4 紅蓮
かつての婚約者は、今なお美しかった。
艶やかな長い髪。かつてなら決して身に着けなかったであろう煽情的な鎧から覗く肌は、白磁のように滑らかだ。
シグの腕の中で、ラータは顔を上げる。
潤んだ瞳。朱に上気した頬。
かつて守り抜くと誓った人。その艶やかな唇から、吐息のような囁きが漏れた。
―ああ、シグ。生きていたのね。
―本当に面倒な男。
シグの背中から、黒刃の刀が飛び出していた。
ラータの刀に心臓を貫かれたまま、シグは虚ろな顔で視線を彷徨わせる。
魔王城地下、最深部。
城そのものすら凌駕する、巨大な天然の空間。天蓋ははるか頭上で闇に消え、見通すことはできない。崖下で煮え立つ溶岩の灼熱が、光源のすべてである。
断崖の淵に、大剣を無造作に下げた勇者の背中があった。
めりっ
シグの心臓が破滅の音を立てた。ラータが付きこんだ刃を捻じったのだ。
―ほんと、火兵って頑丈よね。
昔と変わらぬ、気安い調子でラータは語り掛ける。高貴な血筋であるにもかかわらず、そういう物言いをする彼女を、かつてシグはこの上なく愛おしく思っていたのだ。
シグの意識が混濁し、全身の力が急速に抜けていくのを感じる。ラータの黒刃から滲み出る虚無の力が、シグの力を飲み込み始めていた。
霞む視界の中、勇者が振り返った。
溶岩から吹き上げる熱風に、勇者の巻き毛が踊っている。何人も近づけぬほどの熱源でありながら、その美貌は彫像のように微動だにしない。魔王との戦いは壮絶だったのか、豪奢な鎧は大きく破損し、勇者自身も血と泥に汚れている。それでもなお、勇者は狂おしいほどに美しかった。
―ああ、きれいな顔だなあ。
シグはそんなことをぼんやりと考える。
もはや怨みはない。
火兵となってからシグの人生を支配したのは痛み、死への恐怖、激しい生存競争。復讐などむしろ邪魔な雑念といえた。
おれは、何しにここへ来たんだろう。
めりっ
シグの心臓がまた破滅の音を立てた。ラータが付きこんだ刃をさらに捻じったのだ。ラータが囁く。
―あなたが生まれてきたのは間違いだったのね。これはきっとそういうことなのよ。神さまがそうおっしゃっているのよ。
―おれが間違っている。おれが間違っている…
―ああ、そうだった。きみの一言で思い出したよ。
―おれがここへ来たのは。
―『
泥水をすすり、わずかな霊薬の分け前をめぐって仲間割れをする。お互いに憎しみこそあれ、火兵同士の絆など皆無。『墓石』を担ぐたび身体が悲鳴を上げ、間接は変形し、恋人には捨てられ、心臓を貫かれ…
誰もが目を背ける生き様。誰もがああはなりたくないと言うだろう。
それでも。
おれはこの世界に生きたのだ。
全身全霊の人生だったのだ。
それが間違いだったなどと、誰にも言わせない。
勇者にも。
神にも。
お前にもだ。ラータ。
シグの心臓が、ぶるりと跳ねる。全身の血管が拡張し、痛いほど鮮明になった視界の中、勇者がわずかに小首をかしげるのが見えた。シグは目を細めた。
何かがおれを呼んでいる。
声なき声が、
「!?」
危険を察知したラータが、シグの腕を振りほどいて後退しようとする。シグは嗤った。
閃光。
爆発。
黒刃の虚無を消し飛ばし、灼熱の突風がシグを中心に吹き荒れた。
「ぎゃアあアァアァあああああ」
吹き飛ばされ、全身を炎に包まれたラータが、絶叫を上げ転げまわっている。
元恋人を尻目に地面を踏み抜くと、シグは勇者を目がけ疾走する。自爆しても五体が残ったのは、ありったけの霊薬を打っていたせいか、ラータの黒刃で力を抑えられたせいか。あるいはもっと仕様もない偶然かもしれなかった。
どうでもいい。シグは疾走する。
燃えろ燃えろ。
どいつもこいつも燃えてしまえ。
ぼんと音を立てて右目が吹き飛ぶ。空っぽの眼窩から青白い焔を吹き出しながら、シグは加速し続ける。
―加速が急速に鈍った。身体が重い。
勇者の防護障壁。
竜王の
シグを、このちっぽけな奴隷兵を押しつぶさんと、圧倒的な力が前方から襲い掛かる。
それでもなお、シグは嗤った。一歩、また一歩。燃え盛る脚を踏み出す。
おれは炎だ。
おれは炎だ。
怒りでも憎しみでもなく、ただひたすらに己の存在を叫ぶ者。このどうしようもない世界に、己の存在を焼き付けてやる。
『墓石』を構える。
何かがおれを呼んでいる。
声なき声が、
地面を蹴りつけ、跳躍。
魔王でさえ竜王でさえ届かなかった防護を突き破り、シグは一条の紅蓮と化して勇者に激突した。
勇者の表情が初めて、驚愕に染まる。
シグは嘲笑った。
ざまを見ろ、
勇者と奴隷兵。
2つの影が絡み合いながら、溶岩の灼熱に落ちていった。
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