利、土地登記システムの設立を考えていたが、即座に内戦に突入したので全て手つかずであった。

そこで1964年のルルアブール新憲法の制定と1965年のモブツ独裁政権の確立を受けて、1966年にモブツがユニオン・ミニエールを国有化するのである。

結局、モブツの治世下では、アフリカ人の権利も土地登記システムも打ち捨てられたまま放置された。

1971年には、憲法を改正して「ザイールの土地、地下、天然資源は国家に帰属する」と言う条文を差し込んだ。

そして1973年の土地法で、土地は国家の財産であり、排他的かつ譲渡不可の、無期限の性格を持つと定められたのである。

言うまでも無く、これはザイール全ての土地がモブツの私財となった事を意味するが、伝統的なバントゥー語族の価値観に則ったものでも有ったので、モブツ亡き後でも残った法律である。

この辺、また別の稿で述べるが、バントゥー語族は世にも珍しい放浪型の農耕民族なので、土地に拘る民族性を持っていないのである。

それ故に、土地を所有する事も、それを相続・譲渡する事も、バントゥー語族の価値観では現実的では無かった。

土地は聖なるもので、共有するものであり、区切るものでも無い。

只、モブツがこの法律で考えていたのは、外国企業がザイールで好き勝手振舞う事を許さない事であり、それは「ルムンバ的な」政策であった。

その為に、ザイール国籍(MPR党籍)の住人が土地をどうするのか、そんな問題はモブツの管理するところでは無く、住むことも相続も可能だった。

この辺、ちょっと良く解らないのだが、どうもザイールの地方行政に於いて、未だにベルギー領時代のチーフダムは有効だったらしい。

モブツは地方行政に無関心であったので(大した税収が望めないから)、密林の世界など、完全に無視していた。

或いは、この無関心さが、モブツの命脈であったかも知れない。

ジャングルの住人たちが、モブツに興味を持たないのならば、モブツの地位はかえって安泰なのだから。金は鉱物資源で賄える。


ジャングルの中に分け入れば、そこに有るのは、有史以来の、呑気のんきな村落であった。

モブツの顔が刻印されたリクータ硬貨もザイール紙幣も何の価値も無く、モブツの顔が描かれた切手の使い道も無い。

通貨と言えば干し魚の事で、物々交換が主流のにぎやかな社会である。

そんな社会も、ザイール崩壊とそれに続く第二次コンゴ動乱で、地獄の業火に焼かれていく。


さて、モブツの治世の、具体的な部分を見て行こう。

基本は暴力・粛清・汚職・宣伝である。


始まりからして、1966.6月1日に、元首相キンバの処刑である。

この年には、もう首都を含む主要都市の改名(アフリカ人化)を行っており、この流れで

1967年に通貨がコンゴ・フランから「ザイール」に変更された。

この年の9月4日、アフリカ統一機構(OAU)の外相会議が開かれ、ナイジェリア内戦を主題にして話し合いが行われたが、モブツにとって重要なのは、この会議がキンシャサ(元レオポルトヴィル)で開かれた事で、モブツ政権がアフリカ諸国からの信認を得た事であった。

一週間後の9月11日には、OAU総会議長に目出度めでたく就任した。

1971年、国名をコンゴ民主共和国からザイールへ改名する。

国旗も国章も革められ名実共に新生国家が誕生したのである。

しかし問題なのは、この文化革命の底の浅さである。

ザイールは、あくまで「Nzere」をポルトガル人が言い直した言葉なのだ。


モブツの言う「真正」(authenticitè)運動の開幕である。

一般的に、ザイール化政策と言われている。

モブツ自身は、「三つのZ」だと言っていた。

国名、河川名、貨幣の三つのZaireである。

この流れのまま、1974年頃から始まったのが、ア・バ・コスチューム『洋服を捨てよ!』運動である。(通称Abacost)

じゃあ洋服を捨ててどうするのかと言えば、モブツの推奨する「国民服」を着る事になる。

モブツの、知性の薄っぺらい事、この上無い運動である。

何しろ、この国民服と言うのが、詰襟つめえりの長袖服(一応半袖も在った)なのだ。

ネクタイを締めていないので、洋服では無いと言っているだけである。

赤道直下のジャングルの王国・ザイールで、そんな服など着てはいられないでは無いか。

結局、モブツもそう思っていたみたいで、暫くするともう着なくなった。

モブツが政権末期に着ていたのは、ヒョウ柄のトーク帽に、襟なしのシャツである。これに黒檀の杖を付いて会議に望んでいた。

尚、この帽子に関しては、モブツは常々「パリの毛皮商に作らせた本物だ」と自慢していた。いやザイールで作らせろよ、と思う人は先進国の住人である。

おまけに一人称はムッシュー(英語でMr.)では無く、シトワイヤン(直訳すると市民だが、意味合いとしては『同志』に近い)と言え、と政令も出したが、これはフランス革命の真似であろう。


暴力は汚職とセットで、国営企業ジェカミンや外国企業、各省庁から堂々と賄賂を受け取り、その金で直属の特別師団(15,000人)を養っていた。

この師団兵の合言葉は

「オーイエ!私たちは貴方を選びました。私たちは貴方だけを選びました!」

であり、彼らはそう言ってモブツから金を貰っていた。

危機感を無くしていったモブツは、特別師団以外の軍兵ぐんびょうに感心を無くして行き、残された50,000近い兵士たちは、給料の遅配に悩まされた。

兵士たちは、一般市民を銃で脅す事を覚え、役人も直ぐに真似をした。

市民側もそれ対応して、ここに賄賂(マタビシ)の王国が完成したのである。

合言葉は「第15条、自力で何とかする、って事さ!」


粛清に関しては、別段説明するような事は無い。

誰しもが思うやり方を、そのまま行われていた。

ただモブツは直接自分で手を下す方法は取らず、執務室の机の上に置かれたメモの名前を見て、好きにしろと返事をするだけである。

遺体はヘリコプターを夜間飛ばして、コンゴ河に捨てていた。


暴力に関しては、思いつく限りの事は、何でも行っている。

細やかな例を挙げると

1969年、首都のロヴァニウム大学で、学生に向かって軍が発砲して殺害

1971年、反抗的な態度に腹を立て、大学を閉鎖する。2000人の学生たちは、そのまま2年間の兵役に就かされた。

1978年、若手将校8人、民間人1万人を反乱の陰謀を計ったとして処刑。

1990年、ルブンバシ(旧カタンガ・エリザベートヴィル)の大学に軍が侵入し、発砲。

1992.2月16日、日曜日のこの日、ザイール各地で100万人規模のデモが発生した為、キンシャサで軍が発砲した。

モブツの独裁時代、アムネスティ・インターナショナルの人権被害の報告書では、ザイールは毎年掲載される常連であった。

しかしこんな軍隊は、結局弱いままであった。


宣伝の話もしよう。

独裁者にとっては、最も大事な技能の一つである。

これが決定的に二線級であった。

お為ごかしの選挙を行っては、得票率98%で当選したと言い、民主主義の演出をこなす。

時期を見ては、モブツの幼少期の伝説の流布に取り掛かっていた。

内容はこうである。

10歳の時、大叔父と密林を歩いていて、豹に出くわした。

恐怖する大人を差し置いて、モブツ少年は自ら槍を取り、見事に撃退した。

感心した大叔父は、少年はいづれ大物になると確信し、少年もそうなると誓った。

まあ、こんな話である。

モブツは豹が好きで、リーダーに必要な資質、即ち賢さ・力強さ・勇気を豹になぞらえていたのだ。国章にも豹を使っている。

しかし、まあ、こんな話は嘘であろう。

豹退治の話では無い。

そもそもモブツは、軍にも政治にも興味など無かったと云う話である。

忘れてはいけない、元々のモブツの進路はジャーナリストである。

それも軍を辞めてから就職した。

少年の日の誓いが本当ならば、そのまま軍に居た筈である。


しかし何と言っても、モブツの問題は、演出能力の低さであった。

これは、宣伝力とはちょっと違う。

言ってしまえば、土壇場におけるwitやに富んだ言葉。Ironyを弁えた振舞い。

当意即妙とういそくみょうの受け答えである。

この辺、日本の一流の独裁者、豊臣秀吉は素晴らしい。

戦術・戦略・内政・政略、その全てに於いて、有能で有りながらウィットとアイロニーに満ちていて、部下の統制にも、それを欠かさなかった。

モブツにそんなものは無い。

解りやすい事例が有る。

モブツの最初の妻は1977年に死んでいるのだが、その後長くモブツが殺したとささやかれた。

まあ、名前がマリー=アントワネットなので、そう思うのも無理は無い。

しかしモブツはこの噂を不快に思っていた。(おそらく本当に無実だったのだろう)

そこで、有る時の党大会に、妻の主治医ヴィクトル・イアンガを呼んだ。

恐縮する主治医を傍目に、モブツは粛々と議事を進め、唐突に演壇に上げた。

モブツは問うた

「わたしが妻を殺したのかね?」

「まさか、違います!」

これでお終いである。

目に浮かぶような三文芝居であろう。

こんな芝居に付き合わされる党員たちが気の毒になる。


大まかに言って、モブツが精力的に政治に取り組んでいたのは、1960/70年代の事である。

80年代に入ると、自分の政治に自分で絶望して、無用の長物となっていく。

しかし、暴力と利権を本位とした独裁制の為に、もう表舞台から降りる事も出来なくなった。この辺、独裁体制の最大の欠陥であろう。

健全な民主主義ならば、やる気の無い政治家はとっとと引退すれば良いのだ。


さて、そんなモブツは、コンゴ河の向こう側のブラザヴィル政権が、共産主義化して「コンゴ人民共和国」と1969年に改名してのを、しめたものだと思っていた。

実のところ、この二か国は随分と仲が良い。

同じ『コンゴ』で、同じアフリカの仲間じゃないか、と両岸の住人も政治家も素直に思っていた。

シンバの反乱以来、東側と距離を取って居たモブツだが、反乱が治まると、即座にブラザヴィルの左派政権と国交を回復している。

1972年には中華人民共和国と国交を結び、1974年には北朝鮮も訪問している。

中国は気前良く種々の援助をしてくれて、カサイ州カウェレ(kawele)に中華式宮殿を作ってくれたし、キンシャサに国立競技場も作ってくれた。軍事援助も手厚く施してくれた。

しかしソ連とは疎遠なままだった。理由は単純で、南のアンゴラで暴れ回っているキューバ兵を支援しているのがソ連で、モブツの後援する組織を叩き潰しているのがキューバ兵だからである。


1974年、モブツの元に一つの国際的一大興行が舞い込んで来た。

プロボクシングWBA・WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチをキンシャサでやらないかと、アメリカ合衆国随一のプロモーター、ドン・キングから話が舞い込んで来たのである。

話を仲介したのは、モブツ付きのアメリカ人顧問であった。

戦うのはジョージ・フォアマンとモハメド・アリ。

時代を代表する二人の王者が、世界最強の座を求めて、ザイールにやって来たのだ。

何でザイールかと言うと、理由は無い。別に何処でも良かったのだ。

主題は

「アフロ・アメリカンのボクサー同士が、ルーツであるアフリカ大陸で行う初のヘビー級タイトルマッチ」

「Rumble in the Jungle」

であって、アフリカと云う、漠然としたイメージの上になりたつ試合である。

何しろ試合は現地時間で10月30日、午前四時の開幕である。早すぎる。

これは「この試合の舞台がアフリカだ」と言うテーマ以外の全ての事情が、無視されたからである。

試合時間は、アメリカ東部時間で29日午後十時、日本時間では30日午後一時だった。

詳しい事は、この稿では書かない。

取り合えず、今日でも、両コンゴの住人が揃って口に出す、一大イベントであった事は、確かである。

モブツは1000万ドルを負担した言われるが、この時は珍しくライバル(だと視ている)リビアのカダフィ(通称大佐)がスポンサーに付いてくれたので、少し楽になった。

尚、この両者は1978年のチャド紛争で激突する。

とは言え、知名度的に見ると、それに相応しい、それでいて平和なイベントであった。


コンゴ(ザイール)河に、巨大な水力発電所が建設されたのも、この年である。

しかし、その膨大な電力の使い道となる筈の工業開発に大失敗し、最終的に赤字であった。


1976年の時点で、コンゴ経済は既に混乱を迎えており、公定レートでは1ザイール=2米ドル(約700円)であったが、当時の駐在員の日記によると、実勢はこの半分のレートなので、御用聞きのヤミドル屋を利用して実勢レートにする事で、大量のビールとコカ・コーラを買い込む事が出来たと書いてある。

尚、ビール一本20マク―タ(0.2ザイール)で、当時の共産諸国でヤミレートは4倍差らしい。


こんな時である。

ポルトガルで革命が起こったのは。

名にし負う、カーネーション革命であった。

南隣りのアンゴラが、独立したのだ。

1975年の事である。早速内戦になった。

この内戦が、ザイールに波及するのである。

最終的に、アンゴラ政府軍は後々モブツの独裁政権を壊滅させる一翼となるのだが、この時戦場となったのは、カタンガ州である。


1977.3月7日、シャバ(カタンガ)紛争の開幕である。

シャバとは、銅を意味する。まあ、解りやすい。

第一次コンゴ動乱の後に、モブツが改名させた。

この戦争の要諦は、鉄道であった。

コンゴ河、世界に名だたる大河であるが、キサンガニの上流にボヨマの滝が、キンシャサの下流にインガ滝(リビングストン滝)が有るのが困りものであった。

非常に思い鉱石は、船の乗せ換えで滝を越えるのは難しい。

大きな支流として、キンシャサの上流で合流するルアラバ川とカサイ川(ルルア川)が有る。

ルアラバ川は北上して中央アフリカ共和国に伸びている。

カサイ川は、その名の通り東に伸びていて、便利そうなのだが、この川の水源はアンゴラなので、カタンガから見ると、微妙に使いづらい。

カサイ川の支流のルルア川も、微妙にカタンガまで届いていない。

そこで、ベルギー統治時代、ポルトガル政府の許可を得て、ユニオン・ミニエールがカタンガから真っ直ぐ西進する鉄道を作ったのである。

ベンゲラ鉄道である。

高原のアンゴラでは、気温が涼しくジャングルも無い為に、工事も楽だった。

その鉄道は、ザイール領内にも伸びていて、皮肉な事に首都キンシャサには繋がっていない。ザイール領内の鉄道は、あくまでコンゴ河支流の河みなとに繋がっているのである。

このベンゲラ鉄道は、大西洋の港町ベンゲラ(Benguela)から、遥々ザンビア(1964.10月に独立した)まで通っており、中部アフリカ史の、重要な要素の一つなのだが、ここでは述べない。

アンゴラ内戦の悪化と共に、あちこちで寸断されていたが、カタンガ州に侵攻する分には、十分利用可能であった。

この鉄道とカタンガ州の要衝が、ザイール軍現地司令部の有るムチャチャと、ジェカミン(元ユニオン・ミニエール)の有るコルウェジ、州都ルブンバシである。

やって来たのが、何とチョンべの残党たちであった。

最早、呪いであろう。


1967年の反乱が潰えて以降、チョンべと共に戦っていたカタンガ軍の多くは、アンゴラに逃れていたが、彼らは降伏した仲間たちが、モブツに虐殺された恨みを忘れてはいなかった。

しかしアンゴラに逃れた彼らに対して、ポルトガル当局は、自分たちの手先になれば、モブツに引き渡す事だけはしないでやろうと、そんな事を言っていた。

選択肢の無いままに、渋々アンゴラの反乱勢力と戦っていると、何とアンゴラが独立してしまう。

そんな時に手を差し伸べたのが、ソ連である。

ここにポルトガル人傭兵と、カタンガ・アンゴラに跨って暮らすバルンダ人(チョンべの出身部族)が加わって、コンゴ解放民族戦線(FNLC)を名乗り、2,000人の兵力を揃えていた。

対するザイール軍の現地兵力は4000程しか無い上に、広大な(日本の1.3倍の面積が有る)カタンガ全域に広がっていたので、対応は後手後手に回っていた。

ムチャチャの司令部は即座に占領され、コルウェジも危うい。


この時、威勢よく3,000人の援軍を派兵してくれたのは、サファリ・クラブの付き合いの有るモロッコ王国のハッサン二世王であった。

ここにフランスも加わる。輸送機を用意してくれた。

フランス植民地では無かったが、フランス語圏ではあるコンゴ(キンシャサ)情勢には、フランスも無関心ではいられないのである。

スーダンが援助を約束した為に、慌てたエジプトのサダト大統領も支援を行った。

アメリカはけち臭い事に、金と補給物資だけ渡して、武器・弾薬の提供を拒否している。

時のアフリカ統一機構の議長は、モーリシャス独立の元勲、シウサガル・ラングーラムであったが、深入りする気の無いこの人は、控え目な言葉で、モブツが主体の行動ならば、それで良いと言って誤魔化した。

さて、どうにかこうにかして戦線の再構築に成功したモブツは、即座に反抗作戦に打って出る。

1977.5月26日、侵略軍の撃退に成功。アンゴラへ撤退して行った。

モブツは胸を張って、「我々は80日で勝利した」と言っていたが、見通しが甘い。

シャバ紛争の本質は東西冷戦の代理戦争なのだから、この程度で終る筈が無いのだ。


1978.5月11日、ソ連の援助とキューバ兵の訓練で再建されたFNLCは、さらに戦力を増強して4,000人の兵力で侵攻を開始した。

巧妙にも、一旦東隣りのザンビアの国境線をまたいでから、カタンガに攻め入った。

モブツは用心して9,000人の兵士を展開させていたが、全くの無駄であった。

モブツの国軍は、結局のところ第一次コンゴ動乱の時代から、脆弱ぜいじゃくさは何一つ変わってなどいないのだから、数だけ居ても意味が無いのだ。

ムチャチャは即座に陥落。

コルウェジも5月13日には陥落した。

この時、侵攻軍は、態々わざわざ民間人の服装で攻め寄せたと、モブツは非難したが、ザイール軍も軍服を捨てて逃げ出しているので、お互い様である。

モブツの派遣した精鋭部隊(笑)も一蹴され、撤退する部隊も誤認されて、味方の戦闘機から同士討ちを食らっている。

役立たずの軍隊である。

対して、FNLCの戦略は手が込んでいて、前回の侵攻時に、コルウェジにバルンダ人のスパイを紛れ込ませていた。


さて、問題はここからである。

当時のコルウェジには、ジェカミンの社員とその家族、約2,200人が住んで居た。

当初、FNLCは彼らを保護する方針だった。

ジェカミンの利権が欲しいので、そうするしか無いのだ。

しかし、まあ、そんな上手く行く訳が無い。

KNLCの連中も、碌な連中では無いのだ。掘削機器すら、満足には使えまい。

たちまち略奪と暴力、レイプが始まった。

ザイール軍に助けを求めて、そのままザイール軍に殺された人も居ると云うのが、実に悲惨である。

とは言え、指揮官が慌てて外国人の脱出を計ろうにも、もう手遅れであった。

激怒したフランスはベルギー軍の到着を待たずに5月19日に空挺部隊をコルウェジに投入する。翌20日にベルギーも空挺部隊を突入させ、侵攻軍は四散して逃げ出した。

この時、帰りもザンビア領内を通過して撤退して行ったので、モブツとケネス・カウンダ大統領(ザンビア)との大喧嘩に発展したが、口喧嘩だけで終わった。

結局、白人に犠牲者は200人に及び、170人の行方不明者を出した。

FNLCは撤退する時に、白人を人質として連れて行ったので、この170人の末路が死体だとは限らないが、まあ碌なものではあるまい。

少年兵に仕立て上げる為に、アフリカ人の子供も大量に連れて行ったあたり、実にアフリカらしい撤退であった。

しょうも無い話であるが、5月28日にモロッコ軍を始めとするアフリカ多国籍軍2.750人が来た時、彼らの役割はザイール国軍から住民(特にバルンダ人)を守る事であった。

二度に失敗に、流石にソ連も諦め、アンゴラの地盤固めを推し進める事にした。

一先ずザイールに平和が戻った。

まあ汚らしい平和であるが。


そんなザイールに、奇妙な一団がやって来たのは、1979年の事である。

日本人であった。

キンシャサからコンゴ河を下ったところにある街、マタディに橋を架けると謂う。

モブツがクーデターを起こした時に言っていた、「国民路線計画」の一環であった。

マタディの語源はバコンゴ語(石を意味するらしい)なので、ベルギー領時代から名前は変わっていない。

コンゴ河の河口域は広大で、河口(大西洋)側から見て、バナナ、ボーマ、マタディの三つの港町が在り、マタディから首都キンシャサへと鉄道路線が通っているのだが、問題なのがボーマもバナナもコンゴ河北岸域にあって、マタディは南岸の街だと云う事であった。

そこで、マタディに巨大な吊り橋を築いて、河口域の一体性を高め、開発を推し進めようと云う話になったのである。

この話は、以前からあったが、1970年代のオイルショックで、一時棚上げになっていた。

それも一段落したので、再開されたのである。

費用は円借款で345億円。ザイール屈指のビッグプロジェクトであった。

モブツにとって以外だったのが、日本人たちが、現地のアフリカ人に対して、妙に深い関係性を保持し、技術指導のみならず事務作業の研修まで主催していた事であった。

会議はなるべくコンゴ人も臨席させた上で、日本語を排してフランス語で行われた。

ザイール政府との間にも、行政手続きが簡易的なものになるように調整を欠かす事も無く、当初64ヶ月の工期を、モブツの都合で50ヶ月に縮める事になっても、素早く対応し、結局完成させてしまった。


1983.4月、マタディ橋完成。

日本人は、1991年まで、JICAから派遣されていたが、その後の治安悪化で撤退する。

しかし残されたバナナ・キンシャサ交通公団(OEBK)は良く橋を守った。

第二次コンゴ動乱の最中も、橋を守り続けたのだから、大したものである。

恐らくコンゴで一番有能な組織であろう。

こうして2021年現在も現役で使われている、アフリカ大陸初の、そしてコンゴ河唯一の長大吊橋は守られたのである。

しかし本来の計画では、鉄道路線も敷く筈であった。

だからマタディ橋は自動車用道路と鉄道用線路の二つが上下に併設されたのだが、結局予算不足で、バナナ港まで敷かれたのは自動車用道路のみであった。

モブツの、地方行政への無関心さは筋金入りで、そのせいで21世紀になっても、コンゴ民主共和国の道路舗装ほそう率は2%以下である。

国民総所得では同程度のリベリア共和国(西アフリカ)でさえ、6%は舗装されているのに・・・

モブツにとって、道路とはパレードを行う部分だけ、舗装されていれば良かったのだ。

そんなものだから、結局「国民路線計画」は、そのほとんどが放って置かれて、消滅した。


1980年代は、ザイール国外の、反モブツ組織が一際ひときわ巨大になった時期であった。

しかしこの頃に、モブツの前立腺がんが発覚する。

この時まで散々下半身のおもむくくままに女を連れ込んでいたのが、この時になって逆襲を食らったのである。

そしてモブツは決定的に無気力になって行った。

こうなると、モブツ自身がザイールの癌になる。

やる気の無い独裁者程、有害なものは無い。

何しろ、既に体制は、モブツの意志を超越した暴力装置となっているからで、モブツ自身が「うん」と、譫言うわごとを言っただけで、その意味を解さないまま、誰かが死んでいくのだから。


致命的なのは、この時期、銅を始めとする鉱物資源の、国際的な価格が下落して、そのまま何年も回復しなかった事である。

銅の国際価格は、

1980年 1982年 1986年

2189.09 1480.95 1373.78(1トン当たり、米ドルの値段)

と下がりっぱなしで、回復するのは1989年の事である。

しかし、ザイール経済に、この収入減に対抗する体力は残されていなかった。

そこで1985年頃に大々的に出したのが、反乱勢力の恩赦である。

この時に、グベニエが帰国した訳だ。


しかし、決定的にザイール経済が右肩下がりなのは変わり無く、それでいてモブツも、その家族も、恐ろしい程の贅沢ぶりを、微塵みじんあらためなかった。

妻(多分後妻の方)が買い物したと言えば、パリまでチャーター便を飛ばしてやり、娘が結婚すると聞けば、バド=リテの宮殿で、2機に飛行機を運用してまで盛大に式を挙行してやった。

首都の住人は、モブツに愛想を尽かしており、それを察したモブツにしても、バド=リテのヴェルサイユ風宮殿やカウェレの中華風宮殿に引きこもったり、コンゴ河に浮かべた豪華客船に乗って微睡まどろみながら過ごしていた。

私は、当初船の上に政庁が存在していたと聞いて、ザイールは良くも運営できたな、と感心したのだが、何の事は無い。道路も鉄道も通っていないのだから、役人も物資も、結局コンゴ河(この時はザイール河)を流通経路にしているのである。

コンゴ河に居れば、ザイールの政治は十分に賄えるのだ。

まあ、この国の政治が安っぽいから、可能な事であるが。


ここいらで、少しモブツの家族について話してみよう。

確認できる限りでは、モブツの妻は4人、子供は19人居たとの事だが、21人だ60人だとする情報も有るし、手頃な女を寝室に連れ込んだ記録も有るので、もう知らねえや。

モブツはカサイ州のカナンガ(元・州都ルルアブール)に士官学校を設立していて、息子たちをそこに入学させていた。

不思議な事に、息子たちが早世する性質が有る。

一つ言っておくと、家族の情報は2015年の本を参考にしているので、2021年現在にどうしているかは、知らないし調べない。

モブツの最初の妻は、マリー=アントワネット・ビアテネ、この人は1977年に亡くなった。

その後1980年にモブツが妻にしたのが、ボビ・ラダワとコシア・ラダワの双子の姉妹である。

時期がちょっと解らないが、ンバンディ族の風習で、亡き兄の妻、つまり元は義姉であった女性モヴォトを娶ったが、これは何でかママ41と記録されている。

アントワネットとの子供が9人居て、長男ニワ(1955)、長女ンゴンボ、次男マンダ(1959)、三男コンガ(1961)、次女ンガワリ、三女ヤンゴ、四女ヤクプワ、四男コンゴル(1970)、五女ンダビア

長男ニワは、親が結婚した時にはもう胎児であった。元々生まれた時はジャン・ポールと名づけられたが、親がザイール化なんて言い出したので、ザイール風にニワと改名された。

父の政権で外交顧問や大臣補佐も担当したが、1994年に死去。

この後を次いで、外交顧問に就任したのが、三女ンガワリらしい。

1959年にベルギー滞在時に生まれたマンダは、軍人の道に進み、1986年に少尉になるも、その後密輸に手を出し、1999年に政治の舞台に打って出るも、2004年死去。

1961年に生まれ、大統領カサヴブが名付け親となったコンガは、1972年ベルギーで死去。

1970年生まれこコンゴロは、大統領直属の特殊師団の一員として、1997年のモブツ脱出に付き合ってモロッコまで移動し、翌年死亡した。

娘たちは不思議と長生きで、2015年までに、死んだ者は居ない事が確認されている。


双子の姉ボビ・ラダワとの間に生まれたのが、長男ンザンガ、次男ジャラ、長女トク、三男ンドワラである。

1970年生まれのンザンガが正式にモブツの息子となったのは、10歳の時で、結局軍人にはならずに銀行協会の会長をしていて、モロッコ亡命後には通信社を運営しているらしい。

2006年のコンゴ大統領選挙に出馬したのがこいつで、弟のジアラも政治の道に引き込んだ。

三男のンドワラは2011年に死んでいて、一人娘のトワは健在である。


双子の妹コシア・ラダワはヤニリト、テンデ、アエッサの三人姉妹を産み、今も一緒に暮らしているとか。


ママ・モヴォト(元は兄嫁)との子供は、長男センゴール、長女ドンゴ、次男ラファエルが居た。

長男の名前は、セネガル独立の父、レオポール・セダール・センゴールからとったとされる。長女ドンゴ・イェモも健在なのだが、問題は次男ラファエルである。

フランスでプロのバスケットバールプレイヤーになり、引退してから妻子を持ち円満な家庭を築いていたのだが、2014年に飲酒運転で事故を起こすと、錯乱してそのまま夜の川に橋の上から飛び込んで行方不明になったと、ニュースで報じられた。

今にになっても、痕跡すら不明だと言う。

この他にも西隣のブラザヴィルの愛人との子供が居たとか、ムバングラと言う女性との間に息子ロバートが居たとか、色んな話が有るが、まあ無視して良いだろう。

もうモブツは死んだのだから。


1991年、ソ連が崩壊し、東西冷戦が終結すると、西側諸国はいい加減にモブツとの付き合いに飽きて来た。

アメリカやフランスは、モブツに民主化を求めて堂々と圧力を掛け始める。

この転身には、南アフリカのネルソン・マンデラも呆れた。

「私は本当に驚いた、30年間も民主主義の守護者だと、モブツをめそやした国々が、そのモブツに民主主義を確立せよ、と言っているのだから」

しかしモブツはもうそんなものはどうでも良かった。

たわむれに複数政党制を施行し、それと無く介入して内紛を起こさせ、気が向いた時に首相を解任し、その黒檀の杖で、配下の将軍を使って暴力を振るい、殺人も圧制も止めないまま、それでいて自堕落な生活を続けた。

これで七年持たせた。

所詮、碌な連中が居ない。どこにも居ない。

モブツがそんな国民に育てたのだから。

そしてこの年から、ザイールの治安が極度に悪化してくるのである。

理由の一つは、間違い無く選挙であろう。


さて、ここいらで一丁、モブツの治世の総括を行う事にする。

と言っても、長々と事績を述べるつもりは無い。

一言で事足りる。

即ち、1990年の時点で、乳幼児の死亡率が79人(1000人当たり)だと云う事である。

パーセント表示にすると7.9%である。高すぎる。

付け加えると

五歳児未満の死亡率も13%もある。これも高い。

成人識字率は28%しかない。低すぎる。

識字率は、測定方法によってばらつきが大きいので、一概には参考に出来ないのだが、これは低すぎる。

日本だと、それぞれ0.16%、0.23%、識字率は第一次世界大戦前にはほぼ100%である。

フランス人の碩学せきがく者、エマニュエル・トッドが、1976年にソ連の乳幼児死亡率が高いのを見て、その崩壊を預言したのは有名な話だが、この時でさえ24.4でしか無い。

これは1000人当たりの指数なので、%表示だと2.44%である。

2020年のコンゴ民主共和国の乳幼児死亡率は6.2%(1000人当たり62.02人)。

相変わらず高いままである。


モブツが、中世以前の支配者ならば、こんな数値は無視して良いだろう。

しかしもう20世紀になっていて、ザイール大統領は近代化の旗手なのだ。

ルムンバの後継者なのだ。

この男の治世は、既に25年になるのだ。

独裁者でありながら、ここまで国民に無関心でいられた事には、素直に感心する。

ザイール紙幣は超高率インフレが進行し、首都ではもうザイール紙幣では無く米ドル札が一般化しつつ有った。

国軍兵士は給料が何年も未払いなので、場所を問わず勝手に検問を敷いて、市民から通過税を毟り取ってが、それも米ドル札であった。

地域医療は崩壊し、道路の補修は93年から完全に放置された。

その全ての責任者は、文句無しにモブツである。

この男はもう、コンゴには要らない。


モブツの治世に決定的な破断が与えられたの切っ掛けは、1994年に起こった、東方諸国の一つ、ルワンダの大虐殺事件であった。

この事件の不可思議さは、また何れ書くが、取り合えずツチの政権が誕生した事だけ解れば良い。

しかし問題なのは、この事件により、100万人を越すルワンダ難民たちが、ザイールに流れ込んだ事であった。

ここまで大きくなると、難民たちは独自の勢力を築き始める。

もう誰に手にも負えなくなって、戦乱になった。

この時、三人の男たちが、盆地の王国に手を伸ばし始めたのである。

一人はポール・カガメ(Paul Kagame)

ルワンダ大虐殺を鎮定した英雄であり、今もなおルワンダに君臨する大統領である。

大統領に成ったのは2000年の事で、この当時は副大統領だったが、この男がルワンダの主宰者であるとは、衆目一致していた。

人種はツチで、この時49歳

一人はヨウェリ・カグタ・ムセベニ(Yoweri Kaguta Museveni)

この時も、それ以降もウガンダ大統領で、あの「人食いアミン」を打倒して政権の座に就いた、バリバリのウォーロードである。

この人もツチで、この時53歳。

そしてローラン=デジレ・カビラ(Laurent-Dèsirè Kabila)、シンバの反乱以来、久々の登場である。

バルバ人で、この時57歳。

立ち向かうモブツは66歳である。


カガメは、モブツがルワンダ前政権時代にツチの弾圧に手を貸した事を忘れていなかったし、ザイール領内に逃げ込んだフツの始末を付けたかった。

ムセベニは、冷戦後のアフリカ情勢に於いて、主導権を握る事を考えていた。

カビラはモブツが殺せるのなら、もう何でも良かった。

ザイール国民は、モブツの怠惰で残虐な政治が倒れるのならば、もう誰でも良かった。

アンゴラ政府は、モブツが内戦に手を突っ込んで引っ掻き回している事にブチ切れていた。

ザイール軍は、もうモブツなんかの為に戦う気になれなかった。

アメリカは、用済みになったモブツを始末したかった。

こうして、1996.10月、第二次コンゴ動乱が始まるのである。


勿論、彼らの中に英雄は居ない。

否、正確に言うと、自分たちがこれから起こす事になる大戦争に対して、英雄としての見せ場、影響力を作れなかったのだ。

戦火を広げるだけ広げて、哀れな犠牲者を600万人も生み出した挙句、皆してそそくさとコンゴ盆地から退場して行った。


反乱勢力は、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)を名乗り、フツの難民キャンプを蹂躙じゅうりんすると、ザイール東部一体で暴れ始めた。

モブツは慌てて国軍の増派を決定したが、何の役にも立たなかった。

第一次動乱以来の、略奪部隊である事を証明しただけであり、逃げ散る中でレイプと虐殺を欠かさない軍隊であった。

キサンガニが1997.3月15日に陥落する時、その場に国軍兵士は誰も居なかった。

その場に居たのは、ユーゴスラビア内戦で総てを失ったクロアチア人傭兵200人と、2機の戦闘ヘリコプターと3機の戦闘機を運用するウクライナ人傭兵、そしてわずかばかりのベルギー人・フランス人傭兵。

それが全てだった。

彼らを指揮する上物の国軍兵士も一人も居なかった。

反乱軍が迫ると、彼らはそそくさと逃げ出した。

真面目に戦っても、モブツは給料を払いやしないだろうから。


反乱軍は4月にはカタンガ州のルブンバシを占領し、カサイ州にも侵攻していた。

呆れた事に、反乱軍の中には、米軍兵士が混じっていたらしい。

キンシャサに侵攻する中で、2人が死亡している。


ここに、手を差し伸べたのが、南アフリカのマンデラ大統領で、戦艦を派遣するから、大西洋上で直接会談をしないかと仲介して来た。

マンデラは抜け目無く、アメリカ国連大使も引っ張りこんでいた。

思わぬビッグネームの出現に、カビラも戸惑った。


しかし、モブツの国軍が弱く(と言うか戦う前に逃亡していた)、東部一帯の鉱山地帯を制圧し、西側企業とも契約更改も順調に進んだ上、思った以上にザイール住人から支持を受けていた事もあって、結局直前になってカビラはれを蹴った。

1997.5月17日、キンシャサ陥落。

モブツは慌てて北部のバド=リテの宮殿に逃げ込み、そこから近臣や家族と共に飛行機に乗って逃亡した。

間一髪の事で、反乱軍の発砲した銃弾が、何発か機体に命中していた事が、後で確認されている。


この飛行機は、一旦トーゴに行ったが、そこも直ぐに追い出された。

手を差し伸べてくれたのは、モロッコ国王・ハッサン二世であった。

モロッコに亡命して一息付いたが、既にモブツの命運は全てに於いて尽きていた。

モブツが死んだのは1997.9月7日の事である。

死因は前立腺癌。

かなり衰弱していて、死ぬ時に体重は50kgを切っていたと云う。

偶々、8月31日にイギリスの元后妃ダイアナが事故死し、インドのマザーテレサが9月5日に死去したので、世界中の有名人―善人も悪人も―が一気亡くなった一週間だと言われた。

モブツの退散後、1997.5月17日、国名はザイールからコンゴに戻された。

別にザイールでも良いじゃないか、とは思わないでも無いが、そうするとブラザヴィル政権が「コンゴ」を独占する事になるので、駄目らしい。

モブツの妻たちは今もモロッコで夫の墓の傍に暮らしている。

帰って欲しくないコンゴ政府は、この二人の未亡人に安く無い額の年金を保障する羽目になった。

コンゴのジャングルでは、リンガラ音楽に乗せて、今日も平和と戦争が混在している。



参考文献

書籍

独裁者が変えた世界史 原書房(2020)

独裁者の最後の日々 原書房(2017)

独裁者の子どもたち 原書房(2015)

新版・アフリカを知る事典 平凡社(2010)

新書アフリカ史改定新版 講談社(2018)

現代アフリカの悲劇 叢文社(2000)

殺戮の世界史:人類が犯した100の大罪 早川書房(2013)

 「モブツ・セセ・セコ物語」が近所の図書館に無くて・・・

 モブツ如きの為に2000円も出したく無かったので、手元にありません


論文

1960年代のコンゴ東部反乱とルワンダ系住民 武内・進一(2002)

コンゴ民主共和国、ルワンダ、ブルンジの土地政策史 同上(2015)

シャバ紛争の一考察 小田・英郎(1987)

ザイールの崩壊と東部諸州 澤田・昌人(1997-9)

コンゴ動乱における中国の反政府支援 村上・享二(2016)

中部アフリカ諸国の政治情勢 藤原・定(2008)

コンゴ国連軍と反ルムンバ秘密工作 三須・拓哉(2002)

コンゴ民主共和国マタディ橋研究会報告書(2014)

コンゴ民主共和国の交通インフラ分野における日本の協力 島田・亜弥(2017)

 これらの論文は全てGoogle Scholarで探して来ました。

 一度、興味の有る分野で検索してみると、楽しいですよ。


インターネットサイト

各種wikipedia

世界史ch しくじり世界史モブツ・セセ・セコ

 youtubeのゆっくり実況ですな。流れとしては解りやすいです。

元老院議員私設資料展示館 コンゴ動乱編

 この資料が無ければ、正直言ってここまで詳しくコンゴ動乱は書けませんでした。

国際的な小咄スレ(やる夫スレ)

わたしはまとめサイトで第一話から見ている。アングラなやる夫スレ界隈でも際立った話題を平気でするので、一度覗いて見よう。

株式会社フランシール コンゴ民主共和国

各種旅行記サイト

色んな人の話を参考にさせていただきました。正直もうどのサイトを巡ったのか覚えていない・・・

外交青書(日本国外務省)第7号、昭和38(1963)年

 国連の借金規模を正確に載せてくれていたので、正直見つけた時には万歳三唱しました

 やっぱり公文書は強い

外務省ODA実績、コンゴ民主共和国(旧ザイール)1991~1997

 公文書最強


それでも詰め切れない部分が多々発生したので、そこいら辺2割位は創作しました。

おかしくね?と思ったら、本文を疑いましょう。

コンゴなんて行った事ないし、コンゴ人の知り合いもおらんのじゃい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アフリカの話~奇跡のボツワナと大陸の人々~ ラーメン大魔王 @Eneruga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ