第4話モブツ・セセ・セコと第一次コンゴ動乱 中

混乱と内紛に終始した第一幕に対して、第二幕は煮え立つような闘争の時間であった。

既に三国志の様相ようそうていしている。

西部、首都レオポルトヴィルに根を張る、中央政府。

レオポルトヴィル州・赤道州・カサイ州の北・中部を保持しており、最後にはこの政権がコンゴを統一する。

東北部、スタンレーヴィルに設立されたルムンバ派政権。

東部州とその南のキヴ州を勢力圏に納めている。

南東部、エリザベートヴィルに陣取るカタンガ共和国。

カタンガ州しか持っていないが、ベルギー人の支援と白人傭兵たちを大量に擁している為に、単純な軍の強さで言えば一番である。

そして中央政府とカタンガの間に挟まれて、南カサイ鉱山国が居るのだが、この国は規模が小さい上に、後述事情も有って、時折話題に登る程度の存在感しか無い。

しかし、改めて言うと、このコンゴ動乱には、英雄など一人も存在しない。

ルムンバは英雄と言えなくも無いが、コンゴ民主共和国の英雄では在っても、コンゴ動乱の英雄では無いので、除外する。

結局この四者とも、決着を自分で付ける事も出来ないだらしがない連中なので、その辺を国連軍が駆けずり回る事になる。

ハッキリ言うと、国連軍が居ればこそ、この第二幕の幕引きが1963.1月で済んだのであって、国連軍抜きでは、もう5年は続いたに違い無い。


各勢力の紹介に移ろう。

明確な国連代表権を持つ大統領カサヴブと首都をようする、レオポルトヴィルの中央政府軍。

軍を率いるのは、未だに大佐のままでいるモブツである。

司令官であったルンドゥラ少将は、ルムンバ派であった為にクーデター時に首都を脱出してスタンレーヴィル政権に加入した。


東部州のスタンレーヴィル政権は、1960.12月に、ルムンバが拘束されたのを機に結成された組織で、自分たちが正統だと主張していて、中央政府と豪語している。

スタンレーヴィル、1882(明治15)年に探検家のヘンリー・モートン・スタンリー卿の開いたコンゴ河沿いの宿場町で、コンゴ盆地の最も奥まった場所に在る。

アフリカ民族史の縮図のような場所で、歴史が恐ろしく混沌としている。

北東の南スーダンから流れてきたナイル系農耕民、コンゴ河を遡ってやって来た焼き畑農耕民、東の高地から来たフツ・ツチの人々、漁労ぎょろうと船の通運を行うロケレ人、そして遥々はるばるインド洋からやって来たイスラム商人たちが、共通語としてスワヒリ語をもたらした。

古くから深い密林の中で、「駆け込みの森」として知られており、銃を持ったイスラム商人たちがやって来ても、容易たやすく従いはしなかった。

最後にやって来たのがベルギー人で、コンゴ河沿いの宿場町を近代的なビルの建つ街に変えていった。

その全てが、この密林の中で暮らしており、通婚も盛んで平和な時代を過ごしていた。

そこに来たのが、コンゴの独立とルムンバである。

ルムンバの言論の冴えは凄い。

たちまちこの密林社会を、ルムンバの地盤に変えてしまった。

レオポルトヴィルから逃れた人々は、此処ここに集結した。

ただルムンバの遺産で、ルムンバに肩入れしていた国々と国交が有るのが良いのだが、アフリカ人主義を唱えていたルムンバの思想が過激化して、白人たちの弾圧に乗り出した為に、アメリカ・ベルギーから目を付けれらている。

軍を率いるのは、ルムンバ派で副首相の地位に居た、アントワーヌ・ギゼンガ(Antoine Gizenga)である。


カタンガ共和国はこの中で最も安定した行政能力を持っている勢力である。

軍を率いるのはチョンべ。

堂々とベルギーの支援を受けたこの勢力は、未だ植民地状態のルワンダ・ウガンダに居るベルギー軍の支援も受けていた。ベルギー軍そのものは国連との交渉でカタンガから退去しているが、技術者や教官の名目で何人もベルギー軍人が残っているし、西側の伝手を使って、一流どころの傭兵たち(ワイルド・ギース)を雇っている。正式に空軍を持ち運用しているのもカタンガだけである。

使っている機体は、フランス製フーカ・マジステール。V字の尾翼が美しい機体で、元々はジェット練習機として開発されていたのだが、出来が良いので武装して実戦投入された。この果てしなく醜いコンゴ動乱に於いて、唯一美しいものがこれである。

この空軍勢力に国連軍は圧倒され、スウェーデン空軍からサーブ29ジェット戦闘機が参加してようやく制空権を挽回できた経緯がある。


ところでわたしはカタンガの地図を見ていて、一つ疑問が浮かんだ。

カタンガは一体どうやって外貨を獲得していたのだろうか。

コンゴにいて、通商路とはコンゴ河しか無い。

しかしコンゴ河を使っての大西洋への道は中央政府が抑えていて、通れるとしても危なっかしくてしょうが無い。

いくらカタンガの地下資源が豊富だと言っても、チョンべが雇っていたのは一流処の傭兵たちである。カタンガ・クロスの入った銅貨なんかで雇える筈が無い。

ふと思い立って、もっと広いアフリカの地図を出して見た。

その時、わたしの疑問はたちどころに氷解した。

コンゴの中では、カタンガは隅っこに位置するが、カタンガの東には英領ローデシアが有るのだ。南西に行くと、ポルトガル領アンゴラである。

名高きローデシア鉄道を使えば、カタンガの資源を、南アフリカ連邦まで運ぶ事が出来る。

そしてこれは、傭兵たちや武器弾薬がカタンガに入国するルートにもなりうる。

しかも国連軍の任務は「コンゴの治安維持」である。

許可が出ない以上、ローデシア方面からカタンガに侵入する事は、絶対にありえない。

カタンガは確かに、独立するには悪くない土地であった。

このカタンガを巡る攻防戦は、コンゴ動乱に於ける最激戦地となるのである。


南カサイ鉱山国は、この中で最も奇妙な勢力であった。

何しろ、元首のカロンジが普段何処どこに居たかと言うと、何とレオポルトヴィルである。

中央政府に籍を置いておいておきながら、尚戦闘も続けていた。

国連軍の任務が治安維持で、話し合いの場を警護していたから出来る芸当である。

この不思議さは南カサイの独立理由に有った。

初期の混乱から一歩抜けたと云う時点では、カタンガと同じである。

しかしカタンガが、其処そこからさらに一歩踏み出して、コンゴから完全に離れたのに対し、南カサイは未だ片足がコンゴに残ったままである。

カロンジに言わせれば、南カサイはダイヤモンドが出るし、国軍は反乱を起こすし、ルムンバはこちらを目の敵にしてきて危険なので、高度な自治を要求したと、そう云う言い分であった。独立と謂うよりかは自立するための、南カサイ鉱山国であると、そんな事を言っていた。何やら言い訳臭い。カロンジは支持基盤をバルバ族に置いていて、後に国王を自称している。結局カタンガのような強固な体制を築く事が出来なかったので、こんな事を言っているだけのような気がする。 

ただ一度潰された上に、領土が小さすぎて、この動乱の主役には結局ならなかった。


折角なので、ここで各勢力に綽名を付ける事にする。

スタンレーヴィル政権軍、「不死身」のギゼンガ。

カタンガ共和国、「吸血鬼」チョンべ。

中央政府軍、「プレデター」モブツ。

南カサイのカロンジは、興味が出ないので無視する。


この反乱勢力の中で、憲法を独自に制定し、国旗も新しく作り、切手も発行していたのは、南カサイとカタンガだけで、結局スタンレーヴィル政権は憲法も切手も作らなかった。この辺、姿勢の違いが表れて少し楽しい。

しかし、戦争とうよりかは、混乱が表面化していり状態であった。

動乱中は、当然税収が入って来ない筈なのに、帳簿の上では公務員の給料は増額され、しかしその一方でスタンレーヴィル政権は首都の中央銀行から金を引き出せたと言うから、もう滅茶苦茶である。

動乱は結局、最後までこの調子で進行していくのである。


真っ先に火が付いたのは、カタンガ北部である。

この地にはバルバ人が古くから住んでおり、手先が器用で昔はルバ王国を作っていた程の実力が有った。しかしバルバ人と言うと、カロンジの支持基盤である筈だが、この辺、以外とつながりが無いようである。

まあ、カロンジ自体、そんなに支持を受けている訳でも無いが。

バルバ人の住まう場所はコンゴの東の国境、タンガニーカ湖の西岸に位置しているのだが、ここはチョンべの居るエリザベートヴィルより標高が200m近く下がる場所で、地図で見る以上に距離感を感じる所であった。

当然、其処にはスタンレーヴィル政権のささやきが有ったに違い無い。

 チョンべに従っていて良いのか?

 あの男の周りを見てみろよ、白人だらけじゃないか。

 (チョンべの秘書官13人の内9人はベルギー人)

 軍隊を見てみろよ、黒人は皆、平兵士じゃないか。

 黒人は白人にペコペコして暮らしている。

 これじゃあ、ルムンバが独立を勝ち取る前の、植民地時代そのままじゃあないか。

 このままで良いのか?

 チョンべはお前たちの事何か、屁とも思っていないぞ?

 チョンべは、どうやって白人社会の興味を引くのか、その事しか考えていないぞ?

1961.1月7日、カタンガ北部の反チョンべ派が一斉蜂起した。

(まだルムンバは死んでいない)

慌てたチョンべは軍を派遣したが、もう手遅れで、スタンレーヴィル政権軍がとうに北カタンガを取り込んでしまっていた。

国連軍は治安維持の関係上、この状態を追認したような対応を取ったので、チョンべは増々ますます国連への不信を強めていった。

チョンべはここから白人傭兵を増強させる。

この動きに対して、西側諸国は、アフリカの権益を守る為に、むしろ影ながら手助けを欠かさなかった。

何しろ蜂起した反チョンべ派と言うのが、敵対者の手足を切っただとか、生きながら火炙りにしたとか、そんな蛮行を堂々を重ねていたので、こんな動きが周辺のヨーロッパ植民地に波及していては困るのだ。

ただ、ベルギーのように、中央政府にも肩入れして、二股を掛ける国も多く、この辺の動きは動乱の各勢力共に、苛立って見ていた。

(スタンレーヴィル政権は別。ここに肩入れしていたエジプトのナセル大統領はそんな事はしなかった)


その頃、モブツはと言うと、失策を重ねていた。

スタンレーヴィル政権が設立された直後に、その勢力圏であるキヴ州に攻勢を掛けてみたのだが、これが失敗。

委員会内閣もだらしが無く、失政を重ねた。

当然この事は二重にモブツの威厳を損ねる事になり、モブツは一旦政治の表舞台から身を引く事にした。

1961.2月9日、改めてジョセフ・イレオ内閣が誕生。

内閣はモブツの機嫌を取る為に、モブツを少将に昇進させた。

しかし、モブツはここで抜け面の無さを発揮して、ルムンバをコッソリ飛行機に乗せる事に成功する。実際のところ、ルムンバ暗殺の陰謀は、不確かな事が多いのであるが、モブツが完全に無関係と言う事は無いだろう。

ベルギーは2002年に、正式にルムンバ殺害に関与したとして、謝罪している。

結局、新内閣誕生のニュースは、それ以上の一大ニュース、ルムンバ死亡にかき消された。


混迷の深さに焦ったハマーショルドの元に、一つの要望が届いた。要望の提出元には、エジプトのナセル大統領の名前が有った。

これを元に1961.2月21日に採択されたのが、国連決議161号である。

内容はルムンバ暗殺事件の真相究明と、コンゴ動乱の鎮圧である。

しかし国連軍の動きに不信感を募らせていた諸勢力は、れを国連の暴力的な圧力だと認識した。

カサヴブは、国連はコンゴを裏切ったと言い、チョンべは国連軍によるコンゴ全体への宣戦布告だと喚いた。この動きにはカロンジも乗っかり、はからずも呉越同舟の状態になった。

この流れにカサヴブは乗る事にした。

1961.3月15日、マダガスカルのタナナリブ市でカサヴブ・イレオ・カロンジ・チョンべと各州の代表者たちが集う会議が有り、一旦協定が結ばれる。

しかしこの協定は、チョンべに有利すぎると、カサヴブたちは気付いた。

おまけにカタンガ軍はこの間も、取り込まれた北カタンガの奪回に乗り出しており、エリザベートヴィルに進駐する国連軍の排除にも動いていた。

結局この二つの軍事行動は失敗に終るのだが、これは中央政府にチョンべへの不信を植え付けるに十分であった。

ハマーショルドも、先の国連決議は別に国連軍の侵略を意味するものでは無いと、特使を派遣しており、カサヴブもそれを受け入れて和解する。

1961.4月24日、赤道州の州都コキラヴィルに在るロバニウム大学で、スタンレーヴィル政権も参加する一大会議が催され、何故かコンクラーベ(ローマ法王の選出選挙の事)と呼ばれた。

北カタンガの代表も呼ばれていたので、チョンべが腹を立て、離脱しようとして市民に拘束された一幕も有ったが、一先ひとまず会議は行われた。

この頃にモブツとチョンべの接触も会った。

しかし結論を出す前に一足先に抜けたチョンべは、こんな会議は認めないぞ!

とカタンガに帰ってから言い出したので、国連もベルギーも厳しい目を向けるようになった。

結局、イレオでは小物過ぎて話に成らない、と結論が出て、代わりに立てられたのが、シリル・アドゥラ(Cyrille Adula)であった。MNC設立にルムンバと一緒に関わった(イレオに比べると)大物である。


1961.8月1日、アドゥラ内閣設立。

最終的に、このアドゥラの元に全勢力が結集して、この動乱の第二幕が引かれるのだが、ここで疑問が出てくる。

東アジアの常識では、統一者とは英雄でなければならない。

ところがアドゥラは全くそうでは無く、この男の失政がコンゴ動乱の第三幕の原因となるのである。

では何故アドゥラが良いのかと言うと、その政治的立場であった。

アドゥラは社会主義路線をっていたが、マルクス・レーニン主義とは一歩離れた距離間を保っていた。

東側社会と結びつく、スタンレーヴィル政権が合流するのには、このアドゥラが丁度良かったのだ。

しかし合流したと言っても、そう一筋縄ではいかず、最終的な決着には武力が不可欠であったし、チョンべは戦争だ、戦争だ、と気勢を挙げていた。


この頃、ハマーショルドは増々ますます焦っていた。

コンゴ情勢がもう一息でけりが付きそうなのに、チョンべが国連軍への武力行使を止めないのである。選挙で政権交代が起こって、腰が引けてきたベルギーに代わって、フランスがチョンべの援護にまわり始めたのだ。大統領はシャルル・ド・ゴール、強気の男である。国連何するものぞ、と平気で言っていた。

1961.9月に、カタンガのジャドヴィルに於いて、アイルランド部隊とカタンガ激突、六日間に及ぶ包囲戦を繰り広げ、何とアイルランド部隊を降伏に追い込んだ。

映画にもなったこの勝利は、チョンべに甘美な程に幸福を教え込んだらしい。

チョンべは増々国連軍を挑発するのだった。

おまけに洒落にならない大事件が、この時大西洋の西側で起こりつつあった。

キューバ危機である。

アメリカが裏庭だと豪語していたカリブ海で、最大の島であるキューバ島で革命が起き、しかもその政権が共産主義化したのである。

1961.1月、アメリカはキューバと国交を断絶する。

(ルムンバは一応まだ生きていた頃)

この4カ月前に、国連決議144号で、キューバとアメリカは仲良くしなさいと言っていたのだが、堂々と無視された。(この決議にソ連は棄権、アメリカは一応賛成していたのだが)

堂々とソ連側に付いたキューバに対して、アメリカが明確に手を伸ばし始めた。

この辺、アメリカ外政の間抜けさが際立っており、調べてみると、大日本帝国みたいな失敗を次から次へと繰り返しているのは、正直皮肉が過ぎる。

孫子に云う

敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、と。

つまり敵の実情を知らないで戦うと、勝率は五分五分だと言っているのだが、アメリカは第二次世界大戦後、脳みそがパーになったので、もう勝てなくなった。

未だに覇権国面しているのは、金持ちである事と、地上最大の最新技術の軍団を擁している事と、本土に攻め込まれた事は流石に無いからである。


それは兎も角、大西洋の西が火薬庫になった以上、一刻も早く大西洋の東の騒動を沈静化する必要が、国連とハマーショルドには在った。

ハマーショルドは、チョンべと直接会談をもつ事にした。

そして事件は起こる。

1961.9月18日。

場所はカタンガの南、ローデシア北部(現在のザンビア)の都市、ンドラ。

アメリカ製のダグラスDC―6Bレシプロ飛行機のチャーター便が、墜落したのである。

ハマーショルドは死亡した。

享年56歳。

背景となる政治状況が余りにも混沌とし過ぎていて、現在に至るまで、誰が首謀者なのか、それとも本当に単なる事故なのか、全く解っていない。

少なくとも、この事件の結果、もう国連にコンゴ動乱の結末をのんびりと調整する余裕は無くなったのは、確かであろう。

後釜を慌てて据える必要が有った。

コンゴ情勢が山場を迎えている以上、その方面に詳しい者を選ぶ必要が有る。

選ばれたのは、国連コンゴ委員会・委員長の任を受けていた、ビルマ人だった。

ウ・タント(U Thant)である。

硬骨漢として知られており、大日本帝国がビルマを占領していた時も、堂々と反抗していたし、後に起こるベトナム戦争では、堂々とアメリカを非難している。

コンゴ情勢をそろそろ一段落付けたいな、とは米ソ両国も思っており、北欧人でも無いウ・タントの任命をアッサリ了承した。

1961.11月30日、事務総長代理就任。

この時、52歳。

任期はハマーショルドが本来務める筈だった1963年までの予定だったが、予想以上に有能であった事と、世界情勢が二転三転した事から、結局1971年大晦日まで務める羽目になった。10年1カ月の任期は、史上最長である。

(本来は長くて10年)

事態は早速動き出した。

12月のハマーショルドのノーベル平和賞の受賞も終ると(与える事自体は生前に決まっていたので、そのまま贈られた)、その空気は即座に引き裂かれる。

1962.1月、中央政府軍がスタンレーヴィルに侵攻。

中央政府軍の勝利に終り、ギゼンガはまたまた寝返っていたルンドゥラ(元・中央政府軍少将にしてモブツの上司)に逮捕され、スタンレーヴィル政権軍は崩壊、四散した。

この四散した中に混じっていたのが、第三幕の主人公、ムレレである。


この頃、中央政府軍も南カサイに侵攻を開始している。

スタンレーヴィル政権軍の横槍も、カタンガの支援も望めない上に、カロンジ王は南カサイ行政府からも見放されており、カロンジ逮捕される。

南カサイ鉱山国は、1962.9月に独立を撤回。消滅した。


残るはカタンガ軍とチョンべだけとなった。

ところがここでチョンべが不思議な行動に出てきた。

国連軍に堂々と喧嘩を売り始めたのである。

しかし状況は全く好転していない。

国連軍は二度に渡るチョンべの拘束を目的とした軍事作戦を開始したが、チョンべもカタンガ軍も上手く逃げ延びていた。

この時、国連軍が現地の白人女性を誤って射殺してしまう事件が発生し、カタンガ軍は都市ゲリラを行う為の住民の支持を取り付けた。

1961.11月24日には国連決議169号が可決。

この決議に於いて、カタンガの独立は完全に否定され、国連軍は更に増強を受けて、総勢2万人を数える兵力が集結した。

1962年に入ると、一旦小康状態に入り、国連とカタンガとの交渉が続いた。

国連軍は、寄合所帯の関係上、大規模な犠牲が想定される作戦は取りづらいのだ。

純粋に勝利する為の軍隊では無いのである。

おまけに、この頃正に大西洋の西側では宴もたけなわであった。

秋に入ると、キューバのミサイル基地の存在が明らかになったのだ。

キューバ危機が激発する。

ウ・タントにとっては冗談では無かった。

此処で対応を間違えると、大西洋を舞台にして第三次世界大戦が始まってしまう。

そんな恐怖が、現実味を帯びて来たのだから、たまらない。

雰囲気が、戦争を呼び込む。

そんな事例は、枚挙に暇がない。

何としても、大西洋を平和の海にする必要が有った。


しかし交渉は両者にとっても、埒が明かなかった。

1962.7月1日には既に、カタンガの東に有った、ベルギー領ルワンダ・ウルンディが独立して、それぞれルワンダ共和国とブルンジ王国となった。

当然、独立国にベルギー軍の居場所など無く、チョンべの味方をする事なく帰ってしまった。

どんどん追い詰められるチョンべだが、全くりていなかった。

相変わらず、調子の良い事を言っては、後でひるがえし、国連軍の襲撃も止めなかった。

この辺、只の戦争屋でしか無いチョンべの限界が見えてくる。

つまり、窮地を打開する方法として、戦闘行為と欺瞞ぎまん以外の術を知らないのである。

しかしチョンべは流離さすらいの傭兵隊長でも無いし、中世戦国の時代の前線指揮官でも無い。

政治的に追い詰められつつある国家元首として、チョンべは悪あがき以外何も出来ない男であった。

ウ・タントはいい加減に怒った。

キューバ危機も、冬に入る前に一段落したのを機に、思い切って動き出したのだ。

1962.12月、国連軍は全面攻勢を行い、エリザベートヴィルを占領、カタンガを滅ぼしてしまう。

1963.1月、チョンべはカタンガの独立を撤回して、フランコ政権下のスペインに逃亡。

此処にコンゴ動乱、その第二幕が引かれた。


第三の幕開けには、少し時間が空いている。

明確に定義し切れる訳では無いが、取り合えず主役のピエール・ムレレ(Pierre Mulele)が行動を起こす、1963.7月としておこう。

その間、コンゴでは戦乱は小康状態となっていた。

国連軍は犠牲者こそ250名で済んだが、4億ドルもの費用を使い込んでしまった為に、もう息切れ状態では有ったが、コンゴの治安維持が本来の目的であったので、カサヴブの要請で、もう少し粘る事にした。

この頃にはモブツもすっかり元気を取り戻してして、統一政権となった国軍の増強に勤しんでいた。

カタンガ軍の内、2000人を取り込む事に成功しており、国軍のアフリカ人士官候補生たちも、ベルギーやアメリカに送り出していた。

この時、中央政府はコンゴ六大州を二十二州に再編しているが、わたしはコンゴの地名に興味など無いので、この稿ではこのまま六大州のままで行かせてもらう。

1963.3月には、モブツはアメリカを初めて訪問し、ケネディ大統領と面会している。

ルムンバを軟禁している時は、就任の話を聞いただけで七転八倒していたが、実際に会ってみるば、大した男でも無かった。

キューバ危機で世界を救ったとか言われてるが、結局のところ、小島一つの為に世界大戦を起こすのが馬鹿々々しくなっただけである。

戦争々々と子どものようにはしゃぐ強硬派を抑えた事は、文民政治家としての面目躍如と言えるが。

とは言え、世界を二分する超大国の長から直々に「将軍、貴方はアフリカにおける自由主義社会の砦です。頼りにしていますよ」等と言われたのは、面映おもはゆかったであろう。


モブツにとっての懸案けんあんは、西隣りのコンゴ、ブラザヴィルのユール―政権であった。

親仏外交を採用していた、この政権は、汚職が過ぎて反乱を呼び覚ましてしまう。

1963.8月13日の蜂起でユール―政権は崩壊。

新政権は社会主義路線を選択し、それでも飽き足らず、動乱後の1969年には「コンゴ人民共和国」が成立。マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義国家になってしまう。

下剋上を食らったユールーの行方だが、暫くはブラザヴィルに拘留されていた。しかしいづれ殺されると見て、脱出した。

1965.3月25日の事である。

ユールーはフランスに亡命を求めたが、その欲深さと突飛さを醜く感じた大統領ド・ゴールはこれを拒否。

最終的にフランコ政権下のスペインに亡命した。

落ち延びる先まで一緒とは、チョンべと仲の良い事である。

そのまま、のんびりと暮らして、のんびりと死んだ。

1972.5月の事である。享年55歳。

モブツと違って、地味な男で、その分死後の扱いは穏当なものであった。

遺体は故郷に戻した上で埋葬され、2009年にはブラザヴィル市役所前に小さな銅像も建てられた。

まあ、小粒な男である。


取り合えず、ブラザヴィルが東寄りの左派政権に成った事が、第三幕が上がる理由、引いてはモブツが二度目のクーデターを起こす理由になって行くのだが、一先ひとまず置いておく。

カタンガの行政が、独立時代のまま、ゴドゥフロワ・ムノンゴ(Godefroid Munongo)が一手に収めているのも気にくわなかった。このムノンゴ内相は、19世紀のカッパーベルト争奪戦で、ベルギー軍に射殺されたバイエケ人の王、ムシリの後継者を自認していて、気位が高く、チョンべの腹心では有ったが、言いなりでは無かった。チョンべの決定を、度々たびたび反対して撤回もさせている。

しかし中央政府に、コンゴ全土を統括する能力が備わっていない以上、ムノンゴまで取り除いてしまうと、カタンガ州の内政が破綻してしまう。

そうなれば動乱のぶり返しである。

チョンべの傭兵たちの多くも、南のポルトガル領アンゴラに逃れており、その対処も必要であった。

結局、このムノンゴ内相は、モブツ二度目のクーデターで軟禁され、政治的に無力化された後、1992年まで長生きして素直に死んだ。

そのアンゴラ情勢も、1961年から既に混乱状態で、難民や独立(解放)主義者たちの多くもコンゴに流れて来ていて、その対処も必要であった。


この頃、動乱も終り、各勢力の妥協の気運も高まったので、カサイ州の州都ルルアブールにて、新たなる憲法が起草された。

何でこんな場所が、と思うが、動乱の基点となった都市、西のレオポルトヴィル、東北のスタンレーヴィル、南東のエリザベートヴィルを地図に書き加えてみると、丁度ルルアブールがその中心になるので、そこが都合良かったのだろう。

ルルアブールは、コンゴ河支流のルルア川北岸に有る街で、独立時に首都を此処に移転しようかと云う案も有ったが、コンゴ河から首都が離れると不便なので、見送られた経緯が有る。

この憲法が選挙を経て、明確に採用されるのは、一年後の話であるが、その頃にはもう動乱の真っ只中であった。


さて、スタンレーヴィル政権が崩壊して後、エジプトのナセル大統領の元に身を寄せていたムレレが、東ヨーロッパと中華人民共和国を回ってコンゴに帰国したのは、1963.7月の事だった。毛沢東式ゲリラ戦術を学んで来たムレレは、早速反乱の火の手を挙げた。

その頃、左派政権となったブラザヴィルに転がり込んで来たのが、元スタンレーヴィル政権の閣僚の一人で、その後中央政府に寝返ったクリストファ・グベニエ(Christophe Gubenye)であった。政治の主流であるアドゥラ首相とモブツ少将と喧嘩したので、一発逆転を目指して転んだ訳だが、転ぶ以外に能が無い男なので、動乱の後ヨーロッパを転々として居所が無く、どうでも良くなったモブツが恩赦を出して、1984年にコンゴに帰国した。

そのまま無駄に長生きして、なんと第二次コンゴ動乱も終った2015年にキンシャサ(レオポルトヴィル)で死んだ。

享年88歳。


結局のところ、アドゥラ政権がどうしようなく失政続きなのが、動乱の起こる理由である。

「泥棒政治からの脱却」これがムレレにスローガンであり、この言葉自体には、文句の有る人間が居なかった。

泥棒政治(Kleptocracy)これは元々ギリシャ語で盗む(クレプテース)+支配(クラトス)の二つを合体させて生まれた言葉であるが、後にモブツ体制の代名詞となる。

クウィル州(六大州だとレオポルトヴィル州の南東部)に盤踞ばんきょするムレレ派の軍兵ぐんびょうを探し出すべく、中央政府は50万コンゴ・フランの賞金を掛けるが見つからず、業を煮やしたモブツが自ら現地入りするも、効果が無かった。

この頃のムレレ派の数は3000人足らずだと言われる。未だ野盗集団に近かった。

11月に入ると、事件が起きた。

と言ってもコンゴの事件では無い。

一つはコンゴの遥か西で起こった事件で、アメリカでケネディ大統領が暗殺されたのである。テキサス州ダラス市で発生した。

もう一つはコンゴの直ぐ東で起こった事件で、ルワンダの騒乱のツチの虐殺事件が発生したのである。ツチの王を含む王族の多くがコンゴに避難して来て、この中には、後にモブツ政権を消滅させるポール・カガメも混じっていた。但しこの時2歳の幼児である。

この中に、ムレンゲ地方に住まう先達に合流する者も居て、彼らはバニャムレンゲと呼ばれる。

嫌な話だが、ルワンダでは1994年に至るまで、政変の度にツチかフツの虐殺事件が起こるのが恒例行事と化して行る。

年が明けて1964年になったが、ムレレ派の跳梁跋扈は留まるところを知らず、襲撃が相次いでいた。

2月に入り、元ルムンバ派のガストン・スミアロ(Gaston Soumialot)がブルンジ王国首都ブジュンブラに入り、同国の開設したばかりの中国大使館の指揮下に入って、隣接するコンゴの東部州・キヴ州・カタンガ州(北部)の戦争工作に入った。隠れる気が無い男で、秘密工作をしている癖に豹の毛皮を羽織り、象牙の柄の杖をついていたと云う。恰好が目立ちすぎて当初からマークされていたが、ブルンジ王国はガストンは政治難民だと言ってかばっていた。

1997年の第二次動乱の時もそうなのだが、盆地の王国コンゴと、その東の高地に暮らすルワンダ・ブルンジの両国は、妙に仲が悪い。

モブツも独裁者になってから少しは仲良くしようとしていたが、結局逆効果になった。

そして1964.4月15日、遂にムレレ、グベニエ、スミアロの三者は共同で蜂起した。

中央政府の打倒をハッキリと宣言し、スミアロの軍団がキヴ州を制圧した。

反乱はたちまち燃え広がり、東部州・カタンガ州も戦闘状態に突入する。

本格的な大動乱の開幕であった。


ところで、不思議に思わなかっただろうか。

そう、国連軍は一体何をしていたのか。

結論から言うと、見て見ぬ振りをしていた。

そして動乱を尻目に、そそくさとコンゴから撤退していったのである。

理由が山と有る。

ず資金が底をついていた。

コンゴに派遣されていた国連軍が食いつぶした費用は4億米ドル。

1963年の国連加入諸国の支払った分担金合計がおよそ8500万ドルである。

もう破産している。

加えてソ連が国連の分担金を、1960年から渋り始めたので、もう死にかけであった。

慌てて国連公債を2億ドル分発行したが、実際に買われたのは43ヶ国、1億3000万ドル分のみであった。(この内、アメリカが6000万ドル、日本は500万ドル負担した)

おまけに世情が余りにも変わりすぎた。

中印国境紛争(インドvs中国)

キューバ危機(アメリカvsソ連)

スターリン批判以降の国境紛争(中国vsソ連)

キプロス紛争(トルコ系vsギリシャ系)

ベトナムの南北分断問題(後にアメリカが介入してベトナム戦争になる)

ベルリンの壁の建設(ドイツ問題)

まさしく宴もたけなわと言った状態で、国連としてもコンゴから早く撤退したかった。

特にあれやこれやと、戦費の約四割を負担してくれたアメリカの絡む政変は溜まらない。

ケネディ大統領も暗殺されて、てんやわんやである。

最後に、コンゴ自身の事情の変化が有った。

そもそもこの国連軍の当初の目的は、東西冷戦の影響をアフリカ大陸から排除する「防止外交」であった。

しかし今やもう公然と、中央政府は西側に付き、ムレレ派は東側に付いていた。

東西冷戦の完全なる代理戦争になった以上、国連としては深入りしたところでやる事が無い。何せこうなると、交渉しようとしても、後ろ盾(本音)と前線(建前)が一本化されてないのだ。力づくで平定するしか無い。

そして国連にもうそんな金は無い。

そんな訳で、国連軍は予定通り、1964.6月30日、コンゴから完全に撤退した。

そして7月からコンゴ情勢はまたも急転直下していくのである。


時計の針を少々戻して、1964.4月にムレレ一派が蜂起してからの話である。

当初はモブツの国軍で対処していた反乱軍であるが、直ぐに発覚したのは、国軍が役立たずであったと言う事だった。

略奪部隊と狂信者の群れとでは、略奪部隊の方が弱いのである。

ムレレ派の若い戦士たち、シンバは、皆狂っていた。

シンバとはスワヒリ語でライオンの事で、困った事にディズニー映画の「ライオンキング」の主人公と同じ名前である。

シンバたちの武器は貧相なもので、槍、鉈、短剣、小銃、弓矢が基本兵装であり、大砲などは一門も持っていなかった。

ただし彼らには「ムレレの水」が与えられていた。

ムレレにより与えられる、ルムンバの聖水であった。

ルムンバはまだ生きていて、いずれ帰ってくるから、その為に地ならしをするのだと教えられたシンバたちは、死をいとわず敵に向かって突撃した。

中国由来のマオイズム(毛沢東主義)とアフリカ呪術の、まさしく悪魔合体である。

この辺、ルムンバが本当に生きていたなら、まあ激怒しただろう。

「暗い密林に住まう黒い肌の人食い人種」

ルムンバは、こんなアフリカ人像を払拭したかったのに、シンバたちと来たら、イメージそのままの残虐な振舞いが絶えなかったのだから。

この辺、ルムンバの公開処刑を避けたチョンべの手抜かりであった。

と言うのも、この時点で公的には、ルムンバは「行方不明」なのである。

困った事に、モブツもカサブヴも、ルムンバの死を直接確認していないので、訂正もしづらいのだった。

あるいはルムンバは泣いたかもしれない。

アフリカの近代化を志した自分の死が、野蛮なる古代の軍団を呼び起こしたのだから。

そもそも、ルムンバは東側とは一定の距離を取って居たと言うのに、ムレレもシンバたちも堂々と中国共産党の支援を受けていて、隠そうともしていなかった。

この頃の資金源は、違法に採掘された闇ダイヤモンドで、東の国境タンガニーカ湖を渡ってタンザニアのキゴマ鉄道に載せて、資金調達していたらしい。

タンザニアの北に当たるウガンダも、ムレレ派を支援したらしく、怒ったモブツとアメリカが逆襲を行って狼狽うろたえた記録が残っている。

中国共産党にしても、「剛果(コンゴ)解放すべし!」と張り切っていた。

(ソ連とは、モブツ最初のクーデターで断交していたので、コンゴに介入する足場が無かった)

まあ、泉下のルムンバには諦めてもらうしかあるまい。

この辺はソ連のレーニンも通った道である。

所詮、死者はフリー素材なのだ。


対して略奪部隊、別名コンゴ国軍の兵士たちは、常に命が惜しい。

略奪した物資を、持ち帰らなくてはならないからである。

それ故、どんな激戦地であっても、チラチラ後ろを気にしながら戦っている。

そして退却する時も、一々荷物(戦利品)を抱えているから動きが遅い。

何せ、アドゥラ内閣と来たら、国連職員の支援を受けても経済政策も農業政策も失敗続きなので(そもそも政策を実行する能力が有ったか疑わしい)、手足を失って帰ると、乞食になるしか道が無いのである。

コンゴ河の水運事業(キンシャサ=ブラザヴィル間)に障害者が優遇措置を持って参入するのは、もっと後の話なので、この頃は期待出来ない。

命も金も惜しむ国軍兵士たちは、シンバ襲撃の電話予告が有るだけでも、逃げて行ったと云うから、推して知るべし。

実際、45人のシンバたちが襲撃して来たので、都市を放棄したと言う事例も有った。

1946.6月には、コンゴ全体の三分の二はシンバたち反乱軍の手に落ちていた。

モブツの故郷、赤道州のリサラも、北カタンガの要衝アルベールヴィルも、シンバの手に落ちていた。

しかし、ムレレにせよ、グベニエにせよ、スミアロにせよ、碌な政権運営能力を持っていない。つまりこれ程広大な支配地を維持出来ていたのか、甚だ疑問である。

第一、シンバたちにまともな行政能力が有ったのか。

無かった。

それを証明したのは、一人の世界的有名人である。

その名も高き、チェ・ゲバラ。


ゲバラがコンゴ入りしたのは、シンバたちの反乱も斜陽になった1965.4月の事であったが、

シンバたちを見て直ぐに失望した。

ゲバラに曰く

「シンバたちは、前進して殺せと言えば、シャカリキになって働くが、我慢が利かず、列を成して行進させようとすると、途端にやる気を無くす」

ゲバラは教えようとしたのは、近代的なゲリラ軍制であるが、シンバたちにそんな事は理解出来なかった。

この時、ゲバラの訓練を受けていたのが、後に1997年の第二次コンゴ動乱でモブツを政権の座から追い落とす、ローラン=デジレ・カビラ(Laurent-Dèsirè Kabila)である。

最も、ゲバラに言わせれば「来ると言えば、忘れた頃になって来る男」であるが。

肉が悪くては、焼肉のタレの出番は無い。

ゲバラはシンバたちに見切りを付けると、11月にはさっさと帰って行った。

実情がこんな有り様だとすると、占領した、とは要するに、国軍が逃げてシンバたちが支配者面している状態の事を指すのだろう。

実のところ、こんな状態でも、ルルアブール憲法の選挙が行われていたらしい。

だらしがない反乱である。


密林の戦闘である事も、シンバたちに優位に働いた。

国軍兵士たちは、脆弱で有るが故に、銃の威力に頼り切っていた。

しかし密林の戦闘では、銃は必ずしも役には立たない。

密林とは、地球上最も見通しの悪い地域なのである。

道から十歩離れるだけで、もう迷ってしまう。

背の高い木と、足元を隠す草が多すぎて、遠くは見えないし、足跡も隠れてしまう。

こうなると何も考えずに攻め寄せる方が有利で、そして国軍に訓練を施すアメリカ軍の訓練では、密林を想定していない。この事はアメリカ軍自体が、後のベトナム戦争で証明している。

戦闘が始まると、たちまち国軍の陣形は崩壊して行った。


多分、夢枕獏の小説の後書きで読んだと思うのだが、ジャングルではトイレは川で済ますのが良いそうだ。大便を流しても、直ぐに小魚が集まって食いつくしてくれるのだと言う。


1964.6月の、コンゴ全土の約三分の二が反乱軍の手に落ちて(正確には国軍が逃げ出して)いた時、一時はレオポルトヴィルまで200kmの地点(コンゴ河沿いの街、ボロボ)まで攻め込まれていた。

この状況に、カサヴブもモブツも焦った。

そこで、それぞれ手を打った。

モブツはアッサリとアメリカとベルギーに支援を呼び掛けて、空挺部隊を派遣してもらう手筈を整えた。

カサヴブは、結局アドゥラでは小物過ぎたと考え、もっと大物を用意する事にした。

この人選をモブツが聞いた時、あからさまに渋い顔をしたであろう。

しかしムレレの率いる反乱軍を潰す為には、大規模で精強なる地上軍が絶対に必要である。

アメリカも、ベルギーも、助っ人は出せるが、主力は出せない。

呼ばれたのは、チョンべであった。

この人事には、誰もが驚愕した。


正確には、チョンべの用いる白人傭兵たちの力が欲しかったのであるが、一流処の傭兵と言うのは、容易くなびいたりしないもので、ポルトガル領アンゴラを中心に部隊を保っていた彼らは、モブツの言う事もカサヴブの誘いも断るこの軍団は、やっぱりチョンべの力であった。

この決定に、発足したばかりのアフリカ統一機構(OAU)は驚き、非難を浴びせた。

アメリカ・ベルギーも驚いたが、大規模な陸軍の派遣をやらずに済むので、ひっそりと了承した。

1964.7月、大統領カサヴブはチョンべを首相に任命した。

チョンべは早速、ムレレ派との対話を開始しようと考え、下ごしらえとして、捕らえていたスタンレーヴィル政権の閣僚などの政治犯3000人を解放した。

特に期待を掛けていたのが、ギゼンガである。

が、ギゼンガは此れを蹴った。

ギゼンガに言わせれば、何でチョンべなんかの為に働かなきゃならんのだ、となるし、またムレレ・グベニエ・スミアロの三人を相手にして交渉するのが馬鹿々々しかった。

ギゼンガは曲がりにも軍人(ベルギー領時代は植民地軍の伍長だった)であり、政治家でもあるが、この三人とは政治が出来ないと思っていた。

ムレレはゲリラ屋、グベニエは政争屋、スミアロは扇動屋である。

平たく言うと、チンドン屋トリオであった。

交渉するだけ無駄である。

このチンドン屋が、これ程の大乱を引き起こしているのは、中央政府の怠慢と、ルムンバの威光でコンゴ東方諸国が反乱軍側にそれとなく支援しているからである。

結局ギゼンガは中央政府にも反乱軍にも加わらず、独自に「統一ルムンバ党」を組織している。


1964.8月5日、東京オリンピックまであと二カ月に迫り、世のスポーツ界が賑わっていた頃、遂にシンバたちがスタンレーヴィルを陥落させる。

此処にコンゴ人民共和国が成立し、東側諸国は早速此れを承認した。

反乱が、本格的な国造りに変わり始めたのである。

余談だが、西隣りのブラザヴィル政権も、後に共産主義化して、人民共和国を名乗っているが、まあ「people`s republic」と謂うのは、そんなに不思議な単語でも無いので、てきとうに選んだだけであろう。ただrepublic と謂うのは、元々ラテン語で「res publica」、「人民の為の~」が語源なので、ある意味二重表現とも言えるが。

さてムレレ一派の国作りとは、気に食わない連中(主に白人であったが、黒人も多かった)をルムンバの等身大の肖像画の前に連れ出して、その場で容赦なく処刑する事であった。

慌てたスタンレーヴィル詰めのアメリカ領事と国際赤十字が、金も食料もやるから、殺すのだけは止めてくれと懇願するが、ムレレは此れを蹴った。

逆にアメリカ領事を監禁してしまう。

正にやりたい放題であった。


呆れるのは、この時、調子に乗ったグベニエが、アメリカに宣戦布告をした事であった。

馬鹿すぎる。

この報がレオポルトヴィルに届いた時、

モブツも呆れた。「あいつらは馬鹿なんだろうか」

チョンべは嗤った。「馬鹿なんだろうさ」

カサヴブは黙っていた。

しかし、胸中は三人共一緒だった。

 『もう対話をする意味は無いな。』

勿論、アメリカはこんな戯言を真に受ける国では無い。

しかし、覇権国面をするホワイトハウスの住人たちが、放っておく訳も無い。

コンゴ動乱、第一幕・第二幕に於いて、絶えず対話への要求を国連軍は拾っていたが、国連とは、本来対話の為に組織だから、受け取ったのであって、アメリカ軍はそんな事はしない。この第三幕、シンバの反乱では、対話は殆ど為されないまま、終結する。

勿論、モブツのクーデターの時も、対話なんてものは無かった。


さて、スタンレーヴィルが陥落した同月、チョンべの元に白人傭兵たちが集結し、本格的な攻勢が開始される。

アメリカの支援も本格化して、ノースアメリカン社製T―28とロッキード社製C―130を中心した航空兵力が投入された。

結局、この二つが反乱を集結させる。

モブツの国軍の情けない事である。

この二つの飛行機は、何方もレシプロ、つまりプロペラエンジンで、あまりカッコ良くは無い。T―28戦闘機は元々練習機だったので、使い勝手が良い万能機。C―130輸送機は空母にも発着艦出来るその助走距離の短さが、碌な空港を持っていないコンゴにピッタリの性能であった。

しかし、美しさで言うのならば、カタンガ空軍の持っていた、フーカ・マジステールの方が上である。世界初の設計段階からのジェット練習機、そのV字翼の美しさよ。

カタンガ共和国陥落時に全て破壊されたのが、如何にも惜しい。


本格的に介入を決断したアメリカは、流石にこの反乱の要諦を掴んでいて、真っ先に飛行機を飛ばしたのが、コンゴとルワンダ・ブルンジ国境を流れる、ルジジ川渓谷であった。

航空機はその後正式にコンゴ国軍に編入されて行くのだが、モブツはパイロットを用意出来ず、結局アメリカが用意した亡命キューバ人が操縦していた。

この辺、何れキューバに攻め入る事を諦めていないアメリカのしょうも無さが表れている。

ベルギーも介入を決定した。

この辺、ルムンバ時代に採決された、国連決議143号、ベルギーを含む外国勢力はコンゴから立ち去るべし、の条文を確実に違反しているのだが、もう国連も含めて誰も気にしなかった。

大反抗作戦が開始された。


この頃、アメリカはトンキン湾事件を起こして、ベトナム戦争を本格的に始めるところである。

ケネディの後釜に横滑りで大統領に就任したリンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)大統領は、自らの正統性が緩いので、西側盟主としての威厳を内外に示そうと、東側陣営への断固たる処置を打ち出す必要が有ったのである。


チョンべの動きは早い。

早速、モブツと共同作戦を採り、先日占領されたレオポルトヴィル北方の街、ボロボを奪取したのだが、そこでムレレ一派と東側との繋がりを示す数々の証拠を手に入れている。北京で印刷されたリンガラ語とフランス語で書かれたゲリラ戦術の手引書。

そしてブルンジ王国、ブラザヴィル政権と中国との外交文書が出て来たのは、重大事件であった。

チョンべは慌ててブラザヴィル政権とブルンジ王国と国交を断絶するが、既に手遅れで、この直後に反乱軍はスタンレーヴィルを陥落させる。

1964.11月1日、西側と中央政府の連合軍がカタンガ州北部の街、コンゴロに集結する。

なんでこの日になったかと言うと、アメリカ大統領選が二日後に控えているからである。

この時点でのジョンソンは臨時大統領であった。

そこで選挙で勝利して、改めて正統なる大統領に就任し、パレードがてらコンゴでの勝利を手に入れると、そんな段取りであった。

この点、モブツもチョンべも、完全にアメリカ軍の現地法人でしか無かった。

部隊は縦列で8kmにも達する大規模なもので、前列に傭兵(コマンド部隊)たちの運転する装甲車を並べ、アメリカ軍空挺部隊とその指揮下の亡命キューバ人部隊が続き、南アフリカ人(大体アフリカーナー)傭兵とカタンガ軍が続いて、最後尾がモブツのコンゴ国軍であった。

この時のコンゴ国軍は完全に補助部隊でしか無く、この軍団の実情が明け透けに見える隊列であった。

苛立ったモブツは、自ら前線に立ち、その強靭な肉体を駆使して戦線を押し上げていた。

キヴ州カマニョラのとある橋を、戦略的に重要と見たモブツは、敵の銃撃をものともせずに僅かな部下と共に突撃し、奪回している。

この時、モブツの脳裏には、ナポレオンが1796年に起こしたアルコレ橋(もしくはロディの橋)の戦いが過ぎったであろう。

しかしその時、後に名を上げる数多の元帥たちがナポレオンに続いて行ったのだが、モブツの背後には、そんな勇士は一人も居なかった。

結局、この勝利はモブツの肉体的・精神的な伝説の補強に使われただけで、歴史の彼方にり減って消えていった。


この部隊は、チョンべ配下で、軍団の指揮を採っていたベルギー人のフレデリック・ファンデワレ(Frèdèric Vandewalle)によって、妙に浮きだった名前を付けられた。この隊列を、ベルギー・ブリュッセルで開催される祭り「L’ommegang」と呼んでいたらしい。元々の意味古ワロン語で「輪になって歩く」である。

ファンデワレはその後、1967年の傭兵たちの反乱に参加して、敗退した後にそのままコンゴを去った。その後の行方は知らない。


勿論、他の方面でも戦争は続いていた。

赤道州の大半(モブツの故郷のリサラも含む)とカタンガ州全域は9月にはもう奪還している。

此れは矢張り、アメリカの寄越した航空機の威力であろう。

航空機の力の偉大さは、海抜高度と云う、有史以来、ライト兄弟が現れるまで誰も覆す事の出来なかった距離を制する事である。

未だ鉈やナイフで武装するシンバたちに向かって、上空からの機銃掃射が炸裂した。

この時、初めてモブツの国軍から、シンバたちへの恐怖が消えたのだ。

傭兵たちも強かった。

彼らは、小部隊に別れての作戦行動と云う強みが有った。

銃の使い方として最も効果の高い、十字砲火の威力を十分に理解していたのだ。

モブツの国軍にそんな事をさせようものなら、即座に略奪を始めて行方不明になるのが落ちである。

しかし最も強かったのは、矢張りアメリカとベルギーの派遣した空挺部隊であった。


慌てたムレレ一派は、ここでスタンレーヴィルの白人たちを人質に取ると言い出した。

コンゴロから進発した部隊はこの時点で、スタンレーヴィル南方380kmの街、キンドゥを攻略したところで、もう待てないと判断したアメリカは切り札の空挺部隊を、ベルギーと共同で投入する事を決定。

グベニエなどは、アメリカ人とベルギー人の心臓をえぐり出すとか、皮膚を剥ぐとか言い出していた。もうルムンバ主義は完全に吹き飛んでいる。

1964.11月24日、ドラゴン・ルージュ、赤龍作戦が実行された。

突如として空挺部隊がスタンレーヴィルに投下され、出来上がったばかりのコンゴ人民共和国を粉砕したのだ。

この時、ムレレ、スミアロ、グベニエの逃亡を手引きしたのは、ブラザヴィル政権の大使館付き武官の甘邁だったとされる。


この時、判明したのだが、殺された白人は33人と意外と少なかった。

しかしアフリカ人の犠牲者は1000人以上であり、この人民共和国が正真正銘のならず者国家(rogue state)であった事が証明された。

最終的には、シンバたちの犠牲者は、白人200名、コンゴ住人1万名以上と言われる。

この犠牲者の中には、後に第二次コンゴ動乱の着火点の一つとなった事で有名な、バニャムレンゲも含まれていた。これはキヴ州ムレンゲ地方に住まう人々(ツチ族)と言う意味で、タンガニーカ湖を渡って来た人々なので、バニャルワンダ(ルワンダから来た連中)とも呼ばれた。

当初、バニャムレンゲ(ツチ族)はムレレ一派に加わっていたが、これは単純にシンバたちの凶暴性と残虐性を恐れたからで、だからスタンレーヴィル陥落後は、アッサリと中央政府に助力した。シンバたちの残党が、家畜の牛の強奪を始めた上に、ムレレもルムンバも興味が無かったので、反乱など忌むべき騒乱でしか無かった。

しかし周囲から新参者と見られていたバニャムレンゲは、この一件でルムンバ派の多いコンゴ東部で孤立して行く事になる。

モブツはバニャムレンゲを自身の身内に取り込もうとしたのだが、自身の不人気もあって結局は失敗した。

この事が、1997年のモブツ失脚とそれに続く第二次コンゴ動乱の引き金になって行く。


スタンレーヴィルを失って後、ムレレ一派はどうなったかと言うと、分裂していた。

何故ならこの時点でコンゴ動乱はそのまま東西冷戦の代理戦争なのだ。

つまり、中ソ紛争がそのままムレレ一派に持ち込まれた。

呉越同舟と云うのは、船が進んでいるから同道しているのであって、船が進まないのならば、降りて殺し合いである。

元々幹部同士の中も悪く、1965.4月には、中国よりのスミアロ、ムレレ、カビラが新組織を立ち上げている。

尚、それぞれの中国語表記は

加斯東・蘇米亜洛(ガストン・スミアロ)、皮埃尓・繆弥尓(ピエール・ムレレ)

洛郎・卡比拉(ローラン・カビラ)である。

読めるだろうか。

なんで中国人は素直にカタカナを使わないのかは、正直不可思議である。

しかし結局、ソ連派のグベニエも含めて、皆纏めてコンゴから追放される。


しかしベルギーの大規模な介入は、アフリカ諸国とアフリカ統一機構(OAU)から公的に非難され、新植民地主義は許されないとして、国連決議に掛けられた。

結局1964.12月30日の国連決議199号で、傭兵たちはコンゴから出て行けと言う話になった(フランスは棄権した)。一応は「あらゆる国家による干渉を自制せよ」と云う文言であるが、アメリカもソ連もそれとなく外されているのは、この二国はアフリカに植民地を持った事が無いのと、ベルギーが小国だからである。


年が明けて1965.1月13日、ウガンダで東方アフリカ諸国の代表者が集結し、ムレレ一派と会見をもった。ルムンバの威光は未だに有効であり、この席でタンザニアとウガンダが援助を約束した。

2月7日、アメリカが何をトチ狂ったのか、北ベトナムのタンホイ空軍基地を空爆。一か月後には海兵隊の上陸作戦を開始している。

ベトナム戦争が本格的に開始したのだ。


1965.4月23日、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna)が14人のキューバ兵と共にコンゴ東方のタンザニアから密かに入国。

この頃には反乱の主動はキューバ兵、ルワンダ難民(ツチ族)、ウガンダ兵となっている。

キヴ州南の、カタンガ州との境界の辺りの村、キバンバに基地を作った。

しかし本来主力である筈のシンバたちがだらけ切っていて、幹部たちも分裂。ツチ族にしてもコンゴ情勢よりもルワンダを注視しているし、コンゴ北東部スーダン方面も完全に制圧された為に、キヴ州のタンガニーカ湖近辺の山々で蠢動しゅんどうするしかやる事が無かった。

ろくな支援も地盤も無かったので、暫くしてキューバ兵は飢え始め、ウガンダもモブツとアメリカ軍の逆襲を食らって退散。結局ゲバラもキューバ兵を連れて11月22日にはコンゴを去った。


反乱軍の活動も、1965.5月頃にはもうしぼんでいて、大規模な衝突はこれ以降発生していない。

10月には粗方シンバたちの掃討も終っている。

反乱軍の幹部たちは全員コンゴから追い出され、グベニエは先述したようにヨーロッパで流浪人になり、ムレレはブラザヴィルに逃げ込み、スミアロはこの後生死不明になり、何処で死んだのかすら定かでは無い。

そうなると、政争の時間に突入するのだった。

(カビラの動向が大分あやふやで、コンゴ東部にゲリラを率いて野盗国家を築いていたとか、ルワンダやブルンジを転々としていたとか、ハッキリしていない)

基本的に、コンゴの内紛と言うのは、政争が西部で起こり、動乱が東部で起こる。

何しろ首都が西部の、ブラザヴィルの真向いのコンゴ河沿い、つまりは西の国境線上に存在しているのに、東部は鉱物資源が豊富で深い密林も有り、動乱と虐殺の絶えないルワンダ・ブルンジ両国が近いので、火種が山盛りなのである。仕方が無い。

西政東闘(政争と闘争)、此れが近代コンゴの歴史である。


こうなると窮地に追い込まれるのが、首相であるチョンべであった。

なにしろシンバたちを追討する為の役職である以上、戦乱が追わればもう用済みなのだ。

そこでチョンべは先手を打って、1965.2月、コンゴ国民会議(Conaco)を作っていた。

(コンゴ独立時に作っていたのはコナカ(Conakat)党)

カタンガ人とコンゴ南部の諸党、そしてカロンジ派とアドゥラ派も少し合流して誕生した政党で、暫定的なコナコ政権の下で、首相チョンべ、内相ムノンゴ、生き延びたカロンジが農相に就任した。モブツは中将に昇進して(コンゴ国軍に元々大将は設置されてない)商務・雇用・貿易相の位に居た。

独裁者になって後、モブツはこの三つとも食いつぶした。

この時に、国名が「コンゴ民主共和国」に改名されて、隣国ブラザヴィル政権と名前が全く同じだと謂う、ややこしい事態が解消された。


しかしまあ、泉下のルムンバが激怒しそうな組閣である。

そんな中、戦火も治まって来たので選挙をする事にした。元々シンバの反乱が無ければ実施していた筈の選挙である。(グベニエが反乱軍に転んだのは、選挙の前準備として議会が解散されたから)

この時に備えて、モブツも翼賛政党、つまりモブツのイエスマン政党の人民革命運動(MPR)を4月の段階で組織していた。

ところが、この選挙が、ここに来てコンゴ動乱の新たな火種を生み出したのだ。

なんとチョンべのコナコ党が大勝して、正式にチョンべ首相の地位が確定したのだ。

調子に乗ったチョンべは、翌1966.1月に予定されていた、大統領選挙にも意欲を見せていた。

モブツが民主主義にハッキリと見切りを付けたのは、この時であろう。

いくら何でもチョンべは無い。

この男が、カタンガ独立、なんてものを、1960.7月11日にぶち上げなけらば、コンゴ動乱はもう少し穏当な、話し合いだけで済んだ公算が高い。

欲望を基準に動く男である。

ルムンバを殺し(死体は硫酸で溶かされて無くなったので、公的には行方不明)、南カサイ鉱山国を支援し、ベルギー軍を引き込み、白人傭兵たちを集め、中央政府軍・スタンレーヴィル政権軍・国連軍との全面戦争を引き起こしたこの男は、紛れも無く戦争犯罪人である。

それが、選挙で当選した。

モブツは、この時ハッキリと、コンゴ国民への興味を無くした。

この後の、独裁者モブツの治世には、愛が無い。


慌てたのは、大統領のカサヴブである。

用済みとして切り捨てようとしたチョンべが、当選してしまった。

第一カサヴブ自身もチョンべを信じてはいない。

実際問題、独裁者チョンべが誕生する気配は有った。

悪いのは、チョンべの力の源泉は白人傭兵たちだと謂う事で、これではコンゴが独立した甲斐が無い。

この点は、モブツの方がマシだろう。モブツの力の源泉が国軍、つまり純然たるアフリカ人の集団なのだから。

ここで問題なのは、カサヴブがブラザヴィル政権との国交正常を言い出した事である。

此れにはモブツも反対した。

ブラザヴィルには、逃げ延びたムレレが居るのである。

レオポルトヴィル―ブラザヴィル間の、正式の大規模水運が開通しては、またぞろ何が起こるか分かったものでは無い。

しかしカサヴブは、自身の生命線を外交に求めており、アフリカ統一機構(OAU)の関心を買う事で精一杯であった。


結局カサヴブが首相に指名したのは、エヴァンリスト・レオン・キンバ・ムトンボ(Èvariste Leon Kinba Mutonbo)だった。

所属はカサヴブ配下のアバコ党では無く、バルバカ党である。

1960.6月30日の独立時点では、商務大臣を担当していた。

バルバカ党は、コンゴ動乱第二幕において、北カタンガで大騒動を起こし、北部独立を主導した連中である。チョンべへの嫌がらせとしては、うってつけだ。

しかしバルバカ党の規模が小さいのが問題だった。

チョンべ派が多数を占める議会は、当然のようにキンバ首相を拒否。

カサヴブは再度キンバ任命を表明するが、またまた拒否。

ここに来て、ルムンバの時と全く同じ状況が生まれたのである。

当然、結末も同じであった。


1965.11月24日、モブツ、二度目のクーデター発動。

この日より独裁者モブツが誕生するのである。

この時、35歳。

またまたカサヴブは幽閉され、チョンべは泡を食って再びフランコ政権下のスペインに逃げた。

カサヴブはそのままひっそりと、四年後に死んだ。享年59歳(生年があやふやで、52歳説も有り)

モブツは早速、所信表明を行った。

と言っても演説をラジオでぶち上げたのでは無い。

この男にそんな才能は無い。

行われたのは、公開処刑であった。

生贄は、元首相のキンバである。


日にちが、秀逸であった。

逮捕されたのが1966.5月30日、この年の聖霊節の祝日であった。この日に裁判ごっこも同時に済ませた。

処刑されたのが翌日である。

30万もの民衆の前で、キンバと三名の閣僚が絞首台に架けられた。

モブツは、コンゴに新しく政治犯(負け犬)の公開処刑と謂う娯楽をもたらしたのだった。

首相には、配下のてきとうな大佐を指名した。

この首相もこの後直ぐに罷免される。


全くの余談だが、この時期、コンゴ北隣りの中央アフリカ共和国でもクーデターが起こっていて、後に皇帝を僭称せんしょうするジャン=べデル・ボカサ(通称・皇帝ボカサ一世)が政権を掌握している。


1966.6月30日

独立六周年式典が華々しく挙行され、モブツはルムンバを「国民的英雄」とたたえ、自らをその後継者であるかのように演出した。

この時、「ルムンバ的」政策として、主要都市の現地化を行っている。

首都レオポルトヴィルはキンシャサ(Kinshasa)へ

カタンガ州のエリザベートヴィルはルブンバシ(Lubumbashi)へ

東部州のスタンレーヴィルはキサンガニ(Kisangani)へ

赤道州のコキラヴィルはムバンダガ(Mbandaka)へ

カサイ州のルルアブールはカナンガ(Kananga)へ

キヴ州のブカヴは独立時そのままである

この時、コンゴ住民は、ようやっと長く苦しい動乱が終結した事を実感したのである。


この動乱の死者の総数は、一般に10万人とされている。

明らかに多すぎる。

軍の規模として、おおよその数はそれぞれ

コンゴ国軍:25,000

国連軍:8,400→20,000

南カサイ軍:2,000

カタンガ軍:15,000

スタンレーヴィル軍:7,000

シンバたち:不明(多く見積もっても10,000程度?)

実際の数で言うと、瞬間的にシンバたちはもっと多かった可能性は高いが、大した行政能力を持たないムレレ派の組織では、10,000以上の数はまとめきれはしなかっただろう。

こうして見ると、第一次コンゴ動乱における総参戦者数は9万人足らずと言ったところか。

これでは10万人はとてもじゃないが、殺せやしない。

国連軍以外は、ろくな軍団では無いのだ。

アイルランド・インド部隊700とカタンガ軍3000が激突した、ジャドヴィル(Jadotville)の包囲戦でさえ、両軍合わせての死者は300人余り(しかも殆どがカタンガ兵)であった。

独ソ戦のような、高度な練度と装備を兼ね備えた軍団が、真っ向から何年も激突し続けるような戦争でないと、10万の軍団で10万の死者は出せない。

この死者の原因は、疫病である。

何せ多数の外国人を含む、大量の兵士たちが、コンゴ全土を掛けずり回ったのである。

家を追われた住人たち、破壊されたインフラ(特にきれいな水)、略奪される物資。

戦場が移動するとは、そのまま疫病も移動する事なのだ。

当然、10万人の死者の上に、何十倍もの怪我人や病人も発生している。

その為に、この動乱が終るなら誰でも良いや、と云うのが、住人の本音であった。

モブツはこの本音に上手いこと乗っかるのである。


しかし爆弾は未だコンゴに残っていた。

チョンべに置いて行かれた傭兵たちである。

名の有る部隊としては、三つ有る。

トーマス・マイク・“マッド・マイク”・ホアー(Thomas Micheal “Mad Mike” Hoere)この時46歳。インド生まれのアイルランド人で、第二世界大戦時はマウントバッテン将軍の麾下で日本軍と戦った。

大戦後は南アフリカ連邦に移住しており、コンゴ動乱に白人傭兵を率いて参戦した。

シンバの乱の時は第五コマンド部隊を担当し、ドラゴン・ルージュ作戦にも参加している。

部隊のコードネームは「ワイルドギース」

傭兵の、傭兵らしさの、全てを表す名前であろう。

この辺、ネットを見てビビったのだが、この人はなんと2020年まで生きていた。享年100歳である。南アフリカの港町、ダーバンで亡くなった。コンゴ動乱の参加者の中で、間違い無く一番長生きしている。

次にロベール・“ボブ”・ディナール(Robert “Bob” Denard)、この時36歳。

フランス人だが、前歴がはっきりしていない。

1952~7年までモロッコ王国で警察官をしていたらしい。

その後何故かフランス本国でセールスマンになり、結局傭兵になった。

率いるのは第六コマンド―部隊。コードネームは知らない。

この人も長生きして、2007年まで生きた。享年78歳。

最後にジャン・シュラム(Jean Schramme)、通称ブラックジャック。この時36歳。

ベルギー人で、親も本人も医者では無い。

上記二人と違うのは、この人は元々コンゴに住んで居た事である。

14歳の頃に移住し、スタンレーヴィルの近所に、大農園を構えていた。

中国・ソ連やルムンバ派、他のアフリカ諸国は、傭兵たちを新植民地主義の手先だとか、西側の先兵であるとか言っていたが、この人は確実に違う。

この人は純然たるルムンバ主義の被害者なのである。

ルムンバの独立宣言が、一夜にしてこの呑気な農場主を地獄に叩き落とした。

農場は破壊され、秩序は崩壊。白人と謂うだけで女たちは強姦され、子供は泣いたまま殺された。男は激怒して銃を取り、ブラック・ジャックが誕生するのである。

現地白人を纏めると傭兵団を組織し、カタンガへ行きチョンべの配下となった。

シンバの乱の時の担当は第十コマンド―部隊。この隊は舟艇しゅうてい部隊も持っていた。

この人にしてみれば、ルムンバ主義がそもそものコンゴ動乱の原因だと、言うだろう。

その通りでは有るが、そんな事コンゴ住民には言えないのだ。

この人も長生きして、ブラジルに移住し1988年まで生きた。享年69歳。

この時には、もう呑気な農場主であった。


この傭兵たちは、コンゴがモブツのものに成った後も、シンバたちの掃討を続けていた。

どうもこの頃には、チョンべよりも、直接西側諸国との結びつきの方が強くなっていたらしい。カタンガ消滅時は、そそくさと逃げた傭兵たちだが、この時は微妙に逃げ時を無くしていた。

しかしその任務も1965年いっぱいでもう終わりである。

来年からどうしようか、と傭兵たちは不安であった。


年が開けて、1966年。

この年から、モブツの本格的な治世が始まる。

モブツの治世の特徴としては、何やら中国的である事である。

正確には中国共産党式と謂うか、コンゴ河沿いの住民たちから、「コンゴ国民」を生み出そうとした痕跡が見える。

この年に、都市の改名作業に取り掛かっており、その流れはこの後も続いて行く。

モブツが起こそうとしたのは、文化革命である。

まあ、上手く行かなかったのだが。

一先ず、動乱の後始末の話を先に済ませよう。

モブツは、傭兵たちの根拠地である、カタンガの締め付けに走った。

ユニオン・ミニエールは国有化され、これ以降モブツの財布として生きていく。

この事は、少々込み入った理屈が有るので、後で少し説明する。

しかし傭兵たちの立場は宙ぶらりんである。

潜在的ながんだと、モブツは見ていた。

しかしモブツの国軍の弱い事、はなはだしいのも事実である。


独立六周年式典を終えて、一息ついたものの、モブツも傭兵たちも、正直落ち着きが無かった。

そうこう悩んでいる内に、またぞろベルギーの陰謀がコンゴに流れ込んで来た。

残されたカタンガ兵が、雑多な白人傭兵をかき集めて、反乱を起こしたのである。

1966.7月2日の話だった。


反乱軍は、即座にキサンガニ(元スタンレーヴィル)を占領するも、しかし後が続かない。

反乱に、呼応する勢力が、コンゴに居ないのだ。

致命的なのが、首都キンシャサ(元レオポルトヴィル)に何の動きも無かった事である。

この辺、二流ながら、モブツも一端いっぱしの独裁者であった。

モブツはチョンべ(正確にはカタンガ勢力)と関係が深いと見て、南隣りのポルトガル(の植民地アンゴラ)と断交すると、東方諸国との外交を開始して、憂いを絶つ。

結局、第五、第六、第十コマンド部隊がモブツ側に着いた事で、趨勢すうせいは決した。

反乱軍の数は、1,100程だったとされる。

国軍の包囲を受けると、もうどうにも成らず、慌ててカタンガに帰ろうとする所を、国軍の航空兵力によってボコボコにされた。

操縦する亡命キューバ人パイロットたちは、一体どんな目で、この敗残兵たちを見ていたのだろうか・・・


降伏を申し出た反乱軍に対し、モブツは一旦は受けるも、武装解除を見届けて即座に反故ほごにした。殺すだけ殺すと、カタンガ兵は命かながら逃げ出した。

モブツはもうしっかりと、傭兵戦力の解体を決意した。


残された、コマンドたちも、正直なところ、空気の変化を敏感に感じ取っていた。

国軍兵士たちの視線が怪しくなって来たのである。

国軍は、今やモブツの私兵軍である。

私兵たちは、主人の思惑をしっかりと理解していた。

そんな中、傭兵コマンド部隊の解体が行われるのである。


先ず行われたのが、マッド・マイクの第五コマンド部隊の解体である。

この部隊は、傭兵たちの中でも、最大最強と目されており、その動向は世界的に注目されていたが、モブツとの関係性が良く、以外にすんなりと終わった。

しかし、ここで残された第六、第十コマンド部隊に、チョンべが接触して来るのである。

時機を完全に逸している。

何で、先のカタンガ兵の反乱の時にやらなかったのか、この辺がチョンべの敗因であろう。

花火を上げるのならば、それは出来るだけ派手にやらなくてはならない。

モブツは些少さしょうなりとも、それを理解していたが、チョンべは理解していなかった。

動くのならば、先の傭兵反乱と同心して行う必要が有るのに、それをしなかった。

精強なりとは言えども、高々部隊二つ分の反乱で一体何が出来ようか。

結局、この反乱はチョンべの勢力を糾合して、1967.7月5日にキサンガニとブカヴを占領するも、カタンガ兵は白い槍先を持つ黒い柄だと見られた事で、白人コマンド傭兵は新植民地主義の手先と見られた事で、周辺住民の支援を得られずに覆滅された。

復活を志したチョンべは、先んじて身柄をフランス当局に抑えられており、そのままアルジェリアに軟禁される。

結局、そのままアルジェリアで1969年に死亡する。享年49歳。

暫くは、コンゴでけち臭いやつの事を、「チョンべのようだ」と表現していたと言う。

残党たちは1967.11月4日、ルワンダに逃亡し、傭兵たちは完全にコンゴから居なくなったのである。

残るピエール・ムレレも、ブラザヴィルで居場所を無くしていき、1968年に恩赦を餌にモブツにおびき出され、ねぎを背負ってキンシャサに来たところを、まんまと殺された。

享年29歳。

アントワーヌ・ギゼンガは、1965年のクーデターの隙を突いてコンゴを脱出して、亡命生活に入った。

1992年にコッソリと帰国。

2006年の民主選挙で、首相に任命されており、この時81歳であった。

死んだのは何と2019年である。享年93歳。

不死身そのものであった。


裏切り、正義、欲望、善意、銃撃戦、戦闘機、話し合い、介入、決裂、誕生、滅亡

何でもあった第一次コンゴ動乱であるが、致命的に存在しなかったものが、一つだけあったせいで、戦記として書こうとすると、駄作にならざるをえない。

英雄が一人も居ない事である。

核爆弾も無かった(カタンガ州ではウラン鉱石が産出する)が、それが有ったら、もう筒井康隆の「アフリカの爆弾」である。


こうして、国内の反乱分子を一掃した事で、独裁者モブツが誕生した。

一山越えて、わたしの負担も大分楽になった。

モブツの治世など、めるところが無いので、けなしていれば、もう言う事などは無い。

まあそれでは芸が無いので、この稿では、もう少し詳しく述べるが。

首相職も廃止し、議会も解散し、コンゴからは、モブツ以外の政治的実権を持つ組織は消滅した。

しかし政府の中核を担う知識人の数が圧倒的に足りていない現状は、独立以来何も変わっていない。

何しろ、1960年の独立時の学位取得者は16人しか居ないのに、その後即座に内乱に突入したのである。1965年になっても、50人も居なかったであろう。

ベルギー領コンゴに於いて、ちっぽけな大学が設置されたのが1954年の話なので、まあこんなもんである。

1960年の日本を見てみると、新規の大学卒業者数は11万9809人と有る。

この差は、そのままコンゴと日本の国力差である。

言ってはなんだが、この程度の国だから、モブツが独裁者になれたのだ。

そして現代(2019年)に至っても、コンゴの大学進学率は6.6%しか無い。

モブツが居ても、良い国ではなかったが、モブツが居なくなっても、繁栄も発展も無かった。

この辺、コンゴ住民も薄々気付いているらしく、2006年にモブツの息子、36歳になったフランソワ・ジョセフ・モブツ・ンザンガ・ンバンガウェ(François-Joseph Mobutu Nzanga Ngbangawe)がキンシャサに帰って来ると、この男を投票で国会議員に選出した。

この時の首相は、帰ってきた「不死身」のギゼンガである。

同年、スイス銀行に預けられていたモブツの遺産の凍結も解除されている。


国連難民高等弁務官事務所に務めていた、米川正子氏の書いた本の表題が秀逸である。

「『コンゴ』―平和以外に何でもある国―」

本来、モブツは平和をもたらす者であった筈なのだが・・・

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る