第2話 南アフリカ連邦と白い肌のアフリカ人

ボーア人(boar)、と言う奇妙な民族について、此処ここで述べておきたい。

南アフリカとう国の母体であり、アフリカ大陸南部の情勢を見る事にいて、決して無視できない影響力を持つ人々であるが、

しかし

彼らは何なのだろうか。


2009年、南アフリカの大統領(黒人)だったジェイコブ・ゲドレイーシュレキサ・ズマ(Jacob Gedleyihlekisa Zuna)は、支援者達の前で、こう述べた。

「白人の中で、真の南アフリカ人と呼べるのは、アフリカーナー(ボーア人)だけだ」

南アフリカには、多くのイギリス系住人が住んでいるが、彼らは違うのだろうか。

違うのだろう。

イギリス系には、「宗主国」大英帝国が在るのだから。

ならば、ボーア人とは?

単純な結果だけで表現するならば、彼らはアメリカ市民の成り損ないである。

新天地、楽園を求めてヨーロッパからやって来て、しかし楽園を築き上げる事に失敗した人々である。

オランダ系移民と言われているが、少し補足が必要であろう、微妙に違う。

彼らはオランダ人を母体としてる訳では無く、あくまでオランダの船でやって来た者達なのである。オランダ人の他に、フランスのユグノー、ドイツのプロテスタントも加わっていた。宗教的自由を求めて移住した者も多いという時点で、アメリカ人に似ている。

忘れてはいけないのは、彼らが最初にやって来た時、1652年と謂う年は、凄惨せいさんなる宗教戦争、ドイツ三十年戦争が終わってからまだ5年と経っていない時期であり、フランスではユグノー戦争がまだ収まっていなかった。

それもあってか、彼らのオランダと謂う国家へのこだわりは薄い。


彼らが話す言葉はアフリカーンス語と言い、オランダ語(正確には低地ドイツ語)を大元にして、語彙ごいの九割はオランダ語で出来ている。

元々はキッチンダッチと言われた俗語である。

しかし奇妙な事に、この言語はアラビア文字でも表されており、マレー系の人々にも使われていた。わたしは厳密に調べた事がある訳では無いが、本来ヨーロッパから来た植民地人と云うのは、本国の文化の濃厚なる共有者でありたいという念が強く、例えばイギリス人は、インドに居ても、アメリカに居ても、英語話者わしゃで有る事にこだわり続け、言ってみればインド方言、アメリカ方言は出来ても、完全に混淆こんこうしたインディアン・イングリッシュ等と云うものには死んでも成りたくない、というのが本音であったろうし、実際にアメリカ先住民等は、英語を話しキリスト教に改宗しても容赦無く殺された。また他のアフリカ植民地に住まう白人達は、植民地が独立する時代が来ると、慌てて本国に逃げ帰った。

しかしボーア人にはそんな気配は希薄きはくである。

何より、ボーア人達は自らを指して、我こそは「アフリカーナー」(Afrikaner)であると言っている。

現在のインドネシアに住んでいたオランダ人達は、オランダから独立すると聞くや否や、算を乱して本国へ逃げ帰った。

しかしボーア人達は住む土地がイギリスによって征服されても、全くオランダに帰らなかった。

この差は何なのだろうか。

アフリカーンス語の扱いを見ると、現実的、日常的にはかつてオランダ方言であったが、旧白人政権下で正式に独立した国語となり、オランダ語とは完全に別物になった。

或いは、ボーア人の故国、というか意識の向かう先は、オランダ東インド会社かもしれない。これもまた奇妙な存在である。

距離が遠い事を逆手にとって、本国とは独立した軍隊、法律、外交権を持っており、ほとんど独立国家の観が有った。

江戸時代、オランダ人達が五代将軍綱吉に謁見した際、オランダ国王と東インド会社総督と何方どちらの権力が強いのかと聞かれて、答えにきゅうした記録が残っている。

兎にも角にも、ボーア人の歴史を眺めると、そこには強固な意志が感じられる。

「我々は断固として此処ここから離れないぞ!」

ある意味で、ボーア人こそが、南アフリカと言う国家の真の国民と言えるのかもしれない。

南アフリカの歴史は、ボーア人の権力闘争の歴史でもあった。


全くの余談ながら、一つ述べておきたい。

彼ら、大航海時代以降の植民者は、一体何故、故郷を捨てて移民に踏み切ったのかと言う事である。戦乱や宗教、民族問題も有るが、一番大きな理由はいたって単純であった。

『肉が食いたい!』

である。

最も顕著けんちょなのがイギリスで、勿論もちろんイギリスによる海上覇権が確立したから、とう理由もあるが、農民達にとって切実だったのは、教科書にも名高い、囲い込みである。

今日、日本の田舎でもそうだが、所有者は居ても、放っとかれている空き地と云うのはあちこちに点在している。昔はこのような空き地もイギリス各地に広大に存在していた。

地方の農民達は、このような空き地を好き勝手に使っており、燃料にするしばを採ったり、家畜の放牧地にしていたり、密かに畑にしていたりしていた。

しかし囲い込み(enclosure)によってこの状況は一変する。

空き地はたちどころに資本家達による羊や牛の牧場に変えられ、農民達はもう利用できなくなってしまうのである。

なによりも農民達は家畜を飼えなくなった。

機械化が進んでない時代、動力として頼りになる牛が居ない事は、耕す事にも困る事を意味していた。

こうして農民達は困窮こんきゅうして行き、トマス・モアの言う「羊が人間を食い殺している」状況になるのである。

農民達は新天地で、牛・豚・羊を飼って、腹一杯の肉を食べる事を夢見るようになり、なけなしの財産を振り絞り、移民船に乗り込むのであった。

ドイツ(プロイセン)に於いても、マルクスがライン新聞で大いに批判した名高き悪法、木材窃盗せっとう取り締まり法が、1840年代に制定されていた。

これがれするような悪法で、何と森から枯れ枝一本拾ってくるだけで有罪判決が下されるのである。ガスボンベの無い時代、これでは料理も出来ないと言うのに。

フランスでも、ルイ14世の時代から度重なる対外戦争で、国庫が空になった為に、庶民は重税にあえぐ事になり、人々は新天地を求めた。

肉をたらふく食える新天地を、である。

だから皆して、船に乗り込み、国家の推奨する植民地へ、文字通り植民して行ったのであった。

以上、余談終わり。


さて、ある意味でボツワナ本国よりもボツワナ史を左右する事になる、南アフリカと謂う国の話をしよう。

戦争の話になる。


1948年まで南アフリカ連邦の首相を務めていたのは、ボーア戦争の英雄であるヤン・クリスティアン・スマッツ(Jan Christiaan Smuts)である。

南アフリカ連邦と謂う国が出来たのは存外ぞんがい新しく、現在の国境線のかたちで成立したのは1910年、第一次世界大戦の直前であった。

それまでは東から北東の方面に、黒人のズールー王国、オレンジ自由国(オレンジはオランダ王家の色である)、トランスヴァール共和国、ナタール共和国が立派に独立国として存在していた。

この頃はドイツ帝国が出来上がったばかりで、華やかな繁栄の只中にあり、ライン川の河口域を持ち、ドイツの外港的立場を持つオランダ本国も、それにあやかって調子の良い時期だった。しかしそれに甘んずる英国では無く、戦争になった。

スマッツはこの内の北方に位置するトランスヴァール共和国(ボツワナの東となり)の法務長官として一軍を率いた。優勢なイギリス軍に対し「非正規軍」を率いてゲリラ戦を行い、勇名を馳せた。

トランスヴァール降伏後は政界に復帰し、ボーア人(アフリカーナー)政党を率いて英国派に圧勝。

南アフリカ四植民地(トランスヴァール、オレンジ、ナタール、ケープ)の合同を指揮して、自らは首相になった。

この時代に、赤の背景色にユニオンジャックと南アフリカの国章をあしらった、南アフリカの国旗が作成された。

国章は四つのシンボルで構成されており

左上の、錨を持つ若い女性(西海岸のケープ州)

右上の、2匹の野獣(東海岸のナタール州)

左下の、オレンジの樹(内陸南部のオレンジ自由州)

右下の、牛車(内陸北部のトランスヴァール州)

この国章は、アパルトヘイト撤回後も使われ続け、2000年までそのままであった。

さて、スマッツの政策は対英協調、この一言に尽きるものであった。

スマッツ以外の首相(全てアフリカーナーである)もそれに追随したが、彼らについて誌面を割くのは厳しいので、スマッツ一人の話として進める。

この男は二度の世界大戦に於いてイギリス軍として参戦しており、最終的にはイギリス陸軍元帥にまで昇進した。ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)に軍を派遣し、ビクトリア湖以南の東アフリカ(現ブルンジ、ルワンダ、タンガニーカ)には自ら英軍を率いて進撃した。

もっとも、南西アフリカの占拠には難なく成功したが、東アフリカには意外なる名将パウル・エミール・フォン・レットウ=フォルベック(Paul Emil von Lettow-Vorbeck)と謂う男が居て、果敢かかんなる戦闘を行いドイツ本国が敗北するその時までついに降伏させられなかった。

感嘆かんたんしたスマッツは、元々面識が有る事もあって、この敵将に後々まで支援を惜しまなかった。その後の話をすると、このパウル少将はカップ一揆に参加した後に退役し、ヒトラーへの不信感を隠そうともしなかった為に、第二次世界大戦には参加しなかった。1964年に亡くなっている。

ドイツ騎士の典型と言っても良い男であろう。戦場での冷酷さと勇敢さも含めて。

スマッツの話に戻す。

南アフリカ国では、人口的にも政治的団結でもアフリカーナーは英国系を凌駕しており、その為政権は常にアフリカーナーは握ってはいた。

しかしスマッツに言わせれば

「イギリスは強大だよ。元は侵略者とは言え、彼らと仲良くやっていくしかアフリカーナーの道は無いんだ・・・」

となるだろう。事実ボーア人の作り上げた国々は滅ぼされているのだ。

なにより全体的に見ると、圧倒的多数派の黒人に対抗する為にも白人間で対立を起こす訳にはいかなかったのだ。

スマッツ自身がボーア戦争の名将であり、イギリスの本気の恐ろしさを熟知していた事も大きな要因であった。

しかしこの政策は、国民に・・・

特に支持母体であるアフリカーナーにとっては、酷く評判の悪いものだった。


ここいらで、詳しくボーア人の歴史を見てみよう。

ボーア人の始まりは、1652.4月6日に、ヤン・ファン・リーベック(Jan van Ribeeck)が、アフリカ大陸の最南端(正確には、東南東150kmの所に在るアガラス岬が最南端)、喜望峰から少し北に入った所に有る、静かな湾に上陸した事であった。

この湾は大きく張り出した岬(喜望峰)に守られており、南を見ると面白い程に山頂が平坦な山(テーブルマウンテン)が聳える方向明媚な土地であった。

岬の街、ケープタウンの誕生である。

ヴァスコ・ダ・ガマが1498年に、アフリカ航路を拓いて以来、喜望峰越え航路は各国の熱視線を浴びて居たが、喜望峰の周辺に調度良い寄港地が無いのが問題であった。

大西洋とインド洋の境界線に当たる喜望峰近海は、海流と風の関係が複雑で、一挙に通り抜ける事は難しかった。

そんな中、オランダが探し当てたのがこの土地で、担当者として選ばれたのが、医者の資格を持ち、バタビア(インドネシアのジャカルタ)、ベトナムのトンキン湾、日本の長崎港への渡航経験も持つ、リーベックであった。

この土地を選んだリーベックの判断は正しかった。

植民地としての利点が山盛りだったのだ。

ず、周囲に敵となるものが存在しなかった。

ジャングルも無く、住んでいるのは放牧して暮らすコイコイ人や、放浪して暮らす狩猟採集民のサン人だけである。(まとめてコイサン人と言う事も有る)

黒人よりも前に住んでいたコイサン人であるが、しかし彼らは人口が少ない上に製鉄技術も持っていなかった。勝てる筈も無い。

次の利点は気候である。

なんとケッペンの気候区分では、ケープタウン周辺は「地中海性気候」であったのだ。

ある意味で当然かも知れない。

何しろ、地中海が有るのは、赤道を挟んで反対側、対極の、北アフリカである。

コインの裏表のような関係と言えるだろう。

オランダよりは少し暖かいが、疫病の心配も無ければ、食料の心配も無かった。

地中海と同じ、小麦を育ててパンを食べれば良いのだから。

周辺に、オランダ以外の植民地など無かった。

葡萄ぶどうを植えて、ワイン作りも可能であった。

最寄りの植民地(つまり大型船が入れる寄港地)は、両方ともポルトガルが持っている、大西洋岸沿岸、アンゴラのルアンダ(ケープタウンから北に2,800km)。

インド洋沿岸、モザンピークのソファラ(同じく喜望峰を回りの航路で約3,000km)。

余りにも遠すぎる。

こうして、ケープタウンは拡大して行き、ケープ植民地となり、農民たち、即ちboarの人々と謂う新しいアフリカの民族が誕生するのである。

しばらくして、リーベックはケープタウンから離れ(バタビア総督も兼務していた)、1677年にバタビアで死んだ。享年57歳。


この後も、紆余曲折うよきょくせつの歴史が存在するのだが、ここでは省略する。

解っていて貰いたいのは、元々トランスヴァール共和国やオレンジ自由国を建国したボーア人たちは、遥か南西に位置するケープ植民地に住んでいた事である。

しかしケープ植民地は、ナポレオン戦争の結果として、オランダ本国並びにオランダ東インド会社が没落し、英領になった。

この時点でもう19世紀である。

列強では既に奴隷貿易は違法であると言うのが一般的であった。

理由は極めて単純で、経済の中心が農業から、工業へ移り、尚且なおかつ生産力が増大した為に、新たな市場(需要)が必要になったからである。

そして奴隷は需要にはならない。

奴隷はあくまで生産手段の一部である。

工業製品とは、必要な無い人には、全く必要では無い。

農作物なら、奴隷も立派な市場と成り得るが、奴隷は工業製品などは買わない。

ローマ時代の奴隷ならば、給料を貰っていたので、自分を買いなおすと云う手段が有り、その為に解放奴隷と謂う社会人口層が生じたが、中世以降の奴隷にそんな要素は無い。

結果として奴隷にして使いつぶすよりも、収奪対象として搾り取るほうが良い、と判断された。

身もふたも無い言い方をすれば、19世紀以前の奴隷とは、ティッシュペーパーのような消耗品であったが、これからは白物家電のような耐久消費財と同じ扱いになった、とも言える。

ここで肌まで白くなれば完璧だっただろう。

奴隷の寿命は、場所にもよるが、最も劣悪な場合、6年で死んだ。

冷蔵庫として使うならば、10年は使いたい所である。

この搾取経済は長く列強の経済構造となり、フィデル・カストロが1959年にキューバ革命を起こす動機にもなり、そして21世紀になっても、その名残りがある。

後に年季労働者として、期限付き奴隷が主流になるが、その期限は5年程であった。

6年も働かせていては死んでしまうと、冷たい方程式が作用した可能性は有る。

別に、人道主義による奴隷解放運動も、わたしは否定しないが、国家は、特にその経済活動は、善意では中々動かないものだと思っている。


兎も角、南アフリカ・ケープ植民地は英領となった事で、奴隷が禁止されてしまった。

しかしこの時点で既にボーア人にとって本国など存在しない以上、彼らにしてみれば黒人の世界の中で放り出されたような恰好になった。

他の列強の植民地では、本国の行政機構の中の一部となり、本国に従う現地部族を組み込む事で、現地の白人の安全は保障されたが、ボーア人には不可能である。

この時点でボーア人と、イギリスの政治は完全に決裂したのである。

グレート・トレックが開幕した。

時は1835年。


イギリスに反発する奴隷制支持者たちは、牛車を仕立てて奴隷と供にケープタウンから北東に位置する内陸の高原地帯に出向き、神が彼らに与えた「約束の土地」だとして、入植を開始した。

このせいで、ケープ植民地からは、一時期白人人口が激減し、慌ててイギリスから人が送り込まれた為に、現在まで続く西部・イギリス系、東部・ボーア人の住み分けが生まれた。

植民後、最初はインド洋に近い、ズールー王国の隣にナタール共和国を作り上げたが、そこで内紛を起こし、結局そこに付け込まれてイギリスに攻め滅ぼされる。

その後北上してトランスヴァール、西に残ってオレンジ自由国の二国を建国した彼らは、ここにきてはっきりとボーア人から「アフリカーナー」になった。

どうもアフリカーナーたちは、このグレート・トレックを、旧約聖書の出エジプト記、預言者モーセに率いられてカナンの地に辿り着いた旅路に重ねていたようである。

アフリカーナーたちは、この二国を大事に育て上げ、周辺の黒人を圧迫しながら勢力を拡大し、確固たる勢力圏を築いた。

イギリスは、1869年のスエズ運河の開削と共に、ケープ植民地の重要性が下がった事もあって、この二国の独立を承認する。

余談だが、トランスヴァールとはつまりヴァール川の向こう側(南岸にあるのがオレンジ自由国)と謂う意味で、正式名称は南アフリカ共和国と謂った。

しかしこの状況は一変する。   

運命の1886年、トランスヴァール領内で、金鉱が発見されらのだ。

その場所こそ、まさしくヨハネスブルグであった。

時代も悪かった。

19世紀も終わるこの時期、列強による植民地帝国は、新たに米国・大日本帝国の参戦もあって、まさしくピークに達しようとする時期であったのだ。

またイギリスにとっても、三国戦争の末に南米の経済的な支配による非公式帝国の樹立と、オーストラリア・ニュージーランドが自治領へ昇格して、開発が本格化が重なる時期でもあった。丁度、南半球に、イギリス本土に近い拠点が欲しくなった頃に、第二次ボーア戦争の火蓋は切られたのである。

すでに名高きズールー王国は英軍に敗れており(1879年)、この戦いは植民地における白人同士の正面衝突となった。

この戦いは、意外な程に悲惨なものであった。

アフリカーナーたちは機関銃を調達しており、それに野戦築城技術を組み合わせて激しく抗戦した。丁度、日本の戦国時代の長篠の戦いと構図は似ているかも知れない。

ゲリラ戦に業を煮やしたイギリス軍は、焦土しょうど戦術を採り、なんと捕らえたアフリカーナーたち(女子供を多く含んでいた)を強制収容所に送り込んで、平然と死なせたのである。

ガス室を作らなかった当たりは、ナチスとは違う。

半ば事故だったと言えなく無いが、しかし2万人を死なせている。

かく、国力差が愕然がくぜんとしている上に、ここまで本気を出されると、最早もはやアフリカーナーに勝ち目は無かった。

「ボーア人の自治を認める」

「再建費用として300万ポンド支払う」

「オランダ語の使用を公的機関において認める」

たったこれだけの条件で、アフリカーナーたちは降伏し、ヨハネスブルグの南にあるフェリーニヒングで条約は締結された。1902年の話である。

(この頃はまだアフリカーンス語は公用語では無い)

なお、強制収容所の音頭を取ったのは、ホレイショ・ハーバード・キッチナー(Horatio Herbert Kitchner)である。

この男の一生と言うのは、一身に大英帝国の植民地を維持するためだけについやされたようなものだった。

イギリス軍としての初陣が、スーダンのマフディー(救世主)国家を打ち砕く事から始まって、歴史的な英仏の妥協、1989年のファショダ(スーダン)事件の時に居たのもこの男であり、ボーア戦争の後にインドに赴きこの地の在インド英軍の司令官を務めると、1910年に陸軍元帥に昇進した。この男は第一次世界大戦中、陸軍大臣となってドイツ帝国と戦い、その最中に海で死亡した。65歳。

よくよく人の死に縁の有る男であろう。

敵味方の屍の中で、一人イギリス軍旗を掲げて進み続けたような、そんな人生である。

この男が死んでからと言うもの、イギリス陸軍は華々しい勝利から遠ざかってしまう。

この当たり、あやかって名づけられた、ネルソン提督の名前、ホレイショの名に恥じぬ戦歴と言えよう。

さて、キッチナーはイギリス陸軍の英雄であるが

しかしボーア人からすれば憎んでも憎み切れない仇敵きゅうてきである。

ところが第一次世界大戦が勃発すると、南半球の植民地人からなるANZAK軍団が組織されたのだが、当然の如く彼らは陸軍大臣キッチナーの指揮下になった。

反発が起こらない筈が無い。

反乱になった。

不屈の人・マリッツの反乱である。


第一次世界大戦中に表立って宗主国イギリスに対して反乱を起こしたのは、南アフリカとアイルランドの二か国だけであった。

この二か国の反発は骨太のもので、第二次世界大戦が終わってからも反発し続け、イギリス連邦に加盟はしては居たものの、反英派の急先鋒で、しばしば連邦内に混乱を引き起こしている。

ただしこの二か国の反乱には、最終的な処置に違いが現れた。

アフリカーナーの反乱軍は、結局ヤン・スマッツによって潰されたのだが、首謀者しゅぼうしゃたちはマリッツも含めて結局殺される事は無く、凡そ7年の禁固刑と2000ポンドの罰金で許され、ボーア戦争時代から生きてきた「不屈の人」たちはこの後、実に行儀よく合法的に活動な活動に従事して行き、後に大日本帝国がアフリカまで進出して来た時も、何もしなかった。

ただ彼らの合法的な活動とは、国民党を結成してアパルトヘイト体制の構築に勤しむ事であったのだが。

しかしイギリスのこの寛大な処置の原因は、単純に本国から見て南アフリカがはるか遠く9000キロ彼方の遠い遠い植民地の事件であったからで、反乱軍が最大で12,000人も集まったと言っても大した事件では無かったが、本国の裏庭で起きたアイルランドの処置はそうは行かなかった。

1916年ダブリン市内の、1000人程度の反乱軍の起こしたイースター蜂起ほうきに対して、イギリスは首謀者の全員処刑と云う処置を取ったのである。

これには大いに同情が集まり、アイルランド人は「パーネルを忘れるな!」と叫び反英感情を顕わにすると、第二次世界大戦後のアイルランド独立戦争、1949年のイギリス連邦離脱へと繋がって行くのである。

南アフリカは一度離脱したが、1994年にアパルトヘイトを止めてマンデラ大統領が誕生したので再加入している。


さてさて、そんな骨太の歴史を持つアフリカーナーである。

当然、素直にイギリスに従いはしなかった。


更に、ケープ植民地を広げていく上で、コーサ人やズールー人と言った一筋縄では行かないアフリカ人と戦って来た歴史も持つ。

この受難の歴史は、アフリカーナーに強い団結力を与えると共に、他民族全てに対する恐怖心を植え付ける事になった。


そんな中起こった第二次世界大戦は、南アフリカに好況をもたらした。

何しろ、一次大戦時と違って、赤道以南のアフリカ大陸はほとんど戦場にならなかった。

だから、南アフリカはただ後方基地の役割をしているだけで良かった。

資源は採掘したそばから売れ、企業も労働者も繁栄を享受きょうじゅする。

この繁栄を支えたのは、人種主義立法の元、低賃金労働に甘んじていた黒人労働者たちである。しかし、この好況の中で、そんな彼らも権利の拡大を要求して来た。

機械化が進んでいない状況では、自身の重要性を理解した現場労働者も妙な知恵を付けるものである。

これに対して、スマッツ政権はわずかだが譲歩をしようとした。


しかしそれは、大多数のアフリカーナーにとっては民族への裏切り行為に他ならなかった。

高い教育を受けた英国系に対し、アフリカーナーは教育や富などに劣り、白人間で深刻な貧富の格差が生じていたのである。

仕方がない話なのだ。

最早アフリカーナーが独自の軍隊を放棄して30年が経つ。

そして20世紀の前半期に於いて、最新技術とはほぼ全てが軍属と言って良い。

つまり、高度に洗練された、知識や技術を持つには、膨大な予算と国運を賭けて作り上げられた軍隊を持たねばならない。

もうアフリカーナーはその一大レースから脱落しているのだ。

最新の情報・技術は全て英語で学ぶしか無く、それをアフリカーンス語に翻訳ほんやくしている内に、世界は更に前進してしまう。

資金の問題も有った。

単純な理屈で、文字通り全世界に植民地を持つイギリスの企業と、アフリカ大陸南辺なんへんに住まうアフリカーナーの企業と、投資をつのったとして、果たしてどちらが多くの資金を集める事が出来るだろうか。

金が無くても、軍隊が無くても、先進国で居られると、そんな時代が来るのは、もう少し時代が過ぎるのを待たねばならない。

さて、イギリス系と既に貧富の差が拡大しているアフリカーナーだが、此処に黒人の進出を許してしまうと、彼らの未来はどうなるか。

アフリカーナーは二級白人ですら無くなるだろう。

失業者は溢れ、黒人に取って替わられてしまう。

少なくとも、彼らは本気でそう思った。


其処に表れたのが、ダニエル・フランソワ・マラン(Daniel François Malan)の国民党である。

マラン姓は、フランスのユグノーを起源とする古い姓で、つまり古式ゆかしいアフリカーナーの血筋であった。

元々はプロテスタントの牧師である。

しかしこの場合、プロテスタントとは、例の1835年のグレート・トレックに、モーセの出エジプト記の情景をえたプロテスタントであった。

プロテスタント、「抵抗する人」である。ある意味これ程アフリカーナーにピッタリな宗教もあるまい。

1914年に、元オレンジ自由国の将軍であったヘルツォークが国民党(Nasionale Party)を作り上げると、マランはこの党の広報を担当した。しかしこの党は1934年にスマッツの党と合併してしまう。

すると即座に反対派を率いて連合党から脱退し、新たなる国民党を立ち上げたのだった。

1928年に、ユニオンジャックがデカデカと国旗に載っているのが気に食わないと言って、改定させたのもこの男である。

当初は、純正国民党と言っていたが、しばらくするとそのまま国民党と謂われるようにになった。

ガチガチの白人至上主義の政党である。

この政党が1948年に、南アフリカ共和国の政権を獲るのである。

国民党 70議席

連合党 65議席

この時は未だ僅差きんさだったが、連合党はこの後も敗北を続け、1977年には解党してしまった。

英雄スマッツは、首都プレトリアに有る空港にその名を残したが、それもアパルトヘイトの解消と共に改名し、現在は反アパルトヘイト闘争の英雄、オリバー・タンボ空港となっている。

スマッツは二年後の1950年に死んだ。満80歳。

理性と善意を兼ね備えた偉人であったが、時代は彼に戦争と挫折を与えただけだった。


さて、此処で始まるのが、アパルトヘイト(Apartheid)である。

アフリカーンス語の発音ではアパルトヘイド。意味はそのまま「隔離」である。

 選ばれた民である、我々白人が、黒人に取って替わられる

 そんな事は有ってはならない。

 白人と黒人は別々の世界で、自らにふさわしい暮らしをする 

 それこそが両人種の幸せでありましょう!

保守的な、つまり多人種への不信感の強い地方のアフリカーナーを支持基盤に、スマッツ政権時代よりもさらに強力な人種隔離かくり政策を提唱して支持を獲得して行ったのだ。

基本は、土地政策であった。

白人の住む土地と、黒人が住む土地を、厳密げんみつに分けたのである。

この辺、呆れる話なのだが、黒人(アフリカ人)の住む事の出来る土地と謂うのが、国土の僅か13%しか無かった。だから、それ以外の土地は、黒人に所有権が無いと謂う理屈である。この理屈は、東部三州(トランスヴァール・オレンジ・ナタール)では特に厳密に施行された。人口の7割は黒人だと言うのに、国民党政権は本気でこんな土地行政を敷いていたのである。とは言え、ドラケンスバーグ山脈がそびえる地域でも有るので、当局の目を逃れる黒人も多かった。

だから1960年代に入ってさらに強化されたアパルトヘイトが施行されると、黒人の強制移住が拡大して行くのである。

この数は、今一判別していないのだが、平均すると年に15万人とも言われる。

そして対応が実に雑であった。

昨日まで住んで居た家から無理矢理引っぺがされ、もう戻れないようにと、ご丁寧に火をかけられて更地に戻されるのを眺めながら、指定された『新天地』に言ってみると、バラック小屋の中にトイレが設置されているだけだった。

家に入りきらない家財道具が雨に濡れて駄目になり、そのまま手放した。

トイレすら満足に整備されてい無い事もまま有り、コレラが蔓延まんえんした。

こんな事例は、調べれば止めどなくあふれてくる一例に過ぎない。

抵抗すると容赦無く暴力が振るわれ、それでいて職を得ようと思えば、白人に頭を下げるしか無かった。

素直に感心する。

よくもまあ、こんな事を30年以上も続けたものである。

今の日本でも、不法滞在で入管に収監されている外国人の扱いの悪さが、死者を出す程の問題となっているが、これは外国人とうものに対する、政府の認識の甘さと行政の人間味の無さが根底に在る。

しかし、国民党政権は明確に、確信を持って、同じ国に住み同じ言葉を話同じ職場で働く黒人たちを、切り捨てた。

余談だが、このせいで南アフリカは陰謀劇の恰好の舞台となり、ゴルゴ13の漫画ではよく登場する国であった。

ただそのせいで、マンデラ大統領が誕生して以降、あまり舞台にはならなくなった。


この辺、凄い話であるが、何とアフリカーナーの基盤となっているオランダ改革派教会(カルヴァン派)がアパルトヘイト撤回後の1997年に出版した証言録に於いて、堂々とアパルトヘイトは教会が熱心に推進した政策であったと言い切っている。

しかし、今日南アフリカに於ける信徒の割合は、キリスト教が94%であり、その信仰に揺らぎは無い。

そしてマンデラ大統領の元、1997年に制定された国歌では、アフリカーナーが歌い続けた「南アフリカの呼び声」と、差別された黒人たちが歌い継いで来た「神よアフリカに祝福よ」を合体させて生み出されたものである。

アパルトヘイト推進派も反対派も、双方同じ神に祈りを奉げていたのだから、面白い話である。

この当たり、宗教の矛盾だとか、残酷さを唱えるのは、少し違うだろう。

全知全能なのだから、人間の都合で枠に当て嵌めるのは度台不可能なのだ。

今、南アフリカの白人も黒人も、同じ神の信仰の中で生きている。

こんな奇跡は、人間には起こせない。

言い方は悪いが、マンデラごときでは、神の代用品にも成れやしないのだ。

教会の証言録に言う

「異なった民族に対して、異なった言語と異なった文化状況の元の、神の言葉が伝達される事は悪では無い」

アフリカの他の国々と同じように、南アフリカの民族状況もかなり複雑である。

しかしそこにキリスト教が入り、共通の言語・概念が持ち込まれた事で、アパルトヘイトが解消される土台が生まれたと言う言い方は出来よう。

実のところ、アパルトヘイトは南アフリカの専売特許では無く、他の国々でもそれなりに似たような、権力・権利の分離独占は行われている。

南アフリカの場合、アフリカーナーたちが、そもそも国家を作り上げる実力を持っていたが故に、それが徹底てっていされ、そして合法的に解消されたのだ。

例えば、1911年の時点で、南アフリカは綿密めんみつな人口調査を行っていた。

連邦として統合されたのが1910年の事だから、ほぼ建国時の人口分布である。

それによると

総人口5,973,394人

白人1,276,242人(22%)

アフリカ人4,019,006人(67%)

カラード525,943人(8%)

アジア系152,203人(3%)

同時代のアフリカで、これ程綿密な人口調査が出来る国は他に無い。

何故なら、綿密な人口調査には、緻密ちみつな戸籍の管理と、厳密な国境管理が必要になるからである。

フランス直轄領だったアルジェリアの白人人口なら、と思うが、しかし南の国境が大サハラの荒野に有るので、国境管理など不可能であろう。

この人口比率は、1996年のアパルトヘイト撤回に至るまで、ほとんど変化しなかった。

人口が7倍の4300万人に増えただけである。

この事が、後々アパルトヘイト撤回に静かに作用して行く。

周囲の黒人諸国からの介入を防ぎきったのだ。


南アフリカの専売特許でも無いアパルトヘイト。

ではそんな他の国々はどうなったかと言えば、大抵の場合悲惨な内戦になるか、国が滅んだ。中国人民共和国でも、戸籍が地方の農民と都市住民とで明確に別たれており、これも立派なアパルトヘイトである。

果たして合法的に解消されるのだろうか。

ある意味アパルトヘイトの理想形は、チェコスロバキアの分離であろう。

とは言え、如何にバベルの塔や聖霊降臨の文章を引っ張り出したり、いずれキリストにより高次の霊的一致が成されるであろうと言っても、1972年時の調査に於いて、白人と黒人との間に、平均寿命にして30歳分の差が付いている時点で、発展もへったくれも無い。

この差は、乳幼児死亡率の高さを物語っている。  


さて、故マンデラ大統領はこう言った。

南アフリカとは虹の国であると。

しかし、黒人・アフリカーナー・イギリス系だけでは、色が足りない。

黒人の話はまた後でするとして、南アフリカにはまだ二色有るのである。

それがユダヤ人とカラードである。


ユダヤ人

正確にはユダヤ人左翼である。

少数派(ユダヤ人口の比率は4%)の中のさらに少数派であるが、この人々は、完全な黒人政党であるANC(アフリカ民族会議)に現在でも投票し続ける稀有けうな白人であり、その代表格と言えるのが、アパルトヘイト解消時に大立ち回りを演じた共産党の老獪ろうかいジョー・スロヴォ(Joe Slovo)と全人種参加選挙の選挙管理委員長を務めた自由主義者のヘレン・スズマン(Helen Suzuman)である。

ユダヤ人たちは、イギリス連邦の時代に入ってから、ケープタウンに住みだした人々であり英語を主に使い、ユダヤ教とう明確なる少数派である為に、キリスト教系政策であるアパルトヘイト政策下では居心地が悪かった。

イギリス系社会でも住みづらく、アフリカーナーにもなれない彼らは、必然的に白人社会で圧し潰される事を恐れていた。そこで反アパルトヘイトの側に付く事で、黒人社会にり寄ったとも言える。

単純に、ナチスみたアパルトヘイトを嫌っていたと言うのが本音かもしれないが。

とは言えコミンテルンからの指令、「アフリカ人の中に入って戦え」を忠実に実行していき、遂にアパルトヘイト撤回の原動力になったのだから、大したものである。

但し、南アフリカ共産党は1950年から非合法政党の扱いで、正式に議会に参加は出来なくなった。


カラードの場合は、もっと難しい。

アメリカ合衆国にいてカラードと言うと、黒人・アジア人一緒くたにされるが、南アフリカにいては少し違う。

あからさまに言うと、「昔から白人の言う事を聞いていた連中」の総称である。

政治的な起源は、1834年のケープ植民地に成された奴隷解放令によって生まれた解放奴隷たちであるが、それ以前からカラードは居た。

植民地の、特に男たちの事情である。

入植したその時から、女性が少なかったのだ。

半ば冒険のようなものだから、当たり前の話だが植民船に乗りたがる女性等は希少きしょうである。しかし男たちからするとたまったものでは無い。

下半身のおもむくままに、男たちは色んな女性に手を掛けた。

こうして生まれた混血児がカラードの源流である。

1854年の選挙法で、カラードにも選挙権と選挙権(政治家になる権利)が与えられたが、財産・所得の制限も有って、あいにくとカラードの議員は生まれなかった。

しかしこの古い選挙法の恩恵によって、アパルトヘイト政権下に於いても、カラードたちは一定の発言権を持っていた。


カラードの代表例がコイコイ(KhoiKhoi)人で、当初はホッテントット(Hottentot)と呼ばれていた。

サン人と共に上古の時代から赤道以南のアフリカ大陸に居住していた民族で、サン人と合わせてコイサン人と言ったりする。

サン人は完全に南アフリカから逃散して、今や北隣りのボツワナとナミビアにしか住んでいない。

コイサン人の特徴はその尻である。

かなりでかい。

セクシーな大きさでは無く、クレヨンしんちゃんに出てきそうな大きさである。

混血が進んだ現在ではどうなのかは、知らないが。

五大人種区分では、カポイド(Capoid)とされ、白人・黒人・アジア系・マレー系とは別たれており、肌もそこまで黒くは無いようだ。

コイコイ人は、ケープタウン周辺に住んでいた為に、真っ先に白人の脅威、即ち銃・病原菌・鉄に晒されて、人口が激減した上に奴隷にされたが、それ故に早くから白人の文化に馴染み、キリスト教を受け入れ、言語を習得し通訳となった。

ホッテントットの定義は、ボーア人たちが、その話振りを理解出来なかったので、「どもる人」だと言っていたからだと言われ、当初はナミビアのヘレロ族もバンツー系なのにホッテントット扱いされていた。

ホッテントットからコイコイ(コイコイン)に変化したのは、ケープタウン大学のアイザック・シャペラ教授(1905~2003)の研究を発展させた、カラードの歴史研究家ジーアヴォーゲル(1903~1957)が1938年に著した、「褐色の南アフリカ」の中で、コイサン諸語の一つ、コエ語の「人々」から採用したのが最初の話らしい。

純粋な、血族的に正統なるコイコイ人は、1830年代にもう全滅している。

20世紀に入って、コイコイ人の文化的な復興運動も持ち上がっており、マンデラ大統領の時代に新しく制定した国章には、コイコイ人がモチーフに使われている。

遺伝子学的な調査では、今現在カラードと定義されている人々の中には、大体三割程のコイコイ人の血統が混ざっている。


カラードの立場は一葉では無く、例えば1806年にイギリス軍がケープ占領にやって来た時は、ボーア人と共に、カラード民兵・ホッテントット歩兵隊が連合して立ち向かったと言われる。(この頃のカラードは多分マレー系)

恐らくこの頃から、アフリカーンス語がアラビア文字で記されるようになったのだろう。

マレー人がコーランやシャリーアを教えようとすれば、アラビア文字しか無い。

しかしマレー系はだんだん本格的にイスラム化して行き、アフリカーナーがイギリス系と結びつくと、異教徒と言う事で疎遠そえんになって行く。

その後、グレート・トレック(1835)が有り、第一次ボーア戦争(1881)と第二次ボーア戦争(1902)が有り、1910年に南アフリカ連邦(公的にはイギリスの自治領)が成立。

その頃にはまた、新たなカラードがこの地にやって来ていた。

砂糖栽培の為に、インド洋に面したナタール港に上陸したインド人だ。

この中に居たのが、若き日のマハトマ・ガンジーである。

彼は1893年、24歳の時に南アフリカにやって来て、弁護士として開業した。

1915年にインドに帰るまで、あからさまな差別に晒されながら、イギリスの中の一インド系国民としての立場を採る事で、インド系の地位向上に尽力した。

第二次ボーア戦争の時には、インド系社会としての存在感を示すべく、インド系で編成へんせいされた救護きゅうご部隊を、英軍に参加させている。

ガンジーは、後にインドを独立させる様々な手法・理念をここ南アフリカで作り上げ、反アパルトヘイト派も、インド独立の過程は大いに参考にしていた。

インド系は、カラードとアジア系の区分を行ったり来たりしているが、この辺は政権側の都合でしか無いので、カラードに纏めて良いだろう。


中国人も、この頃にやって来ている。

1905年のケープタウンの名簿を見ると、初めての中国人として、苦力クーリーがそこに記載されている。

しかし文人でも役人でも冒険家でも無く、苦力クーリーと記載されている辺り、なんとなく中国らしい。

中国が明確にアフリカに関与しだすのは、周恩来の時代に入ってからになる。

愉快な話なのだが、南アフリカに於いては、中国人は黒人である。

アパルトヘイト撤回後に、黒人に対する様々な政策から外れた扱いであったのが不満で、裁判所に対し、法的に黒人として扱われるよう、訴えを起こし、それが認められた為である。2008年の事だ。


さて、カラードが自らの立場を文化的・政治的に定めるのは、1920~30年代の話である。

この頃、カラード知識人の間で、自分たちのアイデンティティを巡る混乱があり、カラードなんて辞めて白人になろう(黒人から離れよう)と言う意識が強かった。

そこに登場したのが、二人の歴史家、スコットランド生まれのウィリアム・ミラー・マクミラン(1885~1974)とケープタウン(の近郊)で生まれたJ・S・マレー(1888~1969)である。

先に述べたカラードの歴史家ジーアヴォーゲルは、正式な博士号を持っておらず、基本的にケープタウン第六区図書館の司書として暮らしていた。

このリベラル派の二人がそれぞれ上梓したのが、1927年の『ケープの人種問題』と1939年の『ケープ・カラードの人々』の二つの論文である。

しかし二人とも、偶々たまたま興味が出たので論文を書いてみただけであり、カラードに関する論文はもう出さないまま、他の方面に行ってしまった。

しかしカラード・アイデンティティに於いてこの論文が一つの契機けいきにはなった。

カラードの集団としての行動に、背骨が出来たのだ。

政治的に実態を持ち始めたカラードに対し、アフリカーナーは冷たかったが、野党的な立ち位置のイギリス系は積極的に取り込んでいった。

これはカラードにとっても都合が良く、世界的に通用する言語だと云う事で、英語教育が充実していき、アフリカーンス語は余り話さなくなり、これが増々ますますアフリカーナーの反感を買った。

アフリカーナー政権は、選挙におけるカラードの割合を減らす為に、母数を増やす事にした。

1930年に女性の参政権を認め、1931年には財産条件を撤廃して、その上でアパルトヘイト体制下の1956年、カラードから参政権を取り上げた。(黒人の参政権は元から無い)

ただし、この頃には、西部のケープ州ではカラードの住人が多くなっており、一部のカラードたちは、投票する権利自体は未だ保有していた。

おまけに女性参政権を認めた事で、最強の反アパルトヘイト闘士が一人、ヘレン・スズマンの覚醒を呼び起こしてしまったのは、誤算だったであろう。

実際のところ、カラードかどうかとは、当局の主観に依るところが大きく、白人の夫婦から生まれた子でも、肌の色を見てカラード扱いにする場合が多かった。


さてさて、一先ひとまずここに役者はそろった。

西部・ケープ州(1994年に三つに分割された)に住まう、イギリス系とカラード

東部三州・トランスヴァール・オレンジ・ナタールに住まう、アフリカーナーと黒人たち

(ただナタール州には、インド系カラードが多い)

役者たちは、1910年に統一政権の南アフリカ連邦を結成。

その南アフリカ連邦を、1934年に主権国家として成立させる。

首都は三分割され

行政首都のプレトリア(元・トランスヴァール共和国の首都)

司法首都のブルームフォンティーン(元・オレンジ自由国の首都)

立法首都のケープタウン

となって居るが、各国の大使館が置かれている事から、事実上の首都はプレトリアである。

(ヨハネスブルグは首都では無い)

イギリス連邦の一員として、1948年の選挙を迎え、そしてアフリカーナー右翼政党の国民党が政権を取った。

アパルトヘイトが開始するのである。

この政策が1990年代初等まで維持されたのは、国民党の政策は確かに白人間の対立を解消し、結果として支持を受け続けたからである。

黒人と白人の対立よりも、白人間の対立の方が深刻なればこそ、成り立った政策ではあるが、アフリカーナーの歴史観にのっとって作られた政策であるが故に、イギリス系とは温度差が有った。

イギリス系は、現在に至っても、アフリカーナーの六割程(3:2の比率)しか人口が無く、それ故にこの政策に迎合げいごうした。結局白人優位の制度を作るのだ、イギリス系にも甘いあめである。

さて、政権を握った国民党は、矢継やつぎ早に人種差別立法を成立させ、あっと言う間にアパルトヘイト体制を確立してしまった。

その中には異人種間の婚姻どころか性行為まで禁じた改正の背徳はいとく法も含まれていた。

こうした動きを進める中、北隣のベチュアナランドで成立したツワナ人セレツェ・カーマとイギリス人ルース・ウィリアムズの結婚など、認める事は出来なかった。

何しろ首都プレトリアからベチュアナランドまで、直線距離で200kmしか無い。

これで無視しろと言う方が難しいが、裏の事情も有った。

実は南アフリカは1910年の連邦成立時に接続領土

バソトランド(レソト王国)

スワジランド

ベチュアナランド(ボツワナ)

南ローデシア(ジンバブエ)

の併合を想定して憲法を策定していたのだ。

従って、南アフリカはベチュアナランドを自己の勢力圏と見なしていた。

こうして、南アフリカは動き出した。

1949年の事である。


その日、イギリス連邦首相クレメント・リチャード・アトリー(Clement Richard Attlee)は朝から不機嫌だった。

栄光なるウィンストン・チャーチルと保守党から1945年に政権を奪取して労働党内閣を作り上げ、66歳を迎え東西冷戦を戦い始めたアトリーにとって、ソ連よりも不快で厳しい相手が今日、対面するのだ。

イギリス国王ジョージ六世は2年前の1947年にこの男の一派と会い、不快感を顕わにし、「ぶち殺してやりたい」とらしていた。

アトリーも、嫌いだった。

ひげを手入れしながらそう思っていても、どうしようも無い。

会わねばならない。内容も結論も分かり切っているのに。分かっていればこそ。

「こんにちは、首相閣下」

思いのほか流暢りゅうちょうな英語で、その男が入ってきた。

「いらっしゃい、マラン首相」

肖像画のような微笑みでアトリーはそう答えた。


75歳の禿げ上がった頭を気にする事も無く、マランはイギリスの伝統と先の大戦に対する活躍に修辞を述べると、早速本題に入った。

「先年のベチュアナランドで起こった異常事態はご存じですか?」

「一人の男性と一人の女性が、周囲の反対を説得して結婚にぎつけたそうですね。素直に喜ばしい事でしょう」

「でしたら話は早い」

マランはそう言うと、椅子の座りを直して、続けた。

「宗主国の権限で、カーマ氏の結婚を白紙に戻してください」

「答えはノー、です」

アトリーはそう言って、机の上で指を組んだ。

「仮にもベチュアナランドは英国の保護領であって、南アフリカ領ではありませんね」

マランは表情を変えない。

「内政干渉はお断りしますよ、マラン首相。お引き取り下さい」

「おやおや、良いのですか、そのような事を言って・・・」

沈黙。

しばらくしてマランが続ける。

「もし、そう、もしも、ご協力を頂けない場合、南アフリカの資源はただの1ポンドも英国に流れなくなりますよ?」

そう来ると思ってはいた。

大戦で疲弊した英国経済にとって、南アフリカの資源は生命線である。

癪に障れど、マランの要求を拒否する術は無い。

「それだけではありませんよ」

眼鏡を拭くと、マランは言った。

「南アフリカ連邦軍は二度の世界大戦で鍛えられています、貴国に従って出兵したお陰で」

「・・・仮に隣接区域に於いて我が国に対して危害を及ぼす事象が発生した場合、排除する事も出来るのですよ」

「本来責任を負うべき宗主国は、ろくに軍も駐屯させていないようですし、ねえ?」

アトリーは、ビキビキとひたいに青筋が立つ音を、確かに聞いた。

「脅迫、する気ですかな、マラン首相。仮にも連邦盟主に対して。それは賢いお言葉とは思えませんよ」

マランの眼差しは優し気である。

「誤解なさらないで下さい」

「我々、南アフリカはイギリス連邦に『入ってあげている』のですよ、アトリー首相」

「脱退すべき、と云う意見は日増しに強くなっていましてねえ」

再び、沈黙。

アトリーは、45年前のキッチナー将軍に文句を言いたくなった。

何故もっと確実に、ボーア戦争の時に叩き潰してくれなかったのかと。

名だたる大英帝国が、二度の世界大戦の勝者が、なんたるざまであろうか。

「さて、我々の要求をんで頂けますかね?」

マランのその言葉に、アトリーはもう反論出来なかった。


去り際のマランに、一つ問うてみた。

「マラン首相、貴方は自身とヒトラーの似ている点は有ると思うかしら」

「ええ、よく似ておりますよ、反共産主義のとりでを自認している点がね」

その時、初めてこの男は笑った。

顔も見たくない男との会談を終えたアトリーは、秘書を呼び、一人の夫婦を呼び出した。

首相の責務ではあるが、こんなろくでも無い仕事が有ると知っていたら、果たして若き日の自分は政治家を志していただろうか。

暫くして、二人が来た。

「どうも、首相閣下。お呼びに預かりまして、セレツェ・カーマと申します」

「妻のルース・カーマです」

幸せそうな夫婦である。

マランは、南アフリカは一体この二人に何の恨みが有るのか。

そう思っても、もうしょうがない。これから自分はその陰謀の片棒を担ぐのだ。

「担当直入に言いましょう、Mr,and Mrsカーマ」

「王位を取るか、妻を取るか、どちらかを選びなさい。」

驚愕きょうがくする夫婦の意見は、聞いていられない。

「植民地の運営上、あなた方の結婚には多大な問題が有ります。王位に就くなら離婚してもらいます。このまま結婚を続ける限り、我がイギリスはあなたの王位継承は認めません」

嗚呼ああ、何故自分は、あのような悪人の要求で

このような善人の幸せを潰しているのか。

ささやかな温情として、王位を放棄するのなら、このまま結婚を続けても構いません。帰国も認めましょう」

沈黙。

呆然ぼうぜんとする妻に対して、ぐに夫の激情が口を衝いた。

「何なんですか、その決定は!?断るに決まっているでしょう!!大体、ングワト族内にいては法的処理は全て住んでおり、これは全ツワナ人も認めているのですよ?部族の正式な決定を、王自らないがしろになど、出来る訳が無いでしょう!!」

詰め寄る夫に対して、首相の自分が言える事は、実に情けない。

「宗主国の決定は、一部族の決定に優越するのです、カーマさん。れは決定事項なのです。例え、とある筋からの圧力が有ったとしても、です」

「南アフリカでしょう、解っていますよ!世界に冠たる大英帝国が、連邦傘下の一国の内政干渉に屈するとか、帝国の名が泣きますよ!」

「イギリスの事情だけではありませんよ、カーマさん。南アフリカの協力無しに、ベチュアナランド政界に残ろのは不可能なのです、物理的に」

「・・・物理的とは何の事です?」

「カーマさん、ベチュアナランド保護領の行政府が何処に在るか、お忘れですか?」

「え、それは・・・マフェキングで、あれ?」

「そう、『南アフリカ連邦領』マフェキングです。あなたは南アフリカに拒否された身では、行政府自体に入れないのです。そんな首長がどうやって政治が出来るとお思いですか?」

説明すると、この辺、しょうもない理由である。

あまりにも貧相なベチュアナランドは、その上8部族に分かれていたので、国内に首都を置くべき集落が存在しなかったのだ。

その為に行政府が在るのは国境の外、南アフリカ中央部北端(多分ケープ州)のマフェキングに置かれていた。

現在は北西州の州都マフィケングと言い方が変わっている。

ベチュアナランドは脳を体外に置いていたので、体が何をしようと意味が無いのだ。

以上、説明終り。

「カーマさん、もうあきらめなさい。残念ながら、南アフリカとベチュアナランドでは重要度が違いますので、政権が変わっても、決定は撤回される事はありません」

「・・・それでも、私は妻を捨てる事は出来ません。部族の正式決定も裏切れない」

「ならば、とれる手は一つしかありません・・・」

イギリス国内に留まる事である。

あくまでも一般市民として普通の生活を送るのならば、南アフリカも何も言わないし、イギリスも何もしない。

言ってしまえば、ングワト族の亡命した王として、イギリスで暮らすのである。

尚、この会談は大体わたしの妄想である。

恐らく直接会談そのものは、二つとも無かったであろう。


こうしてセレツェは帰国をはばまれ、イギリスでの生活を余儀なくされる事となった。

この滞在生活は、結果的に7年にも及ぶ事となる。

1951年に政権は交代したが、復活した保守党のウィンストン・チャーチル政権もこの問題を解決しようとはしなかった。

二次大戦中のアメリカからのレンドリース法で持ち込まれた物資を、イギリスはまだ必要としていた為に、れをポンドで買う事にしたのだが、総額10億7500万ポンドにのぼった。この債務さいむを、イギリスは50年かけて返却していく羽目になる。

終戦直後のこの時期、イギリスの懐事情は最も苦しい時期であったのである。

この上南アフリカといさかいは起こせなかった。

結局、アメリカへの借金を全額返済するのは2006.12月29日の事である。


この決定がベチュアナランドに伝わると、ングワト族は激怒した。

取り繕うように出されたイギリスの再審議要求を、ングワト族は全会一致で拒否。

セレツェの王位継承と帰国を強く要求し続けた。

あまりの反発の強さに、暴走する事を恐れたツェゲティは1952年に摂政を辞任し、クウェナ族地区へと移住。しかしリーダーの居なくなったングワト族は、より急進的になって行った。

英国議会内でも、セレツェ擁護ようごの論陣を張る者が居た。

当然と言えば当然の話で、こんな事は自由の国のする事では無い。明らかに民主主義にも人道にも反してしる。

活発に発言していたのは、偉大なる平和主義者・フェナー・ブロックウェイ(Fenner Brockway)であった。

労働党所属の社会主義者(別にアカでは無い)

1888年にインドのカルカッタ(現コルカタ)に生まれたこの人は、壮絶なる自由と平等の戦士で、一次大戦時に、兵役を拒否した為に、逮捕された経歴を持つ。

二次大戦後には英領植民地の独立と人種差別反対運動に尽力しており、この老人からすれば、セレツェの問題は正に看過かんか出来ない議論である。

しかし決定を覆す事には至らなかった。


こうして月日は流れ、7年後の1956年。

セレツェはいまだ、イングランド中部のサリー州にて暮らしていた。

8月

サリー州の街、チャートシー。

緑色の風の吹くイギリスの街並みを、一人の男性が歩いていた。

黒い肌のその顔には、深い皺が刻まれていたが、陰気な感じでは無かった。

この男はしばらく街を散策した後、ある一軒の家の前で立ち止まって、庭をながめていた。

そこでは肌の黒い、子供たちが、ありきたりな遊びを楽しそうに繰り広げていた。

この男は、この姉弟きょうだいに声を掛けた。

「坊や。もし良かったら、お父さんを呼んで来てくれるかい?」

「おじさんダレ?」

少年にとって不思議なのは、姉を守るように背中に回して前に出ると、この人が何故か笑みを深めた事だった。

「・・・うーん、そうだな、『確かに大学に行ったから食べて行けてるな』って言ってもらえるかな。そう言えばきっと解るよ」

「うん、解った、呼んでくるねー!」

姉の手を引いて家に入って行った少年を見送りながらあ、この男はぽつりと呟いた。

「7年か、長すぎるよな・・・」

この少年の名はイアン、姉の名はジャクリーン。

この少年が、後の第4代ボツワナ大統領となる、イアン・カーマ(Ian Khama)である。

この時、3歳。

少しして、バタバタと足音が家の奥から響いて来た。

「お、お、お叔父上!お久しぶりで!!」

現ングワト族の王、セレツェ・カーマの登場である。

「久しぶりだな。元気そうで何よりだ。」

元摂政、ツェゲティ・カーマとの、7年振りの再会であった。


「あの子がイアンか?」

ツェゲティの声も明るく

「ええ、自慢の息子ですよ」

セレツェの雰囲気も悪くない。

「いい子だな、お前の子供の頃にそっくりだよ。ジャクリーンと会うのは、赤ん坊の頃以来になるな」

「イアンは動物とか好きで、よく猫と戯れています。その内引っ掻かれそうで怖いのですがね。」

2013年、フランス通信社(AFP)は、イアン・カーマ大統領が動物保護施設でチーターに襲われて、顔面を引っ掻かれたと報じた。絆創膏を張る程度の浅い傷で済んだと言う。

「・・・ところで、叔父上の要件はそれだけですが?」

「いや・・・」

書斎の中にしょうじ入れたツェゲティは、じっとセレツェの顔を見つめた。

「もう7年だ。もうこれ以上、ングワトを放置しておく事は出来ん」

「やっぱりその件ですか・・・」

沈黙。

「・・・私も解ってはいるのです、このままでは駄目だと言う事は・・・」

「セレツェ、今更離婚しろとは言わん。子供も生まれているし、何より民会(コトラ)で正式に認められた結婚だ。ただ、指導者の居ないままングワトをこれ以上置いてはおけん」

また沈黙。

「・・・まんがセレツェ、王位を放棄しては貰えんか?」

結論は出せ無かった。

悩み苦しむセレツェを置いて、ツェゲティは部屋を退出して行った。


その夜、二人の子供をベッドで寝かしつけた後、ングワト族の王は王妃と静かに話し合いを持った。

最後の夜であった。

王は言った、位を退くと。

これ以上ングワトには迷惑は掛けられない。

自分が退けばまた新しい王も選出する事が出来るし、自分も故郷に帰る事が出来る。

「何も無いけど良いところだよ、ングワトの土地は・・・」

「だから、ルース。もう王様でも王妃様でも無いけど、一緒に着いて来てくれる、かい・・・?」

王妃は言った。嬉しいと。

「私と結婚したせいで、あなたには迷惑を掛けているから、捨てられるのでは無いかと思っていたから・・・」

「そんな事は無い!君もジャクリーン、イアンも、何より大切な家族なんだから!」

王妃は言った。

私達は家族だから・・・

王は静かに泣いた。

この日から、セレツェ・カーマはングワト族の王では無くなり、ルース・カーマもまた王妃では無くなった。

しかしこの二人は、死するその時まで、離れる事は無かった。


この結論は次の日ツェゲティに伝えられ、準備を整えだした。

そうして8月、セレツェとツェゲティは共同記者会見を行い、両者の和解、及びセレツェの王位放棄を正式に発表した。

これを受けてイギリスははセレツェの帰国を許可を出し、南アフリカも黙認もくにんした。

この時、セレツェ・カーマ35歳、ツェゲティ・カーマ51歳。

そして10月、カーマ一家は帰国のいた。


南アフリカ、ヤン・スマッツ空港を降りて、マフィケング方面に移動中に、ルースは夫の気持ちが落ち着かないのを察していた。

マフィケングを越えてベチュアナランドに入ると、増々ますますせわしなく焦り出した。

子供たちは、イギリスとは丸っきり違うカラハリ砂漠の景色にはしゃいでいる。

「どうしたの?」

夫は一瞬驚いたような顔をして、直ぐに視線を下ろした。

「怖いんだ。私は結局、ングワトの議決を破った事になる・・・」

仕方が無かった。

しかしングワトの人々は一体どう思っているのか。

「大丈夫、大丈夫よ」

夫は少し微笑ほほえんだ。

セロウェに着いた。


南アフリカ国境から車で20時間かかって、一行はングワト政庁に到着した。

すると、ぐに人垣が出来て、セレツェの名が呼ばれ出した。

呆気あっけに取られるセレツェたちの前に、一人出てくる者が居た。

「お帰りなさいませ、セレツェ様」

その人は、自分はセレツェの後任に選ばれたングワトの新王であると名乗った。

慌てて即位の礼をささげると、セレツェはこの騒ぎの理由を尋ねた。

答えは、先王・セレツェを歓迎して居ると言う。

イギリスの(口には出さないが南アフリカの)横槍に最後まで抵抗したセレツェは、ングワトの英雄に他ならない、と。

「しかし・・・最後まで抵抗する事は出来なかったんだ・・・」

「あれだけ抵抗出来たのは、貴方様なればこそであると、皆が解っております」

するとルースが、後ろからそっと肩に手を掛けてきた。

「大丈夫、大丈夫よ」

セレツェは泣いた。そして歓声に応える事にした。

こうして、セレツェ・カーマとルース・カーマの結婚、そして王位継承の問題はここに決着した。

ベチュアナランドに、新たな家族が生まれ、平和にはなった。

しかし、程なくして、セレツェは再び政治の表舞台に立つ事になる・・・

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