アフリカの話~奇跡のボツワナと大陸の人々~

ラーメン大魔王

第1話 始まりはセレツェ・カーマ

ボツワナ、と云うクニの話をしようと思うが、正確にはそうでは無い。

ボツワナ、と云うクニを描いた話を、これから、する。

さてボツワナとは何処であろう。


だいぶ回りくどい事になるが、ボツワナの話をする前に、アフリカの話を少ししなければならない。

何故ならば、日本史を語る上では、アジア史と云うのはあまり必要にならないが、ボツワナ史を語ろうと思うと、どうしてもアフリカ史の中で語るしか無いからである。

アフリカは、多様性とう面で、他に匹敵するものの無い大陸である。

世界の主要な六つの人種の内の五つ、しかもその内の三つは完全に固有の人種で、世界の言語の四分の一はアフリカにしか分布していない。

それは、地理的多様性と、長い先史時代の産物である。

世の五大陸の中で唯一、南北二つの温帯に跨り、世界で最も乾燥した砂漠、最大規模の熱帯雨林、赤道地帯最高峰の山々も在る。

この500年間で、最も劇的な人口移動、バンツー語族の拡散とインドネシア人のマダガスカル島への入植も、アフリカが舞台だった。


しかし今日、アフリカの国を知っているかと、人々に問えば

小学生ならばエジプトと答えるだろうし

中学生ならばエチオピアと言うかもしれず

高校生にもなると、コンゴやリビアやケニア、を知っている可能性も有るだろう。

しかし話はそこで終わりで、結局のところ、アフリカと云う漠然とした概念が先行する事は間違がいない。

黒人、サバンナ、砂漠、ジャングル、内戦、飢餓、サバンナ、野生動物

大体このような概念を持っているだけの人々が殆どであろう。

結局のところ、アフリカの国々は、シャボン玉のようなもので、「国家」と言う概念の持つ厚みが薄すぎて、中に込められたささいな欲望だけが見えすぎる。

ヨーロッパの国々は、その中身を見ると大分似通っているのだが、しかしその殻の厚みと色彩の違いで、国家の違いを濃密に表現している。そうでなければ、EUと云うこの一大発明は結実しなかったに違いない。

アフリカの不可思議さは、そのシャボン玉の程度の厚み(言い換えると、住人の連帯感の薄さ)しか持たない状態が、もう五十年以上も続いている事であり、南スーダンやコンゴ動乱のような分離独立は有っても、どの国のどの支配者も、表立っての,国家一丸となっての対外戦争と言うものを行わなかった事である。

(例外として、中東戦争に参戦したエジプトの存在が有る。が、これはアフリカ史のくくりに入れるのは、少々話がずれてしまうだろう)

奇妙すぎてばかばかしい状態と言えるかもしれない。これが古代ヨーロッパならばローマ帝国に飲み込まれていただろうし、中華の乱世ならば一人の皇帝によって統一されていただろうし、近世の南北アメリカ大陸ならば、幾度いくどかの離散集合を繰り返した後に大国と小国に分かれていただろう。

何故か、考えてみたい。

ヒントの一つとしては、大体の国々は独立運動はしても、独立戦争はしなかった事が挙げられる。

また、その国境線を見ると、自然国境が少なく、まるで大陸の地図を見た誰かが、てきとうに線を引いて決めたように見えるだろう。

なかんずく、アフリカ世界の覇権国(ないしそれになろうとした国)が存在しない事も、忘れてはならない。

ボツワナはそんな中で、「国」と「クニ」の違いに悩み続けた、稀有けうな指導者を持ったクニかもしれない。

書類上の外交手続きとしての、文字としての国では無く

住んでいる住人の実感としての、言葉としてのクニ。

何も無いが、平和で、民族紛争も無く、飢餓も無く、政権交代は必ず選挙によって行われて来た、アフリカの奇跡。

これはそんなボツワナの歴史を描いた、有るやる夫スレについての、追慕ついぼである。


話は、なによりもず、セレツェ・カーマから始まる。

そうでなければならない。


セレツェ・カーマは1921年7月1日、英国保護領ベチュアナランド北部のセロウェで、第一王子として生まれた。

父はツワナ人8部族中最大部族であるングワト族の王、セコマ二世。

祖父はトランズヴァール共和国の侵略からツワナ領を守り抜いた名君、カーマ三世である。

1925年に父が亡くなったため、カーマは4歳にしてングワトの王(ツワナ人はコシ、と呼ぶ)となった。

とはいえ4歳で王の職務を務められる訳も無く

ングワトの民会(ツワナ人はコトラ、と呼ぶ)はカーマ三世の末子であるツェゲティ・カーマを摂政せっしょうに任命。

セレツェが成人するまでの間、彼がングワトを統治する事となった。

ツェゲティ、この時23歳。セレツェから見れば叔父に当たる。

ツェゲティは改革主義の政治家で、家畜の改良や中学校の設立等を行い、さらに白人優越主義の漲るこの地で、法を犯した白人に体刑を加える等、大きな治績ちせきを上げた。

とは言え、当時のングワト、いやツワナ人全体の富は大したものでは無かった。

ツワナ人は南のボーア人によって肥沃な南部を奪われ、カラハリ砂漠とその近辺の痩せて乾いた土地へと押し込まれていたのである。この歪な五角形をしたベチュアナランドには、北部のツォディロ山を水源とするオガバンゴデルタとチョベ川、東部と南部の自然国境となっている、乾季には涸れてしまうリンポポ川支流位しか沼沢と呼べるものが無く、他の土地は恵みの雨(その時、ツワナ人は、プラと叫ぶのだろう)を待ち望むしか無い地で、平均標高が1000メートルと、妙に高いのが特徴の、ただの平野地帯である。

ベチュアナランドが南アフリカに併合されなかったのも、此処ここが何の価値も無い土地であったからに過ぎない。

ジョン・ガンサーは、「アフリカの内幕」(1955)において

「アフリカがいかに空漠くうばくな大陸であるかを確かめたいと思うなら、まずはなによりもベチュアナランドを訪れてみるが良い」と言っている。

鉄道は国土の東端に一本だけで、その鉄道も外国のものである。舗装道路ほそうどうろは無く、学校も殆ど無い。

何よりも、穀物が殆ど育たない。

国土の75%は草地であり、森林は2%しかない。

こうした中、ツワナ人はわずかな草を食んで育つ牛に頼り、細々と暮らしていた。

当然、王と言ってもセレツェの暮らしもそこまで贅沢なものでは無かったが、生活に困る事は流石に無かった。

セレツェはそんな中、南アフリカにある寄宿学校へと通い、成長していった。

叔父のツェゲティとの関係も悪くなく、それなりに充実した学生生活を過ごしていたと言える。

サッカークラブを作ったり、白人優先の鉄道に乗り込んで騒動を起こしたりと、いくつかのエピソードは有るものの、少し鼻っ柱の強くて行動力の有る、普通の子供だったと言って良い。

やがてセレツェは南アフリカのフォートヘア大学へと進学。

当時のフォートヘア大は黒人全般の最高学府であり、黒人各民族の頭脳が集まって居た。

少し、この大学について語ってみたい。

この1916年に開学した南アフリカ共和国の南部、東ケープ州にるこの大学は、その当初より主に黒人を対象としていた。(白人は皆無だった訳では無い)

1959年に、悪名高いバンツー自治法が制定されるまでは、サハラ砂漠以南の、所謂いわゆるブラックアフリカのエリート達は皆競ってこの大学を目指して来た。

卒業生を見るだけでも、感嘆せざるを得ない。

本作の主人公であるセレツェ・カーマ(ボツワナ大統領)の他に、ロバート・ムガベ(ジンバブエ大統領)、ジョシュア・ンコモ(ジンバブエ副大統領)、ケネス・カウンダ(ザンビア大統領)、ユスフ・ルレ(ウガンダ暫定政権代表)、ジュリウス・ニエレレ(タンザニア大統領)、そしてアパルトヘイトに対抗して闘争を繰り返してきた、数多の黒人指導者達もまた、この大学の出身者なのである。

一体これ程の影響力の有る卒業生を送り出した大学が、世界の何処どこにあろうかと思うと、素直な感動が脊髄せきずいまでひたしてくれる。

キリスト教の宣教師たちが、その理念にそって作り上げてきたこの大学の輝かしさを思うにつれ、この世界宗教の、世界史において果たしてきた役割は、まさしく大である事を実感する。

当然、セレツェより三歳年上の、ネルソン・マンデラもここに通っている。(ただしこの頃にはウィットウォータースランド大学へと移っていた)

マンデラは、後年この大学を評してこう言った

「私のような南アフリカの若い黒人にとって、フォートヘアはイギリスのオックスフォードとケンブリッジ、アメリカのハーバードとイェール、それらを一つにしたような場所だった」

最大級の賛辞であろう。

あるいはこの大学以上に、ブラックアフリカの発展に寄与した組織は、存在しないかもしれない。国連ですら、遠く及ぶまい。

セレツェは1944年にここを卒業した。


フォートヘア大学を卒業したセレツェは、そのままイギリス本国への留学を決意する。

なんとオックスフォード大学へ進学してしまった。

これは、故郷のングワト族を預かる叔父のツェゲティにとっては予想外だったかもしれない。

この時のエピソードとして、こんな話が残っている。

ツェゲティがこう言ったというのだ

「お前も王になるんだから、そこまで真剣に法学の道に進まなくても良いじゃないか」

セレツェの答えはこうだ

「もしイギリスに王をクビにされても、弁護士の資格持っていれば、食っていけますよ、叔父上」

この会話を見ると、植民地の悲哀さがありありと浮かんでくる。

高々人口30万人程度の、貧相で未開発のベチュアナランドの一体何処に弁護士の働き口が有るのか。

つまりこの弁護士の資格とは、故郷に帰れなくとも、遠いヨーロッパで生きて行くと言っているのである。まがりにも王では無いか、この立場の弱さは何であろう。

とは言え、後世の妄想を抜きにすれば、この会話、この時はただの冗談だった、はずだった。


そして、1947年。

運命の時がやってくる。

六月だと言われているから、イギリスの平均気温は18度と最も過ごしやすいと言われている時期だ。当然の如くセレツェ青年も、緑繁るロンドンの街並みを散策していたであろう。

イギリスに来た時は未だ戦争中だったから、あちこちに瓦礫の残る街並みであったに違い無い。しかし戦争も終わって二年、石造りの建造物よりも、人間と植物の元気さが目立つ時期だった。

六月と言えば、北半球では夏だが、南半球のベチュアナランドでは冬である。

夏の日差しの中を歩くセレツェは、雪の事を思っていたかもしれない。

西岸海洋性気候と言う、妙に過ごしやすい気候にあるイギリスであるが、しかし雪は程々に降る。と言っても10cmも降れば大雪だ、と言う程度だが、ベチュアナランドでは、冬は乾季にあたる為、まず雪など降らない。

そんな事を思っていると、向かいから一人の女性が歩いて来た。

ルース・ウィリアムズである。


この時、ロイズに勤めていた彼女に対して、セレツェ・カーマは一体どう言う口説き文句を使ったのだろうか、と考えるとひどく愉快ゆかいな気分になってくる。

映画ではこの二人は、どうやらダンスホールで出会った事になっているようだが、ここでは道端で出会った事にしておきたい。

まだ黒人が珍しい時代である。

当然、セレツェの口説き方はイギリス的であっただろう。

ハロッズ(百貨店)にでも行きませんかと、と言ったかもしれないし、あるいは穏当おんとうに、アフタヌーンティーに誘ったのかもしれない。

穏当と言うのならば

「I’m not trying to chat you up or anything. Not that you’re not worth chatting up」

(別にあなたを口説こうとしている訳じゃないんです。勿論口説くに値しないと言う意味ではないのですが)

とでも言ったかもしれない。少々くどい言い方だが。

兎も角、二人は交際を始め、一年後には結婚に至る。

きっとトレンチコートも着て、冬のデートにも行ったのだろう。

しかしそれは、叔父のツェゲティ・カーマの強い反対を受けただけでなく、人種差別主義を執る南の隣国・南アフリカ連邦(1961年まで連邦制だった)にとっても到底受け入れられないものであった。

この結婚は、やがてベチュアナランドのみならず南アフリカや宗主国イギリスをも巻き込んだ、大政治問題と成って行き、セレツェの人生にも大きな影響を与えて行く・・・


セレツェとルースの結婚は大きな波紋を呼んだが、先ず最初に反応にたのはングワトの摂政である叔父・ツェゲティであった。

彼は改革派の政治家だったが、家族観は古いものであり、ングワトの王たるものが、保護者の決めた結婚では無く恋愛結婚を、しかも自分の許しも得ないままに決めた事に、ひどく腹を立てていた。

また彼はセレツェの相手はツワナ人内からしかるべき相手を探すべきであり、イギリス人女性などとんでもないと考えていた。

あるいは、その相手はセレツェの好みでは無かったのかもしれない。

また、白人女性と黒人男性との結婚によって、強大な隣国・南アフリカ連邦との関係が極度に悪化する事を恐れた、政治家としての判断も有った。

当時の南アフリカの首相はダニエル・マラン。

この男から、アパルトヘイトの開始していく時期に当たり、人種間の問題には極度に敏感になっていた頃であった。

この当時既に、改正背徳禁止法の施行、黒人隔離区の拡大、と黒人の権利の制限は始まったばかりだった。

他国とは言え、ここで異人種間の婚姻など、認めるはずも無かった。

即座の離婚を迫るツェゲティ、断り続けるセレツェ。

激論が交わされたが、決着は着かなかった。

それに、そもそもこの件は王家だけで決着が着けられる話でも無かった。

ツワナ人八部族は、どれも徹底した民主制を布いている。王とえど民会(コトラ)での決議無しにはどんな事も出来ない。

そして今回、ングワトの民会は如何なる判断も下してはいなかった。

その為、セレツェとルースの結婚を認めるかどうかの民会が、急遽きゅうきょ開催される事が決定される事となり、セレツェの元には出頭要請が届いた。

こうして1949年、彼は再びベチュアナランドの土を踏む事となった。

ングワトではすでに二回、民会が開かれていた。

1948年の11月15日から19日、12月28日から29日にかけて開かれた会議では、セレツェの王位継承は望むが、結婚には反対と言う結論が出ていた。これまでのところでは、ツェゲティが優位に立っていると言えるだろう。

しかしセレツェ本人が参加する三回目の民会こそが最終的な結論を出す場となるのは明らかであり、この民会はングワト氏のみならず、全ベチュアナランド、それどころか世界が注目するものとなっていた。

「黒人の王子と白人女性の許されざる恋」と云うものに、当時はそれ程のニュースバリューがあったのである。何しろ、アメリカで公民権法が制定されるのが1964年の話であり、この話は今、その15年前を舞台としているのだ。

当然として各国の報道陣、他七部族からの使節団、その他諸々の人々、約一万人が集まり、ングワト首都セロウェは時ならぬ喧騒に包まれていた。

ングワト民会は、この状況で開会されたのである。

6月20日の話である。

先ず口火を切ったのは、摂政のツェゲティだった。

「ツワナの王はツワナの中から結婚相手を選ぶべきだ!」

伝統は大事にするべきだ、と言う立場であり、もしも伝統の護持者ごじしゃたる王がその民族、部族の伝統を蔑ろにするならば、それは共同体の崩壊に繋がりかねない。

「国外の平民、しかも白人と婚姻を結ぶべきでは無い!」

語気は益々強くなる。

「もしこの結婚を強行するのなら、彼は王位から降りなければならない!」

この主張は、彼の本音であったろうし、その場の保守派の人々の心理に効果的であったろう。ただこの人は、真実この困った甥っ子を可愛く思っていた節が有り、頼むから王位を放り出すなんて言わないでくれ、と思っていただろう。


セレツェの反論が来た。

「結婚は個人の自由意志でするものである!」

個人の自由意志、これはその後もセレツェの、ボツワナの歴史に深く刻み込まれていく言葉である。

「相手が居ないのならば兎も角、私はもう結婚してるのだ!」

負けずに語気が荒い。

「王位に相応しく無いと言う理由で離婚させられるなんて納得出来ない!」

「それに彼女は十分な教育を受け、私と出会う前はきちんと働いていた」

「彼女もこの地に骨を埋める覚悟は有る!間違いなく彼女は王妃に相応しい女性である!」

セレツェの主張もまた、会衆の支持をそれなりに受けていた。

双方の主張が成されたところで、議論は終了し、採決は行われた。

6月26日、結論が出る。

セレツェの勝利である。

セレツェ・カーマの王位継承、並びにルース・カーマの王妃就任は可決され、閉会となった。ングワト、並びにツワナ人全体として、この結婚は法的に承認され、正式なものとなった。

閉会後、セレツェは直ぐにツェゲティのもとに駆け付けた。

この叔父の事を心から敬愛しているセレツェにしてみれば、ことえたならば、関係を一刻も早く改善したかったのだ。

恐ろしい程に赤々あかあかとした夕日が照らすカラハリ砂漠の中で、二人の男が立っている光景を、ここでは考えてみたい。

固い地面の細かなひだとぼしく生える草花、濃厚に香る野生スイカの青臭さ、わずかにうろつく牧牛、夕日はそれらを照らし切れず、空の明るさに対して、大地は怪しい程に暗かっただろう。

外国の報道機関が来ている以上、二人は西洋風のスーツに身を包んでいたはずである。

最早影の方が強い時間帯だ。


「叔父上・・・」

謝りたかった、そうしようとした。止められた。

「そんな顔をするな、セレツェ」

黒い肌は、お互いに闇に紛れやすい。ツェゲティは続けて言った。

「わしは認められないが、民会(コトラ)で正式に決めた事だ」

セレツェには、叔父の白い歯だけが、暗がりに浮かんで見えた。

「・・・お前がングワトに戻って来たら、わしはクウェナ族の地に移住しようと思う」

「そんな!」

驚いたセレツェは、そこまでしなくても良い、これからも自分を補佐してれと頼んだが、ツェゲティは受け入れなかった。

「王に盾突いてングワトを混乱させたのだ、この位の責任はとらなにゃならんだろうよ」

セレツェは泣きそうになった。だが泣かなかった。もう自分は王なのだ。

「・・・南アフリカの動きだけが心配だ。無事に済む事を祈ってるぞ」

セレツェは声だけで泣いた。

「・・・お、・・・叔父上・・・」

「なあに、お前が戻って来るまでは未だ摂政だよ。早いところ留学を終えて帰ってきなさい。王が居ないのでは、ングワトの民が困る」

そう言うと、ツェゲティは、日も暮れたカラハリ砂漠の中をゆっくりと帰って行った。

待ってるぞ・・・

最後にツェゲティが言った言葉は、叔父としてだろうか、それとも摂政としてだろうか。

どちらでも良かった。

セレツェにはどちらでも嬉しかった。自分の故郷は、このベチュアナランドなのだ。

帰るべき場所は此処ここなのだ。

感情の全てを飲み込んで、まずは妻の元へ帰ろう。

砂漠の夜空は、ただ美しい。

南十字星が輝いていた・・・


こうしてセレツェの王位継承は、ツワナに於いて正式に承認され、セレツェは卒業の為にオックスフォード大学へと戻った。

しかし、ツェゲティの危惧きぐの通り、南アフリカ連邦はこの件に公然と介入し、セレツェの人生に大きな影響を及ぼす事となる。

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