第3話 独裁者モブツと第一次コンゴ動乱の話・上

モブツの話をしようと思う。

正直、そんな事はしたくない。

しかし、このザイールの独裁者であった男は、良くも悪くも(良い点など無いが)アフリカの独裁者の印象として、きわ立った立ち位置を持っているの事は、疑いようが無い。

アフリカに居るその他の独裁者も、大体モブツと似た者同士なので、モデルケースとして紹介する事にする。

これが実にまらない。


結論から言うと、モブツは二流の独裁者である。

なによりもこの男は、自国を微塵みじんも愛してなどいなかったのだから。

フランスの一流の独裁者であったナポレオンは、自国のワインをたしなみ、自国の料理に舌鼓したづつみを打ち、自国の芸術を愛した。

モブツが愛したのは外国製のワイン、外国製の帽子、外国風の宮殿であった。

フィレンツェの一流の独裁者であったコシモ・ディ・メディチは、今日こんにちに至るまでその名をとどろかすルネッサンスによる花と芸術の都の名を、故郷に残した。

モブツの後に、ザイールに残ったものなど無く、ザイールと謂う国名すら消えてしまった。

結局のところ、この男はザイールと謂う利権の王であって、一度たりともザイール国民の王であった事は無いままに、死んだのだろう。

モブツは、知り合いのCIA局員に対して、マキアヴェッリの「君主論」を愛読していると、自慢していた話が残っている。

恐らくはその中の有名な一節

「君主たるものは、愛されるよりも恐れられるほうが望ましい」

を都合良く解釈したのだろうが、論語読みの論語知らずである事は、疑いようが無い。

マキアヴェッリがチェーザレ・ボルジアを顕彰けんしょうしたのは、チェーザレがあのときのイタリア半島の時代性(ネチェシダ)を誰よりも理解し、その改革を実行していたからである。

モブツにそんな発想は無い。

モブツの時代性、などは精々1984年のロサンゼルスオリンピックに、西側諸国として堂々と参加した位のものである。

モブツの治世と言うのは、人々が「第15条、うまくこなせってことさ!」と言って汚職に手を染めるだけの秩序であった。

尚、この第15条とは、元々は動乱時に生まれた南カサイ鉱山国の憲法第15条の事である。

ただこの15条が、コンゴ河両岸(キンシャサ=ブラザヴィル間の事)の水運における障害者ビジネスを生み出した事は、一つの愉快さを以て話して良いだろう。


しかしモブツの話をするからには、その地盤となったコンゴ、と謂うクニの話をしなくてはなるまい。

このクニに起こった動乱は、第一次、第二次共に実にアフリカらしい動乱であり、他のクニに起こった動乱のほとんどはこの類型に当てはめることができそうだ。

無論の事、ボツワナには一つとして当てはまらない。

幸運も多いが、矢張やはり指導者としての資質が、セレツェとモブツと、ボツワナとコンゴとでは違い過ぎたのは、間違いないだろう。


コンゴ民主共和国

何処に在るのかと聞かれると、L字型に大西洋に向かってひん曲がったアフリカ大陸の、その大西洋側のくぼみのところに在る。

赤道直下に在り国土の3分の2は赤道の南側に張り出している。

国土の大部分がジャングルで覆われており、ニシローランドゴリラが住んでいる。

しかしこんなガイドブックにっていそうな話では、現実感が沸かないだろう。

だから、わたしは少々現実感の有る話を、これからしようと思う。

つまりは人間の話である。


そもコンゴ、と謂う名前は、海から見た言い方である。

コンゴ人自体が、そもそもコンゴ河の河口域にしか住んでおらず、コンゴ王国の首都であったンバンザ=コンゴが有ったのも、太平洋に程近い、アンゴラの北西部である。

実のところ、このコンゴ王国の領土の大部分が有ったのコンゴの南隣の国であるアンゴラで、コンゴ王国は、今日こんにちのコンゴ盆地の中ではわずかな土地を支配していただけであった。

大航海時代が来て、この地にポルトガル人がやって来た。

大西洋沿岸地域にこのような大河があるのを驚いたポルトガル人は、現地人にこの河の名前を尋ねた。

この時、現地人は「コンゴ」と言ったはずである。

しかしこの「コンゴ」とは彼らにとっての天下の名前であったろう。

コンゴとは彼らが住まう天地の名前であり、彼ら自身の名前であった。

だからその地に住まう彼らも、コンゴの人であり

この地に流れる河もまた、コンゴであった。

そうでなければ、山を意味する「コンゴ」を河の名前にはすまい。

アフリカ大陸の中部は、西も東も山に囲まれており、この西の山脈にコンゴ人たちは住んでいた。

(東の山脈に住んでいたのが、フツ族とツチ族で、彼らは1994年に大虐殺を起こす)

しかしポルトガル人にはそんな事情はわからないので、この河はコンゴ河となり、その流域の巨大な盆地もまたコンゴ盆地となった。

また、Nzadiと言った記録も有る。

力強い河と云う意味で、これがフランス語に訛って「ザイール」になるのである。

それは力強いであろう。

コンゴ河はキンシャサ=ブラザヴィルの面する三日月湖(マレボ湖)から大西洋に向けて350kmかけて270mの落下を続ける一大急流を持っているのだから。

大西洋から見れば、密林の崖の連なる中を切り裂くように、大河が流れているのが見えるはずである。わたしは見た事が無いが。

しかし名前がいたただけない。

この急流の名前がリビングストン滝と総称しているのである。

ここは是非ともNzadiに戻して欲しい、と言いたくなる。

リビングストンはこの河を見ていないし、植民地支配の眼差しがアリアリと浮かんできてしまう。


わたしはコンゴ語話者の知り合いは居ないので、詳しくは知らないのだが、どうも複数形になると「ba」が頭に付くらしい。州名にも「バコンゴ州」と書いてあったりするので、この稿では民族名を「バコンゴ人」としておく。

ポルトガル人来訪からしばらく経った、1885年のベルリン会議の時、河の事情がそのまま盆地の住人の命運を左右した。

コンゴ河を基準として国境線が引かれたのである。

元々コンゴ河の利権は、先発のポルトガルが握っており、河口域の南岸をポルトガルが獲った。後のアンゴラである。例の如く、このクニも独立した後悲惨な内戦になった。

抜け目の無いポルトガルは、コンゴ河の北にも飛び地(カビンダ州)を確保していた。

コンゴ河の河口域は獲れなかったが、中流域の西岸を獲ったのが、西アフリカから東進して来たフランスで、今日こんにちのコンゴ共和国である。

ド・ブラザ伯爵がその任を担ったので、首都の名前はブラザヴィルである。

フランスはコンゴ河の北方も確保していた。今日こんにちの中央アフリカ、とそのままズバリの名前で呼ばれている。

正確にはコンゴ河に匹敵する大支流、ウバンギ河の北岸がフランス領になっていて、大型船は中央アフリカ共和国の首都バンギまで航行可能である。

そしてポルトガルとフランスを出し抜く形で、コンゴ盆地の大部分をかすめ取ったのがベルギーであった。コンゴ河流域は全て、ベルギー領となり、上流域は支流の水源に至るまで、ベルギー王のものとなった。おかげでベルギー領コンゴは、広大な内陸部に対して海に面した土地とそこに繋がる箇所が少なく、大西洋に面しているのがコンゴ河の河口部と北岸40kmまでしか無い。国境線を見るとたこが、か細い口を西に向けているようにに思えてくる。しかしこの領土宣言はベルギー国王レオポルト2世の独断専行と言って良く、この事で国王はベルギー政府と対立する事になる。


ベルギー統治時代の話はここではしない。

当時にいてさえ、悪評の強い統治であったとは言っておく。

こうして後のザイール、今日のコンゴ民主共和国の領域が形成された。

しかし、この盆地にはこの時点で200を越える部族が住んでいて(この中には小人族として知られるピグミー族も含まれる)お互いに文化・風習も違えば、言葉すら満足に通じない有り様であった。

それも厳密に分かたれていた居住域を持っていた訳でも無く、一つの土地を、焼き畑予定地として持つ部族、狩猟地として持つ部族、通路として利用する部族が居たはずである。

コンゴ河では鯉の仲間も多く生息しており、それをりょうして生計を立てる民族も居た。

この盆地のクニが独立した時の人口は1400万人、面積は234万キロ平方メートル(日本の6倍以上)なので、人口密度は1平方キロメートル当たり6人足らずと言ったところになる。

ベルギーがこの地に行った開発とは、南東部のローデシア(後のザンビア)に近いカタンガ州の鉱山を、上カタンガ鉱業連合、通称ユニオン・ミニエールに採掘させ、産出した鉱石をコンゴ河に乗せて、大西洋に面した港町マタディや首都ボーマ(1926年まで)から輸出させる事であった。

コーヒーやパーム油、ゴムや象牙の輸出も盛んで、1953年には輸出額は4億ドルを越えていたいたと言われている。

その後、鉄道が内陸部と繋がった事で、首都は上流のレオポルトヴィルに移転して、今日キンシャサと呼ばれている。

必然的に、ベルギーの築いた都市も、全てコンゴ河とその支流に集中していて、今でも、コンゴの都市を示した地図に、河川図を合わせると、見事に水辺に集中している事がわかる。


コンゴ盆地の民族の特徴は、明確な多数派が存在しない事である。

バコンゴ人はコンゴ河の河口付近にしか住んでいない上に、居住地がアンゴラと両コンゴの国境線で三分割されてしまった。

独立時のコンゴ六大州の内、州一つ分支配できるだけの影響力を持つ民族は、一つも無く、かつて王国を築いた事のあるバルバ人でさえ、せいぜいカタンガ州の北部からカサイ州南部に領域を持つ程度しか支配できなかったのだ。

では独立時の六大州をここで述べておく。

この州は実のところ、内戦中の1963年にはもう改編されているのだが、この話はそのまま最後の幕引きまで使う事にする。

西から、大西洋沿岸部と首都を擁するレオポルトヴィル州

その北に位置する赤道州

中央部南辺に位置するカサイ州

北東部に位置する東部州

南東部に高原地帯とコンゴ河の水源域を領するカタンガ州

東の、カタンガ州と東部州に挟まれてキヴ州

(ヴィルはvilleと書き、フランス語で~市を意味する)

ここに、『?』を裏返して横に傾けた形のコンゴ河(・が付くのは大西洋側)を重ねてみると、こうなる。

先ず、源流が有るのが、エリザベートヴィル(カタンガ州都)近郊の高地で、ここから北上して、キヴ湖畔のブカヴ(キヴ州都)からの支流が合流して、スタンレーヴィル(東部州都)を越えると、流れは西向きに上弦を描いて赤道を少し越えて、コキラヴィル(赤道州都)の当たりで緩く南下して又赤道を越える。そこから真っ直ぐ南下していき、西北から大河ウバンギ河と合流して、首都レオポルトヴィルへと至る。

ここから急流となり、流れを西に向けて大西洋に至る訳である。

但し、カサイ州も州都ルルアブールも、この『?』の内側に入っている為に、コンゴ河にはかすりもしない。この州だけなんか仲間外れであった。

動乱の舞台は、こんな地勢である。

この六つの州と六つの都市の覇権をかけて、第一次コンゴ動乱は行われたのである。

この動乱の特徴は、英雄など一人も居ない事であった。

雑な配置を記すとこうなる。

   |

   |  コキラヴィル―――――――スタンレーヴィル

 大 |  |                   |

 西 |  レオポルトヴィル            | ブカヴ

 洋 |  |                   |

   |――●       ルルアブール      エリザベートヴィル

   |


実のところ、このコンゴでは民族運動の歴史が浅いのが特徴である。

1920年代に、アフリカ化した現地のキリスト教会と民族運動が結びついて、カタンガ州でキタワラ運動が、バコンゴ人の間でキンバンギズム運動が立ち上がったが、直ぐにベルギー当局の手で鎮圧された。

(その後、キンバンズム運動は復活し、21世紀なっても繁盛している)

第一次コンゴ動乱の下地が出来上がったのは、第二次世界大戦後の話になる。

戦場と化した本土の立て直しの為に、1949年からベルギー本国は10年計画の500億ベルギー・フランの一大投資計画を発表し、この時になって初めて、コンゴ河沿いの集落が都市化して行ったのである。ナチスドイツに国土を荒らされた状態で、よくもそんな大金を出せるものだと思うが、しかしアメリカからの一大援助計画・マーシャルプランが始まったのが、1948年だと言うから、不思議でも無いかもしれない。

1946年から交換比率は1米ドル=50ベルギーフランに固定されたので、500億は50億米ドルになる。10年計画なので、初年度には5億米ドルは欲しいか。

やっぱり辛いかもしれない。ベルギーに渡されたのはルクセンブルク(ここも同価値のフランを使っていた)と合同で総額5.37億米ドルである。

よくもまあ、出せたものである。流石に先進国であったと言うべきか。

コンゴの産出品にダイヤモンドが有ったのも幸いした。ベルギー本国港町のアントウェルペン(アントワープ)は欧州随一のダイヤモンド加工の町として知られており、二次大戦後の復興期に於いて、工業用ダイヤモンドはまさに売れ筋商品であり、一時は世界の需要の70%をコンゴが産出していたと言う。

とは言えこの時、都市と言う拠点が出来上がった事で、初めてコンゴ全土を戦場とした動乱が出来る条件が整った、と言うと、皮肉が過ぎるか。

この時、ウランも産出された事で、この密林と大河しかないコンゴにも、東西冷戦が影響してくる。

モブツの生まれ育った時代とは、こういうものだった。


1930.10月14日、モブツは赤道州のコンゴ河沿いの町、リサラに生まれた。

赤道直下の村である。

弱小部族であるンバンディ族のキリスト教カトリックの夫婦

マリー・マドレーヌ・イェモとアルベリク・ベマニの家に生まれたのだが、どうも母は結婚以前にモブツを身ごもっていたようである。

独裁者になった後にも、モブツの前に現れなかったところを見ると、この実父はあるいは死別していたのかも知れない。

それはともかく、この父親アルベリクの方は料理人をしていたと言う話なので、モブツ少年も地域共通語のリンガラ語で「歯が有る時にトウモロコシを食べなさい」と言われて育ったのかも知れない。

後にモブツはコンゴをザイール化(モブツ化)していく過程で、国民にリンガラ語の使用を奨励しょうれいしているところを見ると、そんなに不幸な少年時代では無かったようだ。

まあ、単純に軍隊用語としてリンガラ語は使用されていたので、そのまま拡大させただけかもしれないが。

とは言え両親は共働きで忙しく、実際の養育は祖父と大おじが負担していたらしい。

この大おじから貰ったのが、「モブツ」性である。民族の言葉で「ほこり」を意味しているのだが、まあ悪い意味は無いだろう。

身の回りのものから名を付けるのは、古今東西珍しくも無い。

この時、初めてこの少年の名前が「ジョセフ=デジレ・モブツ」(Josep-Dèsirè Mobutu)となった。

しかしカッコいいとも言えないので、独裁者になってから「セセ・セコ」を名前に取り付けた。意味は「永遠」である。

しかし複数の名前を使い分けても、わかりづらいので、この話ではモブツで統一する。

幼い頃から利発さを発揮していたモブツ少年は、父親の雇い主のフランス人夫婦に気に入られ、フランス語教育の手解きを受けていた。

しかし、8才の時に、父親が亡くなる。

一人で4人の子供を育てる自信の無い母親は、北上して中央アフリカに程近い故郷のカウェレに移り住んだ。この近くには亡くなった父親の故郷もあり、夫の親族の手伝いも期待出来たからだ。

この父親の故郷がバド=リテで、後にモブツが大宮殿を建てる。

ここから赤道州の州都、コキラヴィルのキリスト教系の学校に入学するのだが、落ち着きが無く放浪癖があった為に、1949年に退学処分を受ける。

行き所を無くしたモブツは、強制的に植民地軍に入れられた。1950.2月の事である。

しかし体力のあるモブツは、ここで通信教育でルルアブール中央学校への入学を許可され、優秀な成績を残して1953.1月、上から2番目の成績で卒業し、秘書・会計士・タイピストの資格を得る。

兵士としても、首都レオポルトヴィルで高く評価され、アフリカ原住民としての最大の出世の伍長、そして上級曹長にまで上り詰めたモブツは、11歳年下で当時14歳のマリー=アントワネット・ビアテネと結婚した。

どうもこの後軍を辞めたらしい。

まあ伍長より出世が望めないのでは、むべなるかな。

植民地軍でもっと出世したいなと思えば、白人の将軍の秘書(通訳)になる位しかすべが無く、それにしたって、公的な身分は恐らく伍長のままであろうし、なにより他のアフリカ人の同僚から、「あいつは綺麗(びるよう)なフランス語を話す」と恐怖混じりの顰蹙ひんしゅくを買うのは必然である。

そうして1956.4月から59.3月まで、ジャーナリストとして生計を建てていたモブツは、ナショナリストで民主主義者として立場を鮮明にし、名を上げた。この時のペンネームは「バンザイ」というらしいが、意味は不明である。

初めて宗主国ベルギーに行ったのは、1958.6月の事で、ブリュッセル万国博覧会の取材の為であった。この時のテーマが「科学技術とヒューマニズム」で、モブツの独裁体制はその両方を踏みにじって行われたのだが、本人の中では矛盾していないのだろう。

この頃に出会ったのが、後の国民的、いや国際的英雄、パトリス・ルムンバであった。

パトリス・エメリィ・ルムンバ、1925.7月2日生まれと言うからモブツの5歳上で、テテラ人で出生地はカサイ州北部のサンクル地方オナリア村とされる。

モブツと同じく弱小部族の出身で、東部州の州都スタンレーヴィルで郵便局員として働いていたが、逮捕・収監され、獄中でモブツの書いた記事に出会ったというが、しかし罪状が横領と文書偽造というあたり、どうにも様にならない。

ルムンバの英雄たる資質は、1958.12月28日に示された。

集会の演説によって、ルムンバは薄弱な政治意識しか持たない人々の内から「独立」の叫びを引っ張り出したのだ。

「ディペンダ!ディペンダ!」(フランス語のIndépendanceのリンガラ語訛り)の叫びがこだまする空間は、モブツに決意させるのに十分な力を持っていた。モブツはこの日ルムンバの作ったコンゴ国民運動(MNC)に加入する。

ここからコンゴの政治情勢は急転直下を迎える。

MNCが結成されたのが1958.10月の話で、1959.1月4日に首都レオポルトヴィルで暴動が発生し、ベルギー国王がコンゴ統治を投げ出すと、1960.1月にはベルギー政府も匙を投げる。

そしてコンゴ独立は1960.6月30日である。

これ程のスピードで事が動いたのには訳が有る。

先ず第二次世界大戦から15年が経ち、流石に政治に疎い植民地の人々にも、世の変化が見えてきた事があり、そしてこの前の5年間で、多くの旧植民地が独立が果たしている、と言う事がハッキリと浸透して行った事である。

モブツも行って来たブリュッセル万博にも、多くのコンゴ人が招待されており、そこで出会った知見の多くが、コンゴ各地にもたらされたりもした。

そんな中、ルムンバを動かしたのは、パン・アフリカ主義である。

特にアフリカ独立運動の父と謳われた、ガーナのクワメ・ンクルマ(Kwame Nkrmah)であった。

ンクルマは1958.12月には、ガーナの首都で全アフリカ人民会議を開催し、ここにルムンバも招いた。

この時の一大感動が、ルムンバの一生を決定付けたのは間違いが無いだろう。

先進国でも無い、白人でも無い、ローマ法も無い。

しかしアフリカ人であり、アフリカ人であるとうだけでも、こんな事が出来る。

戦車も無い、宮殿も無い、コロッセオも無い。

しかしそんなアフリカでも、こんな大会議を開催出来るのだ、アフリカは前進が可能なのだ。

ルムンバの決意は、その前進の、さらに先頭を行く事であった。

その決意が、2年後の死をもたらす。

皮肉と言うよりかは、必然であろう。

当人にそんな未来を教えても、じゃあ次はもっと上手く振舞ふるまおう、としか言うまい。

そんな中、決定的な事件が発生する。

西隣の、フランス領コンゴが独立を果たすのである。

1958年(正確には自治共和国になった)の事であった。


名実共に独立を果たすのは1960.8月15日の事で、ベルギー領コンゴの独立よりも後の話なのだが、そんな事は関係が無い。

レオポルトヴィルから見れば、フランス領コンゴの首都、ブラザヴィルはコンゴ河を挟んだ双子都市である。

そんな場所にフランスの赤白青のトリコロールとは別の旗が翻っている。

こうなると独立とは、全てのコンゴ住民にとっての、「来るべき未来」となるのである。

 フランスは独立を認めた。

 世界的に見ても植民地主義は時代遅れらしい。

 ではベルギーは?我々は?

 言語的に見ても、レオポルトヴィルとブラザヴィルにはそこまでの差は無い。

 通婚も盛んである。

 昨日までは、お互いに白人に頭を下げて暮らしていた植民地人。

 しかし何と言う事か、今日になってみると

 もうこの隣人は白人相手に堂々と対等な言葉で話しているではないか。

 それに比べて自分たちは一体は?

 自分たちも独立して白人と対等な立場になれないのか?

この時、全力で、「独立出来るぞ!!」「対等になれるぞ!!」と叫びを上げたのが、ルムンバである。

最早独立は止められない既定事項となった。

余談だが、ブラザヴィルはフランス領赤道アフリカの首都の扱いであり、二次大戦時はシャルル・ド・ゴールもパリを追われた一時期、この地を拠点にしていた。


コンゴ独立時の主役は三人居る。

1960.1月20日にブリュッセルで行われた円卓会議で、それぞれ自前の党を率いて参陣した。

 ジョセフ・カサヴブ(Joseph Kasavubu)のアバコ党

 パトリス・エメリィ・ルムンバ(Patrice Emery Lumunba)のMNC党

 モイーゼ・カペンダ・チョンべ(Moïse Kapenda Tshonbe)のコナカ党

この他にも進歩派農村同盟、バルバカ党、アフリカ人結集センター、国民進歩党、アフリカ連帯党などが参加していた。

長々と述べたが、確認の為に書いただけなので、直ぐに忘れて構わない。

なにせここに書いた全ての政党はモブツに潰されたし、この主役たちにしても、全員モブツに殺されるのだから。

少し特色を述べる。

この中で政治家として一歩先んじてしたのが、カサヴブであった。

アバコ党の前身が結成されたのが、1950年であり、この三党の中で一番古い。

古いと行っても10年足らずの話であるが、この急転直下のコンゴ政情ではその程度の早さでも有利であった。

ベルギー当局がガス抜きに行った1957年の自治体議会選挙に於いて、多数の当選者を出す事が出来、カサヴブ自身も、首都レオポルトヴィルで区長に当選した。

しかしそのせいでルムンバが参加した1958年のアフリカ人民会議にはベルギー当局に目を付けられて参加出来なかった。

1959.1月4日の暴動の原因となった事で、ベルギー当局からアバコ党は非合法化されてしまい、カサヴブ自身も解任されたが、れ幸いと地方に勢力を伸ばし始める。

典型的な部族政党で、コンゴ王国時代の象徴、蝸牛かたつむりと剣をそのまま党の徽章きしょうに採用している。


コンゴ全土に渡る知名度と言うと、何と言ってもルムンバに勝る者は居ない。

何せ没後60年と云う事で、2021年には慰霊碑いれいひまでが建てられると言われる程で(このコロナ騒ぎが無ければ、大々的に慰霊行事を開催していたであろう)、モブツ死後の第二次コンゴ動乱の時代も、その崇敬すうけいは薄れなかった程である。

MNC(コンゴ国民運動)にしても、ベルギー人官吏かんりの評判が良く、1959.1月4日の暴動の後でも、非合法化の対象にならなかった事で勢力を広げ、東部州とその南のキヴ州、中央南部カサイ州にシンパが多い。

しかしぐにルムンバの主張は過激になり、1959.11月1日には逮捕されている。

ただこの投獄はルムンバの硬骨漢こうこつかんぶりの証明と受け取られたので、結局名声が上がるだけであった。ブリュッセルの円卓会議に合わせて釈放された。


チョンべはバルンダ人でカタンガ州の生まれ。一言で言えば節操の無い戦争屋である。しかし思い切りが妙に良くて、それがコンゴ動乱にいても遺憾いかん無く発揮されいる。

コナカ党は、これまた典型的な地域政党で、地盤は南東部カタンガ州である。

この地もかなり複雑な歴史を持っており、レオポルド2世の時代に南隣の英領ローデシア(現ザンビア)との政治的駆け引きの末に、ベルギー領コンゴとして編入されたのだが、この時ベルギー軍はイギリス側に立ったバイエケ人の王ムシリを射殺している。コンゴ河の源流を持つこの地域はコンゴ盆地から階段状に高くなっていき、州都エリザベートヴィルが有るのは海抜1000メートルを越える高原地帯で、当然ジャングルなどは無い。国境線もねじじくれいて、名高きカッパーベルトに食い込もうと、南隣のザンビアに盲腸のように伸びている。そのせいでカタンガ州には「コンゴ」と謂う国名自体に反感が根強く、この地域では第一次コンゴ動乱が終った後でも、反乱が頻発ひんぱつした。

この頃のモブツは、日刊紙アクチュアリテ・アフリケーヌの公式代表として、ブリュッセルに移住していた。いまだ何者でも無い、ただの若者である。

さて、此処ここでベルギー側の話をしてみよう。

何でベルギーはアッサリとコンゴの独立を認めたのだろうか。

答えは単純で、コンゴ在住のベルギー人が少なかった上、彼らに政治的意識が無かったからである。

ベルギーの統治は、その中途半端さを父権主義と表現していて、コンゴの住人は子供だと表現していた。フランス式の同化主義ともイギリス式の間接統治とも言えず、企業利権(地下資源・パーム油・コーヒー等)と政府の結びつきが変に強かった。

この企業利権は、動乱の影の主役であったが、動乱が終るとモブツの財布に格下げされる事になる。

独立時にコンゴに居たベルギー人はおおよそ10万人。

しかし彼らの多くは定住者では無く、どうも一時的にコンゴに住んでいるだけで、定住者は1割程だったと言われる。

レオポルト2世時代の反省から、植民地政府に強大な権力を持たせてはいけない、と云う話になり、基本的な決定は本国ベルギーが直接行っていた。そのお陰でコンゴに居るのは全てベルギー政府の命令にそって動く役人とか利権企業に務めるサラリーマンのみ、と云う状況になり、役人たちは任期を終えると、さっさと本国に帰ってしまうのだった。

ベルギー本国の貧乏人がコンゴに言って一旗上げる、なんて動きも禁じられ、教育もキリスト教伝道団に一任されたお陰で、初等教育ばかりが充実して、中学校も高等学校も殆ど存在しなかった。だからベルギー人の役人が、現地で子供を育てていても、進学させようとするのなら、コンゴから外に出さなくては成らず、植民地エリートなど生まれようが無かった。

これではコンゴの政治に興味を持ちようが無い。

政治的な決定は本国待ち、知的で活動的な若人は外国行きである。

彼らには、コンゴの未来、と云うものに対して当事者意識が薄弱はくじゃくであった。

そんな彼らの未来は、例の如く知られる、「レイプされるスチュワーデス」が象徴しているだろう。

実のところ、この有名な写真の事件が起こったのかと聞かれると、どうも疑わしいようだ。

しかし、コンゴ全土に於いて、このような事件が続出した事は事実であり、その事がコンゴ動乱にベルギー軍と国連軍を呼び込む事となるのである。

どだい無理な話だったのだ、と言えなくも無い。

赤道から6,000km北に位置するベルギーから、赤道直下に在るベルギー本土の77倍の広さを持つコンゴを統治するなど。

しかも此処に第一次世界大戦の結果、東隣の元ドイツ植民地のルワンダ・ブルンジまで組み込んでしまった。無理だろう。

1885(明治17)年のベルリン会議で領土か確定した時からレオポルト2世の自由国の時代が23年、ベルギー直轄地が53年、計75年が経っていた。

ともあれ、独立の時は来た。


さて、独立するとなったが、ここで植民地のジレンマが生まれた。

これは世界中の元植民地が皆等しくさいなやまれる現実で、つまりは独立したところで、看板が掛け変わっただけで、内実はほとんど変化しないと云う事である。

当たり前じゃないか、と言えるのは先進国の人間である。

ほとんどの後進国に於いては、独立の際、そんな事は思われなかった。

独立運動家も、往々おうおうにしてそんな事は言わなかった。選挙に落ちるからである。

勿論、この手の景気の良い空事そらごとは、王政だろうと戦国大名だろうと良く言い回すが、建前と理想だけが先行するような民主主義では、一際致命的である。

カサヴブもチョンべもルムンバもよく景気の良い事を言った。

出来る訳無いのに。

こうしてみると、事情はどうあれ、首都をヤンゴンからネピドーに移してみせた、ミャンマーの決断は、元植民地として見事なものである。今は猛烈な内紛の真っ只中であるが。


コンゴ独立はする。

しかし首都レオポルトヴィルの位置はそのままである。

此れを移す能力を持った人物も組織もコンゴには存在しない以上、政権を取る為には、レオポルトヴィル州とそこに接する赤道州とカサイ州に地盤が無いと不可能である。

この時点で、はるか遠いカタンガ州から動けないチョンべは政権の座を諦めた。

先の話になるが、モブツがクーデターを成功出来た理由として、出身地が赤道州であり、ここに地盤を持っていた事は重要な要素であった。

独立前の選挙では、ルムンバのコンゴ国民運動(MNC)が第一党の座を獲得した。

しかし単独過半数には成れなかった為に、あちこちと連立を組む羽目になる。

最終的に、国家元首としての、大統領カサヴブ、実務者としての、首相ルムンバと云うかたちに落ち着いた。

独立時のモブツの役職名は首相付き国務補佐官である。

この時のモブツは、素直に独立を喜んでいたのだろうか?

立場的に、そうとは言えまい。

先頭立って選挙に参加した訳では無い以上、モブツは自分の言葉に酔える立場では無い。

少なくとも、独立すると言うのに、アフリカ人の学位取得者(要するに大卒)が16人しか居ないと言う事は、流石にわかっていたであろう。

どう考えても、独立後しばらくの間は、宗主国ベルギーの世話が無ければやっていけない。

なにせ弁護士も裁判官も白人しか居なかったのだから。

そんな中、独立式典におけるルムンバの振舞いは、急激にモブツを失望させた。

なんと国賓こくひんとして招待されたベルギー国王ボードゥアン1世に対して、堂々とあからさまな反ベルギー演説をぶち上げたのだ。

モブツにして見れば、教養の無いアフリカ人選挙向けの言葉と、対外的な式典向けの言葉は別にしろ、と言いたかったであろう。

その後を見ても、ルムンバはやたらめったら問題を起こした。

同じカサイ州出身で、コンゴ国民運動(MNC)の同志であったアルベルト・カロンジ(Albert Kalongi)は、独立前に既に道を別っていた。

大統領カサヴブとの間には、独立後に早くも亀裂が入り始めていた。

この二人の対立を、中央集権と地方分権の議論だと言ったりするが、そんな大層なものでは無い。

要するに独立政府の歳入の4分の1を占める採掘企業ユニオン・ミニエール社の金をだれが手にするのかと云う話である。

ルムンバは、中央に居る自分の手元に集めておきたかったし、カサヴブは地盤であるバコンゴ人にばらまきたかった。

独立国と言っても、コンゴ政府に居たのは、高校すら満足に卒業しておらず、政治のせの字も解らない連中ばかりであった。

大臣の中には、自身の職掌しょくしょうも理解していない者も多かったと言う。

そして動乱の幕が上がる。

1960.7月5日の話である。

なんと1週間も経っていない。

火種は国軍から出た。


嘘である。

火種どころか、いきなり大炎上した。

経緯はこんなものであった。

その日、既に兵士たちは苛立いらだっていた。

聞くところによると、公務員の給料が一律に引き上がったと言うのだ。

ところが国防相を兼務してるはずのルムンバからは、軍人の給料を引き上げると云う通達が未だに来ない。

その上、独立したと言うのに、国軍の上層部は白人のままで、アフリカ人は皆下士官か平の兵士のままであった。

なお悪い事に、国軍兵士たちは、わざがらが悪くなるように仕立て上げられていた。出身地とは違う場所に任務に付かせて、現地で乱暴な振舞ふるまいをするように、と云う伝統が染みついていたいたのだ。

植民地軍の役割とは、反抗的な現地人の威圧であり、現地人と手を組んで白人に反旗をひるがして困るのからである。コンゴ軍兵士にしても、河馬かばの皮で作られたむち(ファンボ)を1955年まで、こと有るごとに人に向けて振るっていたのである。

兵士たちは、白人司令官に詰め寄ってやいのやいの騒ぎ立て始めた。

そこでベルギー人のエミール・ジャンセン(Èmile Janssens)司令官は、子供をさとすようにして、黒板に『独立後=独立前』と云う図式を書き出した。

シャンセン司令官にしてみれば、独立など看板をえただけの話で、このろくな教養の無い兵士たちの中から、幕僚ばくりょうになるだけの人材が居ない(コンゴに士官学校は無く、慌ててベルギーに送った士官候補生が帰国するのは8月の話だった)のだから、待遇や構造がそう変化などする筈が無いではないかと、そう言っただけの話である。

ところが黒板の文字を見た兵士たちは激怒した。

「ルムンバはそんな事言わなかったぞ!!」

暴動になった。

この瞬間、コンゴ動乱、その第一幕が開始するのである。


ルムンバは慌てた。

なんせ自分の手で新生コンゴを作り上げるつもりでいた身としては、ここで大事な暴力装置である軍の統制を手放す訳にはいかなかったのだ。

鎮圧すると息まくジャンセン司令官を解任すると、急かすようにして2人のアフリカ人を重役に命じた。

新司令官(少将)としてビクトル・ルンドゥラ(Victor Lundula)、この人は明確にルムンバ派である。

そして急ごしらえの参謀総長(大佐)、モブツ・セセ・ココ。

中華の言葉に、虎に翼を付けて野に放つ、と云う言葉がある。

モブツに軍権を授けて野に放ったのは、ルムンバだったのだ。

ジャンセン司令官は、対岸のブラザヴィルに逃れると、さっさとベルギー本国に帰って行った。先んじて、この動乱から足抜けしたと言える。

しかしそこまでしても、もう手遅れであった。

何しろコンゴ国軍(正確には公安軍と呼ぶ)と謂うのは、25,000人しか居ないのに、独立時の人口は1,400万人も居るのだ。

そもそも中の悪いコンゴ盆地の民族の統制自体、既にガタが来ていたからこそ、ベルギーも支配を投げ出した一面もあった。

そんな中で、1,000人しか居ない白人士官を罷免し、残りの24,000人は暴動の真っ最中と来たものだから、もうどうしようもない。

暴動は即座に無線に乗ってコンゴ全土に伝わり、各地で頻発ひんぱつしていたストライキと合流して、そのまま大混乱になった。


最早誰の手にも負えなくなった混乱を受けて、真っ先に動いたのはベルギーだった。

コンゴ河を渡ってブラザヴィルに逃げた人々の保護をすると、コンゴ各地に空挺部隊を派遣し、反乱を次々と鎮圧していった。

空挺部隊、極めて運用が難しい、現代軍の華である。

何せ降ろせるのは人間と小銃だけで、戦車も大砲も土嚢どのうも運べるものでは無い。

それをこうまで華々しく使いこなしてみせるのは、かなりの難事業であり、持っているだけで大したものだと言える。

その後、碌な道路が無いコンゴでは、この兵科が一番使いやすいと言う事が分かったので、米軍も積極的に活用している。

モブツはあらためて、先進国とコンゴの差をまざまざと見せつけられたのだ。

先進国の家、先進国の車、先進国の飛行機は調達出来ても、先進国の精鋭部隊と云うのは、後進国には絶対に手に入らないものの一つであった。

妙に感動したモブツは、後にイスラエルでパラシュートのライセンスを取得し、実際に飛んでみたらしい。

しかし結局、華の空挺部隊なんてものをコンゴが持つ事は無かった。


混乱が一向に収まらないのを見て、ベルギーはムクムクと例の父権主義が顔をのぞかせて来た。子供の喧嘩が収まらないのならば、父の出番だと言う訳である。当然、ルムンバも子供扱いしていて、先の空挺部隊の投入も、許可など取らなかった。

多くの利権もまだ、ベルギーと関わりが深かった。

そんな訳で、ベルギーはチョンべの誘いに乗る事にしたのである。

コンゴはもう泥船だ、だから助けてくれと言われ、ユニオン・ミニエールの本社も在る事から白人も多く住んでおり、介入する名分は有った。

1960.7月11日、モイーズ・チョンべにより、カタンガ州が独立宣言を出す。

激怒するルムンバに対して、さらなる追い打ちが掛かった。

1960.8月9日、アルベルト・カロンジにより南カサイ州南部が独立宣言を出した。

暴動が戦争になったのである。


ルムンバの動きも速かった。

国連軍の派兵を要請したのは7月12日の事で、名分も上手くいった。

「ベルギー軍の撤退とコンゴの治安の回復」で、国連代表権も、レオポルトヴィル政権のカサヴブが獲得した。

時の国連事務総長は、スウェーデン人のダグ・ハマーショルド(Dag Hammarshjörd)、この時55歳。

父親は第一次世界大戦中のスウェーデン首相で、貴族の末裔であったらしい。

経済学で博士号を取り、1936年に政界入り。

1953年、前任者の辞任を経て開かれた国連安全保障理事会で、唐突に事務総長に推薦すいせんされる。4月10日、国連総会の投票の結果、国際連合2代目事務総長に就任する。現在に至るまで最年少の事務総長の就任記録である。

前任者の初代事務総長はノルウェー人だったし、ならば後任も北欧が良かろうと、そんなところかもしれない。わたしの想像であるが。

理念は「国連は人類を地獄から救う為に作られた」

熱心な活動家で、1955年には、いまだ国連に加盟していない中華人民共和国を訪問しており、この動乱中も、チョンべと何度か直接会談をもっている。1956年のスエズ危機に於いては、カナダのビアソン外務大臣の進言を受け、初めて国連軍を結成して派遣している。この時の任務は停戦監視であったが、今度は結果的に動乱の鎮定ちんていに乗り出す事になる。

1964.4月30日まで続く、長い国連軍の始まりである。

防止外交をうたうハマーショルドにすれば、ここで米ソ両国が本気でアフリカ情勢に関わる事を何としても「防止」したかった。

最大2万人が派兵された軍事行動であるが、こんな大規模な派兵の結果生まれたのがモブツの独裁政権だと謂う事で、これ以降の国連軍の派兵は小規模して行く事になる。

ところで、実際に国連軍の部隊が来てみると、ルムンバの期待は裏切られてしまう。

と言うのも、国連軍にしてみれば、国軍の暴動と人々の安寧あんねいを守る為に来たのであって、内政問題には関与しない、と云う話であるが、ルムンバはこの軍をカタンガ攻撃に使いたかったのである。

カタンガ有る限り、コンゴの治安は回復しない、と言っても無駄であった。

そんな事をしていると、コンゴ河西岸のフランス領コンゴ自治共和国が正式に独立を果たした。

1960.8月15日の事で、国家元首はアッベ・フルベール・ユール―(Abbè Fulbert Youlou)である。

ややこしい話なのだが、この時、両コンゴは共に正式名称と「コンゴ共和国」と名乗っていた。コンゴが2つ出てもややこしいだけなので、この稿では首都のブラザヴィルで済ませていただく。

さて、独立したての国家元首のユールーであるが、親仏政権を運営していたこの男は、この東方のコンゴ動乱を極めて迷惑に思っていた。

避難民がブラザヴィルにワッと押し寄せて来たおかげで、混乱が起こったし、犯罪も激発した。

原因は誰かと聞かれれば、それは首相のルムンバであるし、チョンべが独立の言い訳としてルムンバは東側にべったりだと言っていたので、西側である事を自覚していたユール―は必然的に反ルムンバの姿勢を取った。

その後もユール―は南カサイに資金援助をしたり、チョンべに取引を持ちかけたりと、コンゴ動乱に訳も無く踏み込んで行くのだが、汚職が過ぎて1963.8月13日に革命が勃発して国外に逃亡した。


ルムンバは苛立いらだっていた。

この男は説客・論客ろんかくとしては一流なのだが、やたらと高圧的なところがありそのくせ政治家としては地盤が不安定であった。

混乱が収まらず、レオポルトヴィルでも反ルムンバの言動が活発化しているし、ハマーショルドに文句言っても国連軍は動かないし、カサヴブも益々ますます反抗的になって来た。

怒りにまかせてベルギーと断交してしまったお陰で、コンゴに侵入しているベルギー軍の撤収も進まない。

そこで国連とは違う力を借りようと考えたルムンバは、この頃からソ連と接触し始めた。

実のところ、ルムンバが明確に東側に傾き始めたのは、この頃であり、チョンべがカタンガ独立を宣言した時は、そんな関係は殆ど無かった。

そして飽くまで傾いただけであって、ルムンバは最後まで共産主義に興味など無かった。

本人に言わせれば「私は革命家だ」である。

革命の向かう先は、パン・アフリカニズムに他ならない。

反ベルギーの関係上、同じ西側諸国であるアメリカにり寄る訳にもいかず、東側に声を掛けてみたのだが、思いのほか反応が良く、サクサク支援を出してくれた。

この当時、東側では中ソの内紛が激化している時期で、ソ連としては、ここいらで一つ、変化を作ろうか、と言う動きが有った。

これは戦争以外では初めて行われるソ連の、本国から遠く離れた土地への大規模援助であった。その事が国連とアメリカの神経を大分逆撫さかなでしているのだが、ルムンバはあまり理解していない。 

ソ連製の輸送機やトラックを前にして、機嫌のよいルムンバを、果たしてモブツはどんな目で見ていたのだろうか。

タダより高いものは無いと言うのに。


ルムンバが真っ先に目を付けたのは、南カサイであった。

明らかに弱小で、レオポルトヴィルからの距離もカタンガ州よりは近い。

何とか反乱を収めた国軍を派遣してみると、果たして勝利した。

1960.8月27日には首都バクワンガを無血で占領している。

カロンジは軍をまとめる間も無くカタンガに逃走した。

が、その後がつたない。

侵攻ばかり気にかけて、その後の事を何も考えて無かった為に、派遣部隊はその場で飢え始めたのだ。早速略奪に走った兵士たちは、そのせいで要らぬ反抗を招いてしまい、国連軍の目を付けられてしまう。

忘れてはいけないのは、所詮モブツの最終軍歴は曹長のままであり、士官教育など受けていない事であり、大々的な作戦能力など期待するまでも無いと云う事である。

またこの頃のモブツは、まだ独裁者の雰囲気は無く、妙に線が細いところが有った。

結局、次はカタンガ攻撃だと息まくルムンバを傍目に、国連から命令されると、上司である筈のルンドゥラ少将にも黙ってモブツは国軍を停止させてしまった。

この後、辞めたいと言い出したモブツを、国連側が慌てて引き留める一幕が有った。


ルムンバの与党内部にも、反ルムンバの気分が広がるのを見て、限界が来たとカサヴブは判断した。

1960.9月5日、大統領宣言により、ルムンバ首相の罷免ひめんを発表する。

カサヴブは基本的に話し合いで事を決しようと云う性格で、後にチョンべとも何度か直接会談をもっているところを見ると、ここでルムンバの命を狙う気は無かったであろう。

後釜に据えようとしたのは、偶々上院議長を務めていたジョセフ・イレオ(Joseph Ileò)と謂う小物で、一応コンゴ国民運動(MNC)の一員だった。小物過ぎて動乱後のモブツ独裁時代にも殺されずに放置され、天寿を全うした。

或いは、ルムンバが冷静になったところで、また首相に任命する腹積もりだったかもしれない。

ところがこの判断にルムンバが激高し、未だ議会の支持は自身に有るとして、逆にカサヴブの解任を叫び出したのである。

お互いに拮抗きっこう状態に入った。

当然、世情は更に混迷し、首都では裁判官も弁護士も居なくなったので、アフリカ人の警官たちにしても、最初から犯罪者の逮捕を諦めたと言われている。

国軍兵士の給料にしても遅配していて、また反乱されても困るので国連が給料を一時代わりに支払っていた。

いい加減に、限界が来たのは、むしろ外国勢力であった。

この時、モブツが動いた。

1960.9月14日、モブツがクーデターを発動する。

モブツが見ていたのはベルギーでは無く、アメリカ合衆国であった。

アメリカにして見れば、国連軍が出ている分には良いのだが、ルムンバがソ連と手を結んだと言うのはたまったものでは無かった。

第一、ルムンバは感情が高ぶると変に態度が硬化する事がまま有り、見ていて不安なところがあった。アフリカ人による政治にこだわり過ぎる事も問題視した。

その点、モブツは国軍を掌握しょうあくしているし(国軍によるモブツへのクーデターそのものは、結局モブツが死ぬまで起こらなかった)、政治へのこだわりも薄く、支援のしがいが有る。

この頃から、モブツの背後にCIAの濃厚な影響力が見えてくる。

モブツはカサヴブとルムンバの二人を軟禁すると、「委員会内閣」の設立を宣言した。

直接軍政を敷くと、また国連から何か言われそうだし、国軍自体にそんな人材が居ない。そこで植民地エリートをかき集めて、選挙によらない政権を構築したのである。

次にソ連・チェコと断交し、両国の大使を本国に送り返した。

アメリカに良い顔をする事も怠らない。


この動きに軟禁された二人は対照的な動きに出た。

大統領であるカサヴブは、モブツと手を結ぶ事を選んだ。

ルムンバよりは話が解るのではと、期待されたのである。

(元?)首相のルムンバは、手酷くモブツをののしった。

「あいつはまただ!私がブリュッセルで独立会議にのぞんでいた時も、私の情報を逐一ベルギー当局に流していた。その時は小遣い稼ぎと見逃していたが、その結果がこれだ!もう愛想あいそが尽きた。士官でも無いあの男を参謀総長にしてやったのは私だぞ!」

愛想が尽きたのはモブツの方であった。

「アフリカ人の政府」に拘り過ぎて、行政府はおろか、徴税機構の破綻すら招いたのはルムンバではないか。

もうルムンバの命令を聞くのは真っ平御免であった。

さて、鳴り物入りで発足した委員会内閣であったが、ちょっと学が有るだけの素人たちでは、政治など出来るはずも無い。

しかし、かれ等には学縁と呼べるものが有ったのである。

ベルギーの大学の恩師に口利きしてもらって顧問を送ってもらい、本国に避難していたベルギー人たちも、少しづつ行政府に戻り始め、経済が幾分いくぶんか上向き始めた。

しかし、まあ、やっぱり、案のじょうと謂うか、駄目であった。

反ルムンバの色を鮮明にし過ぎたが故に、地方のルムンバ派から総スカンを食らったのである。国連にしても、「ベルギーの影響を排除する」と謂う名目で国連軍を派遣した以上、レオポルトヴィルにベルギー人たちの影響力が増していく事は望ましくなかった。

この間にカロンジは南カサイ鉱山国を復活させ(カタンガが後援した)、アメリカではアイゼンハワーの任期が終り、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが次期大統領に内定した。

ルムンバは軟禁場所で、この動きをじっと眺めていた。

警護してくれているのは、ンクルマが派遣した国連軍ガーナ兵部隊である。

脱走した。

1960.11月27日の話である。


勝算は有った。しばらく前から東部州の州都スタンレーヴィルにルムンバ派の有力者が集結しており、先日亡くなったルムンバの娘もそこに埋葬される事になっているのである。

死者と生者に誘われたルムンバであるが、しかし寄り道をした。

どうも途中で演説をぶち上げようとしたらしい。

この辺、モブツも呆れる迂闊うかつさであった。

レオポルトヴィルからスタンレーヴィルまで、直線距離で1,200kmも有るのに130kmも行かない内に捕まったのである。12月2日の事であり、この時ルムンバの命運はさだまった。


モブツにしてみれば、ここからが大変であった。

先ず、ルムンバの処遇を巡って、国連総会が大荒れになり、なんと5,000人を越える部隊がいきなりコンゴから撤退してしまった。

国会議員の多くもルムンバを支持しており、国民の広範囲の支持も在った。

おまけに1961.1月20日に就任するのは、「あの」ジョン・F・ケネディであった。

ノルマンディー上陸作戦の司令官で、アメリカの英雄であり、ダレス国務長官を使って朝鮮戦争を集結させ、外交ばっかり気にかけていた、アイゼンハワー老人(大統領退任時は71歳)の代わりに、なるこの男は、名前だけがやたらときらびやかな人で、「結局何もしなかった人」なんて言われたりする。

20世紀生まれとして、カトリックとして、アイルランド系として、ピューリツァー賞受賞者として初めての大統領と、縁起物みたいな人でもある。初ガツオみたいだ。

就任する時が一番騒がれたあたり、ノーベル平和賞を受賞したけど、大した人でも無かったバラク・フセイン・オバマ大統領の先輩格であろう。

もっともオバマ大統領と違って、テキサスのダラス市で暗殺されたので、知名度は抜群である。

さて、こんなに騒がれたケネディが、果たしてルムンバの為に動くのだろうか?

興味が無いのでわたしは知らない。

しかしアメリカとの結びつきを強くしたいモブツからすれば、噂だけでも大問題であった。

もう殺すしかない。


問題なのは役どころであった。

完全に無関係を決め込んで、南カサイのカロンジ辺りに殺させると言うのも、一つの手である。

しかしそれではルムンバ無き後の政治情勢で主流派になれない危険性が有った。

この時、カトリックであったモブツの身の周りには聖書が有ったであろう。

或いは、モブツに肩入れするフランス人やアメリカ人が、話を持って来たかもしれない。

イエス・キリストの処刑の場面である。

様々な登場人物が現れるが、その中で絶対に成りたく無い役柄が、裏切者ユダと処刑人ロンギヌスである。

幸い、今回のユダ役は気にしなくて良い。

つらつらと考える内に、モブツが演じるのにちょうど良い役柄が見つかった。

ユダヤ属州長官ピラトである。

実際に、法の執政官として、キリスト処刑の命を下した人物であるが、しかし知名度は低く、出番も地味だと来た。

それでいて、キリストの死には欠かせない人物でもある。

モブツはこの役をこなす事にした。

航空便を仕立てると、その中にルムンバを押し込め、ベルギー人パイロットに行先を伝えた。暴力を受けて、傷の痛みにうめくルムンバは、東に向かって飛行している事に気が付くと、自身の運命を悟っただろう。

案外、気絶したまま目的地に着いたかもしれない。


飛行機から下されると、ルムンバは気温が涼しい事に気が付いた。

ジャングルでは無い。

木々が少なく、草が多い。

見晴らしは良いが、コンゴ盆地を囲む筈の山々が見えない。

見回してみると、自分の末路が見えた。

白人たちに囲まれて立っているのは、チョンべである。

カタンガの首都、エリザベートヴィルであった。

1961.1月17日、9時43分、ルムンバ処刑さる。

見上げても月の無い、新月の夜であった。


実のところ、モブツもチョンべも、堂々とルムンバの死に関与したとは言いにくく、公式発表としては誰かに殺されました、と言っていたが、誰も信じなかった。

第一、西部のレオポルトヴィル州に居たはずのルムンバの死亡発表を、何故敵対中の南東部のカタンガ州が行うのか。

言い訳としては余りに苦しすぎて、付き合う気にもなれない。

おまけにカタンガが変にルムンバの死をぼかしたお陰で、これが更なる動乱の火種になるのだから、チョンべもつくづく政治が下手である。

遺体は最終的に硫酸で溶かされたと云う。

殺したのだから、その死を徹底的に利用すべきなのに、妙に目を背けている辺り、チョンべがモブツに負けた理由が見えてくる。

モブツの方は、後々まで利用しつくした。ルムンバを国民的英雄に祭り上げ、自らも賞賛しょうさんする立場に回る事で、国内の取りまとめに利用した。

こうしてコンゴ動乱、その第一幕は下されたのだった。

そしてこの時には既に、より直接的でより大規模な暴力に彩られた第二幕は上がっていた。


さて、第二幕の話をする前に、少しルムンバの話をしよう。

よく言う、歴史に「もし」は無い、であるが、わたしは歴史家と言える程のものでも無いので、「もし」の話をしてみよう。

つまり、ルムンバが生きていたならば、コンゴ動乱は治まり、コンゴは良い国になったのだろうか、と言う事である。

結論から言うと無理であろう。

ルムンバのおちいった状況には、勘案かんあんすべき要素が多々存在している。

しかしそれを差し引いても、ルムンバは英雄と呼ぶのは無理が有る。

ルムンバはどうも急かし過ぎるきらいが有った。

例えば、そもそもの始まりである、コンゴ国軍兵士の暴動であるが、その対処法としてモブツ参謀総長が任命されたものの、その他にルムンバが取った手が「全兵士を一律に昇格させる」と云うものだった。

これにより、国軍には一時平兵士が完全に無くなってしまったと言う。

つまり手っ取り速く、金欲と名誉欲を満たしてあげる事で、反乱を抑え込んだのである。

言い換えると、兵士の欲望にびたとも言える。

また、引く事を知らないその姿勢は、やたらと問題を引き起こしており、国連軍の動きが鈍いのに怒って、ハマーショルドに「貴方の出身地スウェーデン王室は、ベルギー王室と親戚関係に当たるが、それでベルギーに便宜べんぎを図っているんじゃないか」などと言っている。いくら何でも現役の国連事務総長に言う科白では無い。

独立前の時期に、あるベルギー人の大学教授が、「コンゴ独立には30年かけてゆっくりと段階を踏んで行くのが良い」と説話を発表して、ベルギー本国に於いても批判を浴びたが、この30年と言うのは、日本で明治維新から憲法発布まで22年かかった事を見ると、結構妥当な線では、と思わないでも無い。

少なくとも、コンゴ動乱に関しては、せめてアフリカ人の士官候補生がコンゴに帰って着任するまで待っていれば良かったのに、とは言えるだろう。

ルムンバは絶対にそんな事はしないだろうが。

厳しい見方をすると、ルムンバは道半ばの35歳で死んだから英雄になったと謂う面がある。

大統領からの罷免処分とは、十分に合法的であったのに、ルムンバはそれを蹴っ飛ばしたのである。はっきり言うとこれは独裁者の道である。

非合法的な手段で権力奪取に動いたのだから。

反ルムンバ派の言論の封殺に動き、幾つかの新聞を廃刊にしている。

しかし、後に遥かに濃厚な我欲丸出しの独裁者モブツが誕生した事で、ルムンバの風味が薄れた感じが有る。

それに、コンゴ独立時の政治活動も問題であった。

これは別にルムンバだけの話でも無く、しかしルムンバも確実に推奨すいしょうしていたのだが、独立の明るい未来ばかり宣伝していたのである。

選挙とはそんなものであるが、コンゴの場合、高等教育を受けた人間が少なすぎたのもあって、独立が一種の幻想となってしまったのである。

「独立すれば、給料が2倍3倍になるぞ」

「白人の女が抱けるようになるぞ」

「独立は神様の名前さ。列車に乗ってやって来るんだ」

現実は先に述べた通りである。

結局、ルムンバのやった事は、独立と選挙の夢を与えただけであった。

現れた現実がモブツの独裁である。

とは言え、革命家としては、紛れも無く当代随一の人物では有り、無血でコンゴ独立を勝ち取った事は、偉業と言って良いだろう。

ソ連はアフリカ人留学生を受け入れる大学を設立すると、名前をパトリス・ルムンバ民族友好大学としてその名を讃え、ルムンバの演説が有ると聞けば、アメリカのマルコムXもその声を求めた。

死んだと謂う事が明らかになった時、リビアのカダフィも自分でささやかなる葬儀を挙げて、中国共産党はルムンバ殺害抗議集会を放送し、ユーゴスラビアのベルギー大使館は襲撃され、なんと殆ど縁の無い日本においても、本が出版されている。

そして2000年には、フランス・ベルギー・ドイツ・ハイチの制作で、映画「ルムンバの叫び」が発表され、日本でも公開された。

ただしわたしは見ていない。


最後に、ルムンバの手紙の一部を乗せて締めるとしよう。

全文は是非この稿こうを読んだ人が、自分で探して欲しい。

モブツのクーデターで監禁されている時に看守の目を盗んで書いたらしい。

「私は、祖国の独立のために闘争において、私や同志たちの全生命をかけて求めた聖なる主張が、最後には勝利を収めるであろうことを、ただの一瞬たりとも、疑ったことは無かった」

「もっとも、重要なのはコンゴ、そして独立が檻に押し込められた可哀相なコンゴ国民である。この国民を、外部者は、時に気前のよい憐みの目で、時に貪欲と喜びを持って、鉄格子の外側から眺めている。」

「私は。私の心の中心部で知っている。遅かれ早かれ、私の人民はこれらすべての敵(外国人であれ国内人であれ)から自らを切り離し、一つとなって立ち上がり、植民地主義がもたらす退行と恥に『No』といい、昼間の純粋な光の下で、尊厳を取り戻すであろうことを」

「私は、子どもたち、後に遺す、おそらくもう二度と見ることのないこの子どもたちに伝えてほしい。コンゴの未来は美しいと」

「そして、正義なしに尊厳はなく、独立なしに彼らは自由になれない、と」

「歴史は、いつの日か告げるだろう」

「アフリカは自身の歴史を書くだろう。そして、それは、サハラ砂漠の北も南も含む、栄光と尊厳に満ちた一つの歴史となるだろう。」

「コンゴに栄光あれ!」

「アフリカよ永遠に」

美しい文章である。

ただモブツやカサヴブに言わせれば、もう少し落ち着きが欲しかっただろう。

結局、ルムンバが死んでも動乱はちっとも治まらなかった。

第二幕、が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る