I Whisper to You.

 初めて彼女と出会った日。まず困ったのは意思疎通の方法だった。どうも身振り手振りだけでは伝わらないことも多く、かなり気力を持っていかれた。

 かと言って彼女が別の言語を使っているとは考えにくかった。彼女が声を発する時、乳幼児のような「マンマ」や「アー」といった言葉にしか聞こえないのだ。


 次に悩んだのが、生活する上で必要なこと。食事や風呂、睡眠だ。


 衣服は僕のシャツを貸している。出会ったばかりの服装 ── 布切れ一枚 ── はさすがに可哀想だったからだ。


 食事はとりあえず私達が食べるのと同じものを差し出したら、普通に食べた。箸は使えなさそうだったので、フォークを差し出して目の前で実際に使ってみせた。そしたらすぐに使い方を覚えた。ちなみに魚は平気で肉がダメだった。これはまあ、予想通りだ。


 風呂は……やめておいた。女性を風呂に入れないのは失礼だぞ! とかいう声が聞こえてきそうだが、考えてみて欲しい。

 人魚は冷たい海 ── 例外はあるかもしれないが ── で暮らしているかもしれない。実際に、家の近くの海に浮かんでいたのを見つけたわけだからこれは間違いなさそうだ。お湯に入れたら体調を崩す可能性がある。下手に入れることは出来なかった。

 なので、シャワーの使い方だけ一通り教えた。僕は臭いと思われても嫌なので入ったが。


 睡眠は、ベッドを人魚に明け渡して解決することにした。男の使ったもので申し訳なかったが、他に方法がなかった。ちなみに僕はソファーで寝る。彼女の尾鰭が治るまでの辛抱だ。




 〇


 次の日。休みなので特に早く起きなければならない、という訳ではなかったが何故か朝早くに目覚めてしまった。人魚の存在が昨日の白昼夢であることに若干期待をしつつ、横を見た。

 普通にいたため、昨日の疲れがどっと湧いてきた。夢ならばどれほどよかったでしょう。

 今更ながらも現実逃避をするように視線を逸らし、朝食の準備を始めた。


 朝食が出来た頃になって、彼女は目覚めた。足、と呼んでいいのかは分からないが人間で言うと膝に当たる部分で器用に立ち、ぴょこぴょこ飛び跳ねながらキッチンの方までやってきた。見た目はどちらかというと「美しい」という言葉が似合いそうなのに、その動きは「可愛らしかった」。

 心臓を飛び跳ねさせながらも、こう言った。

「危ないから向こうで待ってて」

 すると彼女は首を傾げた。そういえば言葉が通じないんだった、と思い当たり、伝え方を変えた。人魚をまず指差してからベッドの辺りを指差した。それだけで伝わり、彼女は方向転換してベッドの方へと戻っていった。

 昨日より理解力が上がっている事に少し喜びを覚えつつ、朝食を運んだ。


 朝食を食べている時、考えたことがある。人魚には理解力がある。それなら、言葉も教えれば覚えられるのではないか? しかも今は夏休みの初めだから、大学の課題等のやるべき事も後回しで良い。

 思い立ったが吉日。朝食を済ませてから、机の上にあるパソコンを開いた。そしてネットで手頃な価格かつ分かりやすそうな絵本を調べた。何故絵本なのかというと、文字に絵がついていて教えやすそうだと思ったからだ。今すぐに手に入れたかったので、電子書籍版を購入した。

 ちなみに今、人魚は部屋の中を物色している。危ないものは特にないし、ちょっとアレな本とかも置いている訳では無いので好きにさせている。

「ねえ」

 そんな彼女に対して声をかけた。「意味」が通じる訳では無いが、「意図」は通じる。呼ぶだけなら別段、問題は無い。

 電子書籍版の絵本と部屋にあるものを利用しながら、教え始めた。




 〇


 数日後。今、僕は何をしているかと言うと、ギターの練習をしている。人魚に言葉を教えていたんじゃないのか、って? 

 確かに初めは教えていた。だが、彼女の理解力と記憶力があまりにも高いのだ。ちょっと教えただけで一通り文字は読めるようになった。発音はまだ下手なのか、片言。それでも、辞書にある簡単な漢字は結構読める。


 すると、僕のTシャツを着た人魚が話しかけてきた。あ、一応言っておくが洗濯したものを渡してある。

「ねーねー、これ、何、曲?」

 ほら、この通りだ。

 改めて、彼女が人間とは違うことを思い知った。理解力に関しては、「人魚だから」というわけではなさそうだが。


 ……本来なら数日前の時点で海に帰すべきだったのだろう。しかし、彼女の尾鰭は未だに治っていない。包帯は一応巻いてある。

 ちなみに彼女に逃げる様子がないので、とりあえずはこの家においている。そもそも彼女に帰る場所はあるのだろうか……? 


 思考に耽っていると、頬をペちっと叩かれた。慌てて人魚の方を見れば、頬を膨らませていた。

「話、聞く!」

「ごめん、ぼうっとしてた。何だっけ」

「曲!」

 一つ補足すると、彼女は発する言葉が片言であっても、僕の言葉は普通に分かるらしい。こちらまで彼女に合わせて片言になる必要がなく、地味に助かっている。これ以上は話が逸れるので、そろそろ彼女の質問に答えることにする。

「ああ、ほら、まだ練習中って言ってたやつ」

「進む、どこ?」

「……えーと」

 たまに彼女の言いたいことが分からず、こちらが詰まることもある。そういう時は決まって、彼女は眉を下げて少し困った顔になる。

「あ、どこまで弾けるか? ってこと?」

 考えた末に彼女の言いたいことを当てると、必ず彼女は嬉しそうにうんうんと頷く。彼女はとても感情豊かで、見ているこちらが楽しくなる。

「結構進んだけどまだまだだよ」

「聞く!」

 人魚がずいと顔を近づけてきたため、どぎまぎしてしまう。別に好みが人とずれている訳ではない。単に彼女の美しさに思わず緊張してしまったのだ。

「わ、わかった。ちょっとだけね」

 そう言いながら、例の曲の演奏を始めた。前奏が、さざ波が次々と打ち寄せるような音に聞こえるアレだ。

 前奏が終わり、Aメロに入る。この辺りの音の雰囲気を一言で表すなら、「明るい」だ。夏の日差しに照らされて輝く恋、を表しているとも言えるだろう。だが後半に差し掛かると、その雰囲気に影が差し始める。音に切なさが混じる。

 やがてAメロが終わり、Bメロに入った……ところで間違えてしまった。

「あ''っ!」

 人魚はビクッと身を震わせた。

「ごめん、間違えた。練習不足だ……」

 そう謝るも、彼女は首を振った。

「大丈夫、楽しい!」

 彼女はぱあっと明るい笑顔を見せて言った。初めて出会った日に見せてくれたものと全く同じそれに心臓を再三飛び跳ねさせた。


 最近こういうことがよくある。この気持ちは一体なんだろうか。

 それにしても以前ドキッとしなかったのは、人魚の存在に困惑しながらその表情を見たからだろうか? 


 その思考を掻き消すように、僕はあることを思いついた。

「ねえ、海行かない?」




 〇


 どうして僕は今までこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。別に尾鰭を怪我しているからと言って、泳げないとは限らない。ましてや、彼女を保護する義理だって無いはずだ。

 うーん、変な優しさがあるから大学で告白されがちなのかな……自分で言うのも変だが。

 人魚はと言うと、「海」と聞いてはしゃぐ訳でもなく、ただ大人しい。僕についてきている……のではなく、僕が彼女をおんぶしている。別に恥ずかしさはない。

 ちなみに、出来る限り人通りの少なそうな路地裏を選んで歩いている。自宅から海まで歩いて数分とはいえ、その途中で誰かに会わないという確証がない。一人でいるならまだしも、「人魚」という得体の知れない生物を連れているのだ。今が朝だったら、常日頃から散歩しているおかげで基本誰もいないと分かっている。だから堂々と道を歩けるのだが……。


 やがて海に着いた。太陽が若干斜めに傾いており、黄昏、と言うにはまだ早いが夕方になりかけていた。まだ空は青く、海の輝きは留まるところを知らない。

 この海はこんなにも美しいと言うのに、何故か誰もいない。今はむしろそれが好都合なのだが。

 砂浜に人魚を降ろしてやり、尾鰭につけたままの包帯を取り除いてやる。

 人魚は切れ目のまだ残っている尾鰭を器用に振って動きを確かめた。その後、所謂膝立ちの姿勢になってぴょこぴょこと海に向かい始めた。

 それを僕はその場に座って眺めている。このまま去っても良かったのだが、そうしてはいけないような気がした。


 途中でつまずきながらも人魚は海の縁へとたどり着いた。波がざぱんざぱんと音を立てて縁の形を変えてゆく。彼女はその様子をしばし眺めた後、その場に座り込んだ。体育座りのような体勢である。彼女は魚のような尾を海に浸すと、それを軽くバタバタと上下させた。小さな飛沫が辺りに飛び散る。人魚の身体をも濡らしつつ、太陽の光を反射している。

 そんな彼女の様子を見て、遠目からでも美しいと思った。「人魚」ではなく、「天使」。いや、「女神」ことビーナスなのではないかという錯覚すら覚えさせた。

 人魚は突然こちらを振り返った。何かを言っているのが見えた。

「何?」

 大きめの声で聞くと、こう返ってきた。

「おいで!」

 その言葉に従い、彼女の元まで行った。彼女のそばに立ち、海を眺める。……今日はいつにもまして、波が落ち着いている。


 ふと、彼女を連れて海に飛び込みたいという衝動が湧いてきた。別に嫌がらせをしたいとかそういう訳ではない。言語化が難しいが、つまりは彼女と戯れたいということだ。決して、イチャイチャではない。彼女を好きだというわけでもないし。

 早速、実行に移してみた。人魚の腕を引き、海の方をもう片方の腕で指し示す。彼女は何か楽しいことでもするのだろうと期待しているようで、目を輝かせている。それを肯定と受け取り、僕達は海に飛び込んだ。


 冷たい水。服の濡れた感覚。暑い夏の陽射しが気にならない。気持ち良かった。


 ぷはっと水面から顔を出せば、彼女も同様にしていた。沖まで行ったわけではないので十分足のつく浅瀬にいる。これなら、彼女が泳げるかどうかの心配も要らない。

 いや、余計なことは考えるのをやめよう。今はただ──彼女とこの悦楽を共有出来ればいい。


 天使のように美しい人魚。どうか、僕の前から消えないで。

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