5 落日

 時が止まる。


 勇者ソラリス。『光もたらす者ライトブリンガー』。


 ソラリスは泣いていた。端正な顔にさめざめと涙を流しながら、目の前に突っ立っている黒焦げの人体…シグだったものを見つめ続けていた。


 生きているかもわからぬその物体に、ソラリスは囁きかける。


「闘いの最中さなか、魔王は言っていた。いつかこの地獄が終わる日が来ると」

「魔王が生まれ、勇者が生まれる。永劫無限の闘争。この恐ろしい円環を打ち破る者が現れる。そう魔王は信じていた」

「神の企みの外にある者。取るに足らない者。何者でもない者。あるいは何者にでもなれる者。それがあなた」


 ――どうでもいい。疲れた


「限りなく低い可能性の隙間を抜け、円環を破り、あなたはここにいる」

「あなたは、わたしを捕え操っていた神の頸木くびきを断ち切ってくれた。わたしがこうして自由意志で動けるのが何よりの証拠」


 ソラリスが、シグに手を差し出す。

 その手には、虹色に輝く宝石があった。


「魔王の魂の欠片かけら。あのとき、あなたを呼んだもの。あなたをわたしの元に導いたもの」


 ソラリスはシグを優しく抱き止めながら、焼け焦げた胸に宝石を押し当てた。


 ――やめてくれ。

 ――もう死なせてくれ。


「死なせない。あなたはわたしに叫んだでしょう。言葉にならない何かを叫んだでしょう。あの叫びを聞いて、あなたを見過ごすことなんてできない。こんな結末バッドエンドは、わたしは認めない」


 ――おまえは――


「これからは、わたしが側にいる。このくそったれの世界にくそったれの神に、わたしたちの生き様を刻み付けてやるんだ」


 宝石が輝きを増し、シグの胸の中に溶け込んでいく。


 二人の影が、輝きの中に溶けていく。


 時が動き出した。



 ***



 かくして魔王は勇者により滅ぼされ、魔族は大陸より追放された。


 勇者は魔王と相討ちになったとされた。勇者と共に旅立った精鋭たちも、ほとんど生き残ることはなかった。民衆はその偉業を称え、勇者と英雄たちの死を悲しんだ。


 一方で勇者と直接関与した、勇者の権能に支配されていた王侯貴族は皆一様に口をつぐみ、ソラリスについて語ることは全くなかった。


 勇者に忠誠を尽くした戦士たちも、そのほとんどが狂死、失踪などで姿を消した。歴史家がソラリスの実像を結ぶことは極めて困難となった。



 ***



 雨が降っている。


 城塞都市、大公殿の一室。


 ラータはベッドから上半身を起こし、雨に打たれる窓から城下街を見つめ続けていた。城下町は未だ戦勝祝いのセレモニーが続いている。薄暗い曇天の中にあって、雨霧にけぶる大通りはむしろ明るさを増しているようだった。


 魔王城から助け出されたラータは当初半狂乱で、身体に包帯を巻くことすら困難だった。そしてその後も意識混濁でうわ言をつぶやき続ける状態が続いていた。


「ラータ…」


 意識を取り戻したラータに呼ばれ部屋に入ってきたのは、枯れ枝のように瘦せこけた、疲れ切った老人。かつて剣豪として名を馳せた大公の姿は、見る影もなくなっていた。


「ああ、おとうさま」


 窓から視線を外したラータが、大公に向かいほほえむ。


「聞いておとうさま。わたしシグに会ったのよ」


 うっとりと微笑みながら、ラータは言った。大公は目を見開き、ラータを驚きの表情で見る。報告では火兵部隊は全滅。生き残りどころか焦げた肉片がわずかに残るのみだったという。


「……」

「懐かしかった。おとうさま、憶えているでしょう?わたしが小さい頃、攫われそうになったときのこと」

「…」

「あの頃のわたしは泣き虫で弱虫で。シグが現れてわたしを連れ出してくれなかったら、きっと…運命ってこういうことなんだと思ったわ。神様が私たちを引き合わせてくれたのだと」

「…」

「それでね、わたし彼の胸に飛び込んで、わたしね…」


 ラータは手を伸ばした。まるでその先に誰かいるかのように。


「わたしね、彼を刺したの。」

「もうよい」

「彼は昔みたいに私を抱きしめてくれて。とっても暖かかったわ。そしてね、わたし死ね死ね死ねって言いながら、彼を刺したの。どうしてそんなことしたのか、よくわからないのだけど」

「ラータ、もうよい…」


 よろよろと大公が近づき、ラータを抱きしめる。ラータは泣き笑いの貌で虚ろに空中を見つめていた。焼け爛れた顔の右半分から血の涙を流しながら。


「わたし、わたし、なんてことを」

「ラータよ、すまない、すまない…」


 薄暗い部屋の中で、父娘の啜り泣く声がいつまでも聞こえている。窓の外では佳境を迎えたパレードの煌びやかな光がちらついていた。


 翌朝、ラータは姿を消していた。


 部屋の調度品は狂ったように荒らされ賊の襲撃が疑われたが、真偽不明であった。同時刻、足を引き摺り歩く襤褸ぼろをまとった人影が城門を出てゆくのを見たという者もいたが、いまだ戦傷者の数も把握できぬ中、だれも気を払う者はいなかった。



 ***



 魔王城の跡地。


 崩壊した廃墟の地下深くに存在する、巨大空洞。


 溶岩はすっかり冷え固まり、遥か頭上の天蓋は崩れ去って、か細い光が差し込んでいる。


 眠るような沈黙と静寂の空間の中、崖の淵には溶けかけ錆付いた大盾が、まるで墓標のように地面に傾いて突き刺さり、天蓋の裂け目から差し込む光のカーテンに照らされていた。

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